IT革命と印刷・出版メディア

2001-2-28 水曜日

ポット出版 沢辺均 :http://www.pot.co.jp/

 去年の10月29日に、出版労連と全印総連と共催したシンポジウムで話をさせてもらった。今回は、それをまとめてみました。

 今回の「IT革命と印刷・出版メディア」というシンポジウムのテーマを聞いて「ああなるほど。これほどIT革命っていうのはみんなにインパクトを与えて、脅かして、危機感を持たせてる、そういう言葉として1人歩きしてるんだな」って言う感じがした。

 僕自身は「けっ!」て言う感じです。

 例えば百姓が自分で作った米を、ネットワークを経由して直販したとしても、日本のコメ消費が2倍に増えるなんてことはありえない。インターネット・IT革命に乗れば景気がもっとよくなるといったことは基本的にないと思う。

 町の米屋さんの売上げがやや減って、直販とかネット上の店の売上げがやや増える。

 販売がネットにシフトしてしていく率が一定ある程度の事にすぎなくて、そう言う時に「いいシステム作れますよ」「パソコン売ってますよ」っていう業種がちょっと伸びていくにすぎない。この程度の「IT革命」にビビルのはちょっと違うんだろうろと思う。

 SOHO(スモールオフィス ホームオフィス)だの、「在宅で仕事ができるようになるんじゃないだろうか」というもてはやされかたもされているけど、物を動かさなければ仕事にならないんだから、みんながみんなパソコンのまえに座って仕事になるワケがない。

 ポット出版では宅急便とバイク便の経費が増えている。たしかに、打ち合せは減ってる感じはするが、指定紙だとかMOをバイク便で送るとかいったものが増えている(バイク便も安くなって、都内千円くらい。社員が動くよりそっちのほうが安いんじゃないかって言う事でどんどん増えている)。

 結局、だれかが物を動かしてくれなければ我々の仕事でもなりたたない。

 米を食べるには誰かが物を運ばなきゃいけない。この事態は変わらない。

 ネットで米を売る事はできるけれども、ネットでコメを運ぶ事はできない。ここに決定的に従来と変わらないところがある。

 入口、出口がネットワークにちょっとだけ肩代わりされる。これがIT革命の中でeコマースだのと言われていることで、その程度のものなんだろうなと思っている。  ただしIT革命、コンピュータやネットワークが、僕達の社会になんの変化も及ぼさないかというと、これはまだわからないというのが結論なのだ。  ネットワークとコンピュータ社会によって、社会のありようが革命的に変わっていく可能性もまだまだある。

 例えば電子メールというメディア。

 大昔は直接ことばで連絡しあっていた。それから手紙(文字)というものを送り合うようになった。電話ができて再び声でコミュニケーション、意思疎通をするようになった。その間にファックスやポケベルなども使われた。

 そして今僕は、電話なしの仕事が考えられないように、ファックスなしでは仕事にならないという体になっているのと同じように、電子メールがないと生きられない体になりはじめている。

 電子メールなどのインターネットという道具が、言葉→手紙→電話のような、メディアの単純な変更なのか、人間同士のコミュニケーションの有り様を根本的に変えてしまう特別な力を持っているものかは、現時点で僕にはわからない。わからなくて良いと思うし、わからないとしておくほうがいいと思っている。

 無理して結論を持つよりも、とりあえず楽しんで使ってみればいいのではなかろうかと、僕は考えている。

●アマゾンコムから学ぶこと

 『アマゾン ドット コム』という本が日経BP社から出たが、僕にはとても面白く読めた。  アマゾンドットコムも最初は無在庫で商売をやろうとしたそうだ。そういう「ビジネスモデル」を立てたらしい。

 ところが今どういう事態になっているか。倉庫に在庫をいっぱい集めるように転換している。

 ネットで注文を取って、その都度版元に注文をだせば、在庫を一切持たずに商売できるんじゃないかとはじめたものの、やっぱり在庫を用意しておいてお客さんに届けなきゃ、全然駄 目だったというのが、この間のアマゾンドットコムの変化であるというのが1つ。

 2つ目に、アマゾンというサービスはなにかということ。

 インターネットとかコンピュータだとかに特有のサービスではなくて、普通の当たり前のサービスをやろうとしたことである。そのサービスの1部には、確かにネットワークとコンピュータがなければなかなか実現できなかったお客様思いのとても良いサービスを思いついたりはしているが、要はコンピュータとネットワークが仮になくても、学ぶべきことの多いサービスだと僕は思っている。

 ワンクリックで注文できるようにした。返品自由にした。スタッフを雇って書評をどんどんつけたし、読者が書評を書けるようにもした。 普通の本屋さんでも経費や手間の問題を除けばやっても良いし、やってる本屋もあるだろう。POPだってある種書評の1つ、本屋で自分なりの書評を書いて配っているチェーン店さんなんかもある。これらは別にネットがなくてもできたこと。それをきちっとやったのがアマゾンだったと、僕は読んだ。

 ただし日本の状況と決定的に違うのは、値下げができたということ。よく言われているように、それでシェアを伸ばしていったというのも事実だとは思う。しかし、これもネットだから実現できたことではない。もちろんその要素がゼロとは言わないけれども普通の店でもできたと僕は思う。

 ネット特有のことはしてない。そういうことから言うと、ぼくらの商売で学ぶ事はいっぱいあるかなと思う。

●ネット書店全体の現状

 折角なので、数字を幾つか拾っておいた。

  1999年の雑誌と書籍の総売上は、2兆4600億くらい。日本国内のオンライン書店全体の売上げが、60億程度のようで、0.25%くらいである。  全体としてはまだその程度なので、「その程度だぞ」ってナメていてもよくて、過剰な反応はしなくてもいいと思う。

 あまり紹介されていない面白い数字で、京都の三月書房という書店がやっている電子メールとウェブサイト(ホームページと同じ意味)を使った通 信販売の売上げデータがある。

 三月書房は本当に町の小さな書店さん。以前から、出版社向けに「販売情報」という紙を発行していた。きちっと配本を確保するためだそうだ。まず、それを電子メールで発信し始め、ウェブサイトをつくった。

 ウェブサイトといってもデータベースも何もない。ただの商品目録の羅列みたいな、一番原始的な、本当に素人が作ったというウェブサイトだ。  インターネットを使う前の通信販売の注文は月に10件ちょっとだった。それが2000年の1月は2件、2月が10件、3月が10件、4月が12件、5月が28件、6月が30件、7月が42件、とのびて、12月には70件。

 町の書店がネット書店にたいして、そんなにビビル必要ないといったけれども、逆に3月書房ができる範囲のささやかなウェブサイトと電子メールで通信販売をのばすこともできる。ということは過大なビビリはいらないけれども、知らん振りするのも、状況として違うだろうと。なにやら立派なシステムが必要なのではなくて、三月書房のあのボロボロのウェブサイトでも、その書店のムード、イロ、営業方針を反映しているものであればインターネットを活かすことができるんだと思う。

●ポット出版の取組と印刷との関係

  小さなわが社でネットやコンピュータを使ってやりたい事は、雑用をコンピュータに置き換える事だった。 社員の出勤簿を昔は表に手書きして電卓で計算していた。給料は比較的早くコンピュータ化したが、時間の計算——30分+45分は1時間15分と出す—— が面倒くさい。各人がエクセル(表計算ソフト)に自分の出勤を記録し、帰りにも記録する。締日に印刷するものには、残業時間などの合計が自動的に計算されている。担当者が給料計算ソフトに時間数を入力すればお終い。コンピュータのおかげで楽に処理できるようになった、というように。

 本の製作のデジタル化はずいぶん前から進めてきた。

 基本的にはクオークやページメーカー、その前の電算写植で作っていた時代も含めて、データは9年分くらいは保存してある。CTPは前からやりたいと思っていたが、今はまだ、フィルム出力+刷版の値段とトントンのようだ。重版することができるとCTP出力をまたしなければならないので、逆に経費がかかる。

 悩みがいくつかある。

 ひとつには、「本になったデータ」を本当に持っているのかどうか確認ができていない。

 印刷屋にMOで入稿し、普通紙で出力したものを従来の青焼校正の代わりと考えるようにして、最後の直しを入れている。この段階で直すものは印刷屋に直してもらっている。その最後のデータをまた戻してもらって保存しているが、2年以上前のものは印刷屋に渡したデータのコピーしか持っていないので、フィルムではなくデータで重版する時はもう1度校正しなければならない。

 データを保存しているのは、千や2千部重版するのが無理なときに、オンデマンド印刷でもっと小さいロットに重版できるように、と考えているから。今は、無茶苦茶コスト高で、使えませんけどね。

 余談だが、日販のオンデマンド出版は邪道だと思う。ページをばらばらにしてスキャニング、画像データにしたものをプリントしてオンデマンドといっている。これではデータが重たい。直しをするのもやっかいだ。だからデジタルデータの状態で保管して、スキャニングコストを省かなければオンデマンドを生かせないと思う。 電子書籍コンソーシアムがやった実験で『あしたのジョー』などを買ってみた。文字を大きくしようとすると、画像データなので、ビュアーからはみ出す。1 行ずつ上下にスクロールしなければならないのが手間。やはりテキストベースにしないと、融通が利かない。画像データを使うのは緊急避難的なやり方だと思う。

 またアプリケーションのバージョンアップなどでも悩む。十年前のデータをウチの環境で開けない。 NEC98で作った電算写植のデータもあるが、MS-DOS3.3だから、WINDOWS3.1の更に前の時代のもの。その機械も取ってあるが、会社が狭いので粗大ゴミに出してしまうと、いよいよ開けなくなってしまう。アプリケーションが進化していくのもいいが、折角保存したデータが使えなくなるので、その辺も考えなくてはならない。

 さらに、テキストの定着・確定の問題。紙に印刷したものであれば、あの人の論文の第何版にこのように書いてあった等と確定する事ができる。 デジタルの怖い所は、そのバージョンの確定が難しいこと。

  『デジタル時代の出版メディア』という本を電子ブック(ドットブック)で作ったが、奥付にバージョン1といれた。あせって作ったので、著者は「デジタル版出版にあたって」と書き加えたかったのだが、「時間がないからやめてくれ。その代わりデジタルだからいつでも変えられるからね。遅れてもいいから書いておいて。先に出したのはバージョン1ってことにしておくから」ってことにしてもらった。

 この書き換え可能、を使えば、「アマゾンなんて絶対にうまくわけない」と書いた物をそっと「やっぱりアマゾンはすごい」とあとになって書き変えることが可能。この、バージョンの管理という問題はまだ未解決。

 紙が素晴らしかったのは誤植も含めて確定したものだということ。デジタルデータは確定しないのが良さであり悪さでもあるので、その良さを活かしつつどのように悪さをなくしていくのか意識しなければならない。

 PDF化なども取り組んでいて、校正紙をPDFにして電子メールなどで送ったりして使っている。印刷・電子ブックなどでも使えると思うが、まだ、現実的な使い方を考えついていない。

 こうしたこと以外にも、ネットで出版活動をいろいろ絡めてやる事を考えている。

 例えば風俗嬢をはじめとしたセックスワーカーたちの手記を35人分くらい集めた本では、手記をネットで募集した。結局、ネットで申しこんできたのは3人くらいしかいなかったが、その途中で実際の原稿を1週間くらいの期間限定で事前に読んでもらえるように公開した。

 紀伊國屋書店のパブラインから売上データを受け取り、ポット出版のサイトで公開している。  日々のデータを見るためには月に10万円以上かかるので、1ヶ月分のデータをCSV形式で送ってもらうコースをお願いしている。月5千円。
 小さな出版社共同で申し込めば10社までは月5千円でいいという話があるので、版元ドットコムの有志で取り組もうかと思っている。また、読者に(ポット出版はすでにやっているが)公開する事も検討している。これからは取次、書店、出版社自身が情報を可能な限り公開して行く事が必要だと思う。できることはやっていこうという姿勢でサイトで公開をした。

 2年前まで電子メールでの本の注文は月に1冊くらいだったのが、今は、コンスタントに1日1冊来るようにはなった。ささやかな数字だが、ネットワークの効果を実感している。

 ボイジャーと協力して、電子ブックも作成している。無料で15分間好きなところを読めたり、限られたページだけ読めるようにして「立ち読み」できるようにし、有料でダウンロードすれば全部読めるようになっている。電子文庫パブリ(絶版の文庫を電子データで販売するサイト)でも1部採用しているのと同じやり方。紙のメディアは1800円、こちらは1000円とつけた。これは8百屋のたたき売りと同じ感覚での値付けにすぎない。紙などに経費がかかっていない分、下げたほうがいいかなという感じがしたので安くした。根拠は何もない。一定期間後に総括しなおす予定。ちなみにまだ9冊しか売れていない。 このようにどれがうまく行くかはわからないので、考えつくことはすべてやってみようと思っている。

●版元ドットコムの試み

 版元ドットコムは、皆さんから本を売るために始めたというふうによく誤解される。でも、書誌データはもちろんの事、本の主な内容、例えば前書き、目次全文までネットワーク上で公開して、読者に検索してもらおうという発想ではじめた。あえて言えば、販売するのは、そのおまけ。送料無料にして、少しでも買ってもらおうという姿勢はありますが。

 将来の夢は日本の本のポータルサイト(玄関口のようなもの)。あるキイワードを入れると目次や前書きなどをいろいろなデータベースをまわって検索できるようにしたい。

 一方、出版業界全体の販売・流通情報が、インターネットでおこなわれるようになってほしいと思っている。  現在の販売注文システムは、VANでおこなわれていて古くなってしまっていると思う。「インターネットでおこなわれるようになってほしい」と無責任なお願いの言い方をするのは、小零細版元ではとても出資できないから。

 VAN は金がかかりすぎる。インターネットであれば小さな書店さんでものることができると思う。販売・流通の情報交換は、書店・取次・版元のほとんどを網羅しない限り効率が出てこない。そのためには小零細でもアクセスできるようなものでなければならないので、インターネットしかない(ただしセキュリティに弱点があるが)。業界全体で、インターネットを使った在庫情報、書誌データ、販売注文の情報の交換をどこかがはじめてもらえないだろうか。

 さて、インターネットが普及して「eコマース」といったネット通販が普及すると、出版社の直販が始まるんじゃないかとか、スティーブン・キングのような書き手から読者への直販がはじまって、そればかりになるんじゃないか、という不安・不信感が表れる。でも、僕は正直まだまだ混沌としてわからないと思っている。少なくとも、ストレートに版元不要とか、取次がつぶれるとか、書店が要らなくなる、ということにはならないだろうと思う。

 例えばバッタ屋さんのサイトがある。

 売れ残りの商品を抱えている会社などがそこのサイトに掲示する。すごく安い。だれかが買う。ところがお金の決済が不安である。物を送ったらそのままドロンされてしまうのではないか、金を送ったらそのものがとんでもない不良品なのではないか、と。だからサイトやっている人が、お金を出す人にはお金をもらい、商品だす人には商品をもらって、確認してから取引する。間に第三者が入っている。インターネットは相手が見えないので、変わりにそういうシステムを作らざるをえない。

 こういった機能が必要で、それを担っているのが取次や書店や、出版社なのかもしれない。  だからまだまだ、ネットによって取次・書店・出版社がストレートになくなってしまう状況ではないと思う。  可能性はいっぱいあるのだから今のうちに頑張ってネットに関わった方がいいというのが僕の考え方である。
 最後にIT革命といわれるなかで、本の世界がどうなっていくのか考えてみたい。
 自分自身はどうやって本を買っているのかなと考えてみると、書評をみたりして注文するときは、一番近所の文鳥堂原宿店に頼んでいる。電子メールを送って相手のFaxに送信するようなシステムを作ったので、僕は電子メール、文鳥堂はファックスで受ける。
 どっちにしろ週に何回かはあっちこっちの本屋さんに行くから、そのときに買う。これが一番多い(ただしbk1が送料無料でやっているときは1冊でも注文した。その間、書店には全然注文しなかった)。

  あとは大型書店に行く時に気になった本を買う、そういうスタイル。
 やっぱり本は現物を見てから買うか、書評やだれかの推薦で買う。ネットで対応できるのは目的買いの部分が今は中心。そう考えると書店さんや取次さん、出版社の意味というのはまだまだ多いと思う。  今は、将来の見通しをあまり断定しないで進んでいこうと思っている。見通 しがズレちゃったら、って不安になるから。

 それよりも、たとえば「電子ブックを1冊だしてみて、同時に売っている紙の本の売行きが落ちるかどうかな」って実際に試してみる、そして、その都度、総括してできることから少しずつ取り組んでいく。そんなふうにやっていきたいと思っている。


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主と客の位相

2001-2-21 水曜日

青弓社 野崎保志 :http://www.seikyusha.co.jp/

 「主体性」という言葉はもう死語になってしまったのだろうか。己れを取り巻く環境、あるいは己れが拠って立つ社会というものと、己れ自身との関係を理解しえない人たちが増えていると感じる。そうした関係を客体と主体の対立図式として捉えることから、環境も社会も、とりわけて、己れ自身が見えてくるはずである。

 己れを社会の真只中に埋没させてしまう認識から、いまさまざまな悲劇的、喜劇的現象が生み出されていく。己れの不遇、不運、時には過ちまでも、その責任、原因を己れと切り離された社会に転嫁する事件、事象があまりに多い。昨今くり返されてきた少年たちの殺傷事件などその典型である。

 具体的事例をいちいち取り上げる必要ももはやないだろう。彼らのほとんどが、自己という存在を己れの意識の中に位置付けていない、いや、見つけていないと言ったほうが正確か。大分県の一家殺傷事件の場合でも、彼は村という共同体の被害者として自己を位置付けているのみで、その風聞を作り出した「自分」の存在をどこにも見いだしていないのである。こうした意識状況からは他者への逆恨みしか生じない。

 主と客の対立図式の欠落現象——これはなにも社会的事件の加害者だけではないということが、つい最近の重大事件に象徴的に現れた。ただ、この事件の場合、どうしようもない三文喜劇としてだが。米原潜によるえひめ丸撃沈事件に対する(もうすぐ前首相の)森氏の対応のことで、ゴルフ場に居続けたのは、「官邸の秘書官にそこに居て欲しいと言われたので」と言い逃れしている点である。

 いまさら森氏の批判をしてもはかないが、ひとつの象徴的事例として、この稿のテーマにあまりにはまりすぎている。これが本当なら彼の主体性は一体どこにあるのだろう(もっとも真相は、彼は官邸に帰りたかったが秘書官の助言に従ったということではなく、単に「うるさいなぁ、その程度のことでゴルフの邪魔すんなよ」というところだろうが)。政治家に主体性を求めるなんて無理ということは、醜聞から逃れるために、「秘書が、秘書が」という言い訳が、常識になっていることを見ていればよくわかる。事件への自己の介在を徹底的に排除するのが政治家的手法なのだから。

 森氏の場合もそうなのだが、問題はこうした没主体的対応が、前述した少年犯罪と通底しているということである。すなわち、シチュエーションこそ違え、眼前の客体的事象から主体の存在を吹き飛ばしているわけで、「君の発言のなかに君自身がいない」と言うことでことは足りる。結論として、少年犯罪の加害者も森氏以下政治家諸氏も、主と客に対する自意識内の理解は同じ穴のムジナで、いつでも交換可能だということである。

 最後にもう一言。彼らだけでなく、わたしたちも気づかないうちに「主」が抜け落ち、「客」のなかに責任を転嫁していることはないだろうか。


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デフレ時代は再販制にプラスかマイナスか

2001-2-14 水曜日

第三書館 北川明 :http://www.hanmoto.com/bd/d3skan/1/

 いよいよこの三月三十一日に公正取引委員会から本の再販売制度を継続するかどうかの大方針が出ることになっている。「本は全国どこで買っても同じ値段、同じ本は同じ定価のままずっと売られている。」この日本の常識は必ずしも世界の常識ではない。再版制がなくなると、日本でも常識からはずれてしまう。

 この問題については、多方面から議論が積み重ねられてきた。それを繰り返すことはしないが、いま新たな問題が持ちあがってきている。いま日本経済が入り込んでしまったデフレとの関係だ。政府や日銀はデフレ下にあると認めたがらないし、認めてしまうとそのアナウンス効果が大きすぎるのを懸念するのもわかる。しかし、間違いなく物価は下がりつづけている。衣料品や食料品の全般的な値下がりは著しい。300円以下のランチ特集が週刊誌を賑わしている。

 こういう状況下で再販制の意義を出版社が読者に理解してもらうにはこれまでどおりの説明では難しいのではないか、ことによったら反感を買うだけに終わるのではないか。

 これまで数十年にわたって私達は基本的にインフレ下で生きてきた。物価は大なり小なり必ず上がるものであることを前提にしてきた。そのなかで版元は「本は物価の優等生」だと主張してきた。他の商品に比べてこんなに価格上昇率が低いと誇示することさえしてきた。実際、小社が22年前、創業直後に発行した最初の本が980円。もし、いま同じ本を出してもおそらく1300円以上の定価をつけられないと思う。

 しかし、読者からしてみれば、それはこれまでの話。現実に他の物価が急速に下がり出したなかで、過去数十年の価格上昇率が低かったという理由だけで「本の価格は絶対下がりません」という説明に納得してくれるかどうか。読者の本離れが進むだけに終わらないだろうか。

 出版社サイドからすれば物価が半分になっても最初につけた定価で本が売れてくれるのはうれしい。だがそれだけでは、このデフレ下においては「再版制の上にアグラをかいている」と批判されてもしかたない。たいへんな状況下にあることを版元は理解すべきではないだろうか。

 とるべき対処はふたつ。ひとつは本の流通の徹底的改善。もうひとつは再版制を生かしつつ、価格の硬直性を打破すること。前者は版元レベルだけではできない。後者は版元が読者との関係でどのような発想に立つかで実行可能なことである。

 三月三十一日の結論を見てからにしようという、この業界特有の様子見が蔓延しているようだが、版元自身が状況打開の議論を起こし実行すべきときではないだろうか.


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「版元品切れ」の正体

2001-2-7 水曜日

太郎次郎社エディタス 須田正晴 :http://www.tarojiro.co.jp/

 書店で本を注文する。そして待つこと数週間。「その本は品切れです」と言われることがある。これはリアル書店でもオンライン書店でもよくあることだ。「無いなら無いとなぜ早く教えてくれないのか」とふつうの人なら怒る。さらにそのあとでべつの書店でその本を見つけたりする。または知人から「○○で注文したら届いたよ」と聞いたりする。そういう目に遭った人の、出版流通 への不信は根深い。
 この「版元品切れ」という状態にも、内訳がいろいろある。

真性の品切れ
 いちばん判りやすいのが「以前に出版したんだけども、あまり売れないので重版はせず、品切れのままにしてある」というパターン。版元にも取次店の流通 在庫にも本の在庫はない。これで版元が出版権を放棄すると、いわゆる「絶版」という状態になる。
 それでも版元には返品が戻ってくることもあるし、「返品の在庫はあるけれど、あまりにボロくなっているので商品として出せない」という場合もある。どうしても入手したければ(注文する本はたいがいそうだから)版元の営業部にダメモトで一度かけあってみるといい。品切れになってからの期間が長いと入手はむずかしいが、古書の検索サイト(インターネット古書店案内など)で探してもらうという手もある。

重版待ち・返品待ち
 比較的入手が簡単なのが、「予想外に売れてるので一時品切れ」[重版待ち]とか、「新聞書評や著者のテレビ出演など(パブリシティと言う)で一時的に注文が殺到して品切れになってるけど、書店が積んでる分の返品がそのうちドッと戻ってくるから重版はしない」[返品待ち]という状態。
 この場合、版元には在庫はないものの、書店によっては置いてあるところもある。だから、早く入手したければ足でまわればいいし、待つ気があるのならまた注文を出せばいい。しかし複数の書店で同時に注文を出すのはご法度。書店は客注品がキャンセルになっても返品できないので、損害をこうむる。それがイヤで客注を受けない書店もある。

流通トラブル
 悲しいながらけっこう多いのが流通トラブルだ。版元・取次・書店のどこがサボタージュしても本は届かなくなる。ルーズな版元が前述の「返品待ち」のために連絡なしに何日も注文を保留することがある。すると、取次や書店は「返事のないのは無い証拠」と受けとって、読者に「品切れです」と伝える。ほかにも注文のあがる過程、本の送られる過程のどこで事故が起きても、書店は「どうやら品切れらしい」と考えてしまう。
 もちろん客注品の流れを必死に追いかけてくれる書店員もいるが、すべての書店にそれを期待するには、客注受注は書店にとっての利が薄すぎるのも事実だ。
 言語道断なのが、少部数の専門書や小版元の本など取り寄せに手間のかかる本だと見るや、「品切れです」「その版元とは取引がありません」とごまかす書店員だ。怒り心頭に発する話だが、そういう書店はどのみち駆逐されていくのだろうと楽観している。

データベースの誤用
 ここ数年ひどく増えてきたのが、書店員がオンラインで本を探して「在庫無し」と表記してあったので「品切れです」と答える例だ。
 一見、すぐに返事が来て便利なようだが、現状では本の在庫状況について信頼のおける総括的なデータベースは存在しない。多くの書店が使っているデータベースでの「在庫無し」とは、取次と(出版VANというバカ高いシステムを利用している)大手版元に在庫が無いという意味であって(じっさいはそれすら不確か)、中小版元の本がほんとうに品切れかどうかはわからないのだ。しかし、データベースの表記の悪さもあって、書店員がそれに気づかないとき、いわば「ニセ品切れ」が起こる。これはすべての人にとって不幸なことだ。
 オンライン書店のなかにも、この「在庫切れ=品切れ」という勘違いをしてしまったところがあるが、すでに是正されている。とはいえ、それは「版元に発注書を出して問い合わせてみる」という旧来の方法に戻ったにすぎない。

 結局いまでもほしい本の在庫があるかどうかをたしかめるには、ちょくせつ版元の営業部に問い合わせるのがいちばん確実な方法ということになる。とはいえ、このままで良いはずがない。そこで版元ドットコムは……、とはじめようとしたが長くなってしまったので、また。


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