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語り継ぐ戦争
中国・シベリア・南方・本土「東三河8人の証言」
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2014年8月15日
- 書店発売日
- 2014年8月6日
- 登録日
- 2014年7月24日
- 最終更新日
- 2024年2月15日
紹介
かつての“ 軍都” 豊橋を中心とした東三河地方の消えゆく「戦争体験の記憶」を記録する。1884(明治17)年に創設された陸軍豊橋第18 聯隊は、長く「大東亜戦争」の最前線で戦い続け、多くの犠牲者を出した。第18 聯隊の存在ゆえに、激しい空襲も受けた東三河地方には、いまだ語られていない貴重な戦争体験を持つ市民が存命している。戦後70 年を目前に、気鋭の歴史学者が、豊橋市で風刺漫画家として活躍した野口志行氏(1920年生まれ)他8 人にインタビューし、解説を加えた、次世代に継承したい記録。
《目次》
第1章 中国(満洲)・シベリア
1 「炊事場」から見た日中戦争 〈話し手 杉浦右一〉
2 忘れ得ぬ満洲・シベリアの「記憶」 〈話し手 鈴木英一・兼井成夫〉
第2章 ビルマ・ブーゲンビル・フィリピン
3 インパール作戦に従軍して 〈話し手 岩瀬博〉
4 我が青春の足あと―ブインの防衛 〈話し手 片山学〉
5 フィリピンからの決死の生還 〈話し手 加藤勝美〉
第3章 南洋・東三河
6 運命を分けた輸送船―ヤップ島からの脱出 〈話し手 今野みどり〉
7 東三河の水際防衛 〈話し手 野口志行〉
前書きなど
はじめに
「歴史は繰返す。方則は不変である。それ故に過去の記録は又将来の予言となる」寺田寅彦
東三河と軍隊
中核都市の豊橋市を中心に豊川市・田原市・蒲郡市・新城市・設楽町(北設楽郡。以下同じ)・東栄町・豊根村の計八市町村からなる愛知県東部、通称東三河は、日本の大動脈である国道一号線・東名高速道路・東海道新幹線が東西に貫く交通の要衝であるとともに、輸入自動車台数と金額がともに二十年連続全国一位を誇る三河港を擁するなど、日本の国際貿易の重要地としても知られる。また、農業についても、一九六八(昭和四十三)年に豊川用水が全面通水して以降、露地野菜や施設園芸作物の全国屈指の産地となり、交通の便を生かして、首都圏をはじめ、全国各地に農産物を出荷している。
このように、今日、経済的に大きな発展を遂げた東三河が、戦前、「軍都」として栄えていたことは、全国的にはあまり知られていない。
一八八二(明治十五)年、日本陸軍は国内の治安確保、ならびに東アジアの覇権をめぐる諸外国との軍事的緊張に対応するため、二年後の一八八四(明治十七)年から十年をかけて、歩兵二十八個聯隊の創設などを目標とする兵力整備計画を決定した。
計画初年度、陸軍はまず八個聯隊を創設し、名古屋鎮台(一八八八〔明治二十一〕年に第三師団に改編)には豊橋に歩兵第十八聯隊の設置を実行した。しかし、当時の豊橋には聯隊将兵千数百人を収容する施設がなく、一八八六(明治十九)年になって、豊橋旧吉田城内に兵舎を設け、聯隊を受け入れた。以後、第十八聯隊は、「三遠」と呼ばれた三河・遠州(静岡県西部)から徴集された兵士(兵卒)が多く入隊し、地域の出身者で構成された、いわゆる郷土部隊が誕生した。
東三河に根づいた第十八聯隊は、近代日本初の外征戦争であった、一八九四(明治二十七)年の日清戦争や、その十年後の一九〇四(明治三十七)年、大国ロシアを相手とした日露戦争に出征し、どちらの戦場でも華々しい活躍を見せた。そして、戦争を終えて、第十八聯隊が豊橋に凱旋帰国すると、町民らは町を挙げて兵士らを歓迎した。とくに、出征した男性の代わりに留守を預かっていた女性たちにとって、兵士となった自分の父親や夫、兄弟や息子が無事に戦場から戻ってきてくれたことは何よりの喜びであった。
第十八聯隊の登場で「軍都」となった東三河は、一九〇八(明治四十一)年、陸軍第十五師団を渥美郡高師村(現在の豊橋市高師町一帯)に誘致したことで、その発展は最高潮に達した。
師団とは陸軍部隊の最小戦略単位で、原則として、二個歩兵聯隊を隷下に置く旅団二個と、騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など歩兵以外の聯隊によって構成された。このとき、豊橋に置かれたのは、第十五師団司令部のほか、第十七旅団司令部・歩兵第六十聯隊・騎兵第四旅団(騎兵第二十五・二十六聯隊が所属)・騎兵第十九聯隊・砲兵第二十一聯隊・輜重兵第十五大隊・工兵第十五大隊などで、兵営など関連施設に移転してきた将兵とその家族の総数は一万人余りに達した。
当時、約四万人の人口を抱えていた豊橋は、主力産業の養蚕業が不況にあえいでいた。そこに、急に一万人余りの消費者が生まれたことで、豊橋の経済は一気に好転し、将兵をおもな顧客としたサービス業や、軍関連の企業を中心に活況を呈した。また、豊橋経済の発展は第一次世界大戦に伴う日本の好景気と相まって、隣接する東三河のその他の地域の経済を刺激し活性化させた。
しかし、その好景気も、一九二五年の第三次軍備整理、いわゆる宇垣軍縮で第十五師団の廃止が決定したことで終わりを告げた。師団が豊橋から去ると、将兵相手の店舗が軒並み閉店し、市内に五〇〇軒もの空き家ができた。
戦争体験の「記憶」を記録する
昭和時代に入ると、日本は昭和恐慌と呼ばれた深刻な経済不況や資源獲得の問題を、中国大陸へ進出することで解決しようとした。一九三一年九月十八日に起きた満洲事変は、その足掛かりとなった。そして、日中両国は一九三七年七月に北京郊外で発生した盧溝橋事件を機に、約八年に及ぶ全面戦争に突入した。
一方、日中戦争を通して深刻化した日本と米英との対立は、一九四〇年九月の日独伊三国同盟の成立、および日本の南進政策の実行により決定的なものとなった。一九四一年八月、アメリカの対日石油輸出全面停止によって、米英と戦争か否かの岐路に立たされた日本は、アメリカとの交渉が行き詰まると、ついに対米英蘭戦争を決意し、同年十二月八日、米領ハワイ・真珠湾と英領マレー半島への奇襲攻撃を敢行した。十二日、日本政府は日中戦争を含む対米英戦争、およびその後の推移で発生する戦争の呼称を「大東亜戦争」とすると閣議決定した。
緒戦で勝利を挙げた日本は、開戦後半年足らずで、西はビルマ(現在のミャンマー)からマレー半島、オランダ領東インドであったジャワ島・スマトラ島など大スンダ列島、南はニューギニアからソロモン諸島に至る広大な領域を占領下に収めた。
しかし、一九四二年六月、日本海軍は連合艦隊の総力を結集して行ったミッドウェー海戦でアメリカ太平洋艦隊に敗北し、主力航空母艦(空母)「赤城」・「加賀」・「蒼龍」・「飛龍」の四隻などを失うとともに、開戦以来保持していた太平洋の制空権もアメリカ側に奪われた。
その後、日本軍はアメリカを中心とする連合軍を前に敗戦を重ね、戦線を縮小させた。一方、アメリカは、一九四四年六月から、大型爆撃機B-29を使った本格的な日本本土空襲を行い、大都市を中心に多くの大きな被害を与えた。そして、米軍は、一九四五年八月六日と九日、広島と長崎にそれぞれ原子爆弾を投下し、日本を敗北に導いた。
この大東亜戦争に、豊橋第十八聯隊は長く最前線で戦い続けた。日中戦争全面化のきっかけとなった第二次上海事変で、第十八聯隊は敵前の上海呉淞に強行上陸したが、頑丈なトーチカに行く手を阻まれ、上陸から三ヶ月の間に約四〇〇〇人もの死傷者を出した。さらに、第十八聯隊は中国大陸を転戦後、一九四四年二月、一転して米軍の迫るマリアナ諸島に派遣を命ぜられたが、その途上で米軍潜水艦の攻撃に遭い、聯隊長ともども多くの兵士が海中に没した。そして、生き残った聯隊将兵も米軍の猛攻を受けて玉砕した。
また、第十八聯隊以外の部隊に所属していた東三河出身の陸海軍将兵たちも、戦場の最前線に立って、命をかけて戦った。
過去の歴史を振り返ることは、将来自らがどのような道を歩めばよいのか考えるときのビジョン(先見)となる。冒頭の物理学者寺田寅彦の言葉は、それを言い表している。
近年、日本を取り巻く国際情勢は緊迫の度を増している。この状況のなか、今後、私たちが採るべき道を選択するうえで、いま一度、過去に起こした大東亜戦争の歴史を振り返る必要があるのではないか。
終戦から七十年近く経ち、当時のことを語ることのできる戦争体験者が極めて少なくなっている。まさに今、戦争の生の「記憶」を次世代に残す最後のチャンスであると言える。
戦後、平和を享受してきた私たちが、戦争の惨禍を二度と繰り返さないためには、大東亜戦争の「記憶」を共有し、そこからさまざまな経験を学び取り、次の世代に継承していく必要があろう。
これまで、東三河で戦争を体験した生存者による回想録や文集は数多く発表されてきた(巻末の本書関連文献目録を参照)。彼らの体験談により、今日までに東三河の戦時中の様子がある程度明らかになってきた。
一方、東三河出身の元将兵による回想録もすでにいくつか発表されているが、大東亜戦争の戦場は極めて範囲が広く、彼らが戦地で体験したことは、まだ充分言い尽されてはいない。
本書は以上の問題意識に基づき、軍隊と繋がりの深い東三河を例に、東三河に縁のある八人の戦争体験者の戦争の「記憶」を収録した。
本書を通して、東三河と大東亜戦争との係わりが少しでも垣間見えたら幸いである。
上記内容は本書刊行時のものです。