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パウル・クレーの文字絵
アジア・オリエントと音楽へのまなざし
- 出版社在庫情報
- 絶版
- 初版年月日
- 2009年5月
- 書店発売日
- 2009年5月22日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2014年6月25日
紹介
◎各章の内容
[第1章]クレーのアジア・オリエント体験と舞踊画は、文字絵の発想とどのように結びつくのか。
[第2章]中国の詩に依拠した1916年の文字絵を扱い、クレーの東洋観に影響を与えた諸資料と人間関係を分析する。
[第3章]1917年の文字絵《エミーリエ》について論じ、この絵におけるナンセンス詩と、未来派やダダ、クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩の関係を考察する。
[第4章]1918年の文字絵《かつて夜の灰色から浮かび上がった 色彩文字》をとりあげ、クレーの父ハンスによる『詩篇』の自由訳などとの関係を論究する。
[第5章]父ハンスの自由訳『雅歌』に依拠する1921年の2つの文字絵を論じ、父子が共有した音楽と韻律、アジア・オリエントへの関心を明らかにする。
目次
序
第一章 パウル・クレーと舞踊
1 「風刺画」とのとりくみ
2 アジア・オリエントと舞踊
第二章 一九一六年の文字絵
1 第一次世界大戦前におけるクレーと東洋との出会い
クレーの植民地政策批判
エリアスベルク夫妻
ラインハルト・ピーパー
2 一九一六年の文字絵
第三章 一九一七年の文字絵
1 文字絵《エミーリエ》
2 未来派とダダの詩
3 クリスティアン・モルゲンシュテルンの詩
第四章 一九一八年の文字絵
1 文字絵《かつて夜の灰色から浮かび上がった 色彩文字》
2 『詩篇』第十九篇と『ギルガメシュ叙事詩』
3 ドイプラーの『銀の三日月と』
第五章 一九二一年の文字絵
1 ハンス・クレーの経歴
2 パウル・クレーのアジア・オリエントへの関心と言語領域へのとりくみ
3 『雅歌』による文字絵、第一ヴァージョン
4 『雅歌』による文字絵、第二ヴァージョン
結 語
謝辞
註
参考文献一覧
図版一覧
人名索引
Paul Klees Schriftbilder: Blick auf Asien, den Orient und die Musik, Resümee
前書きなど
序
パウル・クレー(Paul Ernst Klee; 1879–1940)は一九一六年から二一年まで、十点の〈Schriftbild〉(シュリフトビルト)を制作した。この「文字絵」を意味するドイツ語は、実際には一九二一年に作られた二点の作品タイトルにのみ用いられているが、その全体の特徴が他の八点の作品とも共通するため、これらの作品も「文字絵」の範疇に含める。その特徴とは、詩を挿入して画面全体が構成され、線によって形成された文字の間隙が着色されているということである。漢武帝の「秋風辞」にかんする一九一六年の連作四点は、現在の所蔵者は不明で、白黒の写真資料が残っているだけであるが、それらもまた着色されていた可能性はひじょうに高い。なぜなら、これらのうちの三点について、クレー自筆の作品カタログおよびその写しにおける制作技法が〈Aquarellierte Schrift〉「水彩で着色された文字」と記されているからである。
文字絵が最初に雑誌や本で紹介されたのは一九二〇年である。まず、五-六月に開催されたゴルツ画廊でのクレーの大規模な回顧展の展覧会カタログである、雑誌『デア・アララート』(Der Ararat)のクレー特集号に、一九一六年の文字絵《王僧孺の詩の第二部》の図版が第一ページに注釈なしで掲載された。ついでこの作品と《王僧孺による中国詩のコンポジション、高く輝いて月が出る。第一部》の図版がやはり注釈なしで、十二月に出版されたレオポルト・ツァーンによるクレーについてのモノグラフに掲載された。ツァーンは『デア・アララート』誌の編集者であり、このモノグラフはまさにゴルツ画廊での回顧展とひとそろいになるかたちで刊行されたのである。上記の二つの作品タイトルは、クレー自筆の作品カタログおよびその写しに記入されたものである。一九二〇年に刊行された両者のテクストで、これらの作品については、〈Schriftbild. Aquarell〉「文字絵。水彩」とだけ記されている。一九二〇年よりまえに展覧会で展示された文字絵は、一六年の六点のみである。これらは一七年に三つの展覧会で展示されたのであるが、そのうち、ベルリンのシュトゥルム画廊第四十九回展(二月)とミュンヘンの新ミュンヘン分離派第三回展(十月)における作品タイトルは、「王僧孺」(Wang Seng yu)のIとII、「漢武帝」(Kaiser Wu-ti)のIからIVとなっていたため)、一九二〇年の回顧展の時点でクレーとハンス・ゴルツによって〈Schriftbild〉という言葉が生みだされたことになる。そしてクレーは一九二一年の二点にかんして、この〈Schriftbild〉
という言葉をタイトルに入れたのである。
上記の特徴をもつ作品について自覚的に〈Schriftbild〉「文字絵」という範疇をもうけたのは、一九二〇年以降ということになる。ただし、一六年以前と二一年以後にはこのような特徴をもった作品を作っていないため、あきらかにこの期間の、あるいはそれ以前から持続しているクレーの関心事が、この作品群を生みだす大きな要因となったと考えられる。その関心事とは、第一に言語である。クレーは、一九一六年以前からすでに言語領域に関心をもっていた。それは彼が詩作を好んだということだけではなく、画家としての出発点から線描画にたずさわっていたこと、またヴォルテールの『カンディード』(Candide)やクレーの友人で作家・編集者のハンス・ブレッシュによる『模範市民』(Der Musterbu¨rger)、ゲーテの『ファウスト』(Faust)、旧約聖書の『詩篇』、クルト・コリントの『ポツダム広場あるいは新救世主の夜』(Potsdamer Platz oder die N劃hte des neuen Messias)などの挿絵を描いていたことからもうかがえる。そして一九一二年以降、キュビスム、未来派、青騎士の絵画を知ることにより彼の作品が抽象性をますにつれて、文字が他の造形的要素と同等の価値をもって画面上にあらわれはじめる。一九一六年の文字絵は、こうした実験の最初の一成果であった。結果的にクレーは一九一六年に六点、一七年に一点、一八年に一点、二一年に二点の文字絵を制作した。
そもそも絵画上に文字が挿入されることは、中世のミニアチュール(写本に描かれる挿絵や装飾の総称)においてはまったくめずらしいことではなかった。しかし、首尾一貫した視覚的対象として認識される統一された全体という、ルネサンス以降定着する絵画の概念は、シニフィアンとシニフィエの関係が恣意的な言語記号が、自然との類似を前提とする絵画記号の秩序に属さないために、また遠近法による虚構の空間に属さないために、絵画に言葉を書きこむことを許さないのである。キュビストたちは、その伝統に反して対象を複数の視点から眺め、同時的に合成した図像として提示することを試みた。そのさいに画面上に文字を書きこみあるいは新聞等の断片をはり付け、絵画でしかありえない空間表現を追求することになるのである。また同時的な対比作用だけではなく、色彩の動力学が継続して展開していくものとしての時間の原理を、クレーと親交のあったロベール・ドローネーが横にひじょうに長い画面において表現しようとする。さらに、こうしたキュビストたちが活躍する直前、すなわち十九世紀末から二十世紀初頭における新興の雑誌の挿絵やポスターの制作にたずさわったユーゲントシュティールの画家たちは、それらグラフィック作品とともにページを占め、あるいは作品の一部を構成する文字に強い関心を示し、しばしば日本の書道から感銘を受けて、「流れるようなリズムにのって運ばれるよう」デザインされた印刷文字を生みだした。その代表的なものが、「エックマン式印刷文字」である。クレーが絵画に言語をとりいれようとした背景には、ユーゲントシュティールの画家たちにおけるグラフィックなものへの関心や、表現主義の台頭にともなうミニアチュールの伝統の再評価)、キュビスムや未来派の絵画における造形要素と言語を組みあわせる実験、さらには未来派の詩における音声詩や形象詩、ダダの同時進行詩の実験などが考えられる。文字絵においては、こうした周辺の動向に影響を受けながら、最終的に時間や運動を絵画のなかに導入しようとする意図がみえてくる。本書ではこのような点が注目されることになる。
〈Schriftbild〉という言葉は、こんにちの辞典を参照すると、印刷であるにせよ手書きであるにせよ「字面」や「書体」の意味で使われるのが一般的のようである。クレーがこの言葉を意識したきっかけのひとつとして、一九〇三年三月三日、婚約者のリリー・シュトゥンプフにあてた書簡で話題にしたカール・ヴェルマンの大著『すべての時代と民族の芸術史』第一巻「前キリスト教および非キリスト教民族の芸術」が考えられる。この本では、原始未開民族、古代ギリシア・ローマ、北欧、アジア・オリエントの多様な装飾表現があつかわれており、そこで「書物をテクストと絵で飾る芸術」がエジプトに起源を発し、ヘレニズムをつうじてあらゆる場所に広まり、古代末期には〈Schriftenbilder(Miniaturen)〉「文字絵(ミニアチュール)」(Schriftenbilder はSchriftenbild の、Miniaturen はMiniatur の複数形)というかたちでのみ維持され、現存するその最古の例は四世紀後半にみられると説明されている。この 〈Miniaturen〉という言葉は、少なくとも写本にかんしては「辰しん砂さ (ミニウム)」(鉛性の赤色顔料、古代ローマでは神聖な色とされた)を語源として、そもそもは「辰砂をほどこした頭文字」を意味したというから)、ヴェルマンがこの言葉を〈Schriftenbilder〉と同義にあつかっている理由がわかる。この、たんに読まれるものとしてだけではなく見られるものとしての文字の創造をさらに推し進めていったのが、中世のアイルランドやアングロサクソン、フランク族の写本画家・写字生たちである。彼らは文字と挿絵をともに写本ページを埋める装飾的要素とみなし、二つの要素を密接に関係づけて文字形体から装飾を発展させていった。そのもっとも有名な例が、六八〇年ごろダロウ修道院で制作された現
存する最古のケルト系福音書写本『ダロウの書』や、そのほぼ二十年後にリンディスファーン修道院で制作された『リンディスファーン福音書』、また八〇〇年ごろからアイオナ島で制作がはじめられ、ヴァイキングの襲撃を恐れてアイルランド中東部のケルズ修道院に移され完成された『ケルズの書』などだろう。『ケルズの書』のキリストのモノグラムXPIの描かれたページ〔図1〕では、文字の内外を螺旋文、巴文、組紐文が埋めつくしているだけではなく、天使や人の頭部、猫、鼠、蛾、カワウソ、鮭さけなどが描かれている。けっして単一パターンのみで表現されることのないそれぞれの文様は相互に連動し、文字と造形要素とが交じりあいうごめき、ページ全体がダイナミックな運動を展開しているようで見る者を圧倒する。また『リンディスファーン福音書』のXPIのページ〔図2〕では、頭文字のみならず、それぞれの文字の内部にも彩色がほどこされている。このような図像を生みだす想像力をクレーはひきついだと考えられる。中世美術はすでにロマン派やラファエル前派、アール・ヌーヴォーの作家たちなどに注目されていたが、二十世紀にはヴィルヘルム・ヴォリンガーの『抽象と感情移入』(一九〇七)において、こうした「北方」の装飾美術の抽象性が「東方」や「原始」のそれとならんで古典的な美術に対峙するものとして評価された。その考察は、ドイツの前衛的な作家たちに理論的な
よりどころをあたえることとなった。そのような風潮に感化を受けたゆえか、クレーはミュンヘンの前衛芸術家たちの支えとなったピーパー出版社が一九一二年に刊行した、ヘルマン・ヒーバーの『中世初期のミニアチュール』を入手している。この本にはアイルランドの福音書の装飾頭文字のページが図版として掲載されており〔図3・4〕、クレーがそこから文字絵のインスピレーションを得たことはじゅうぶんにありえるだろう。ちなみにこの本が出版された一九一二年は、先にも述べたように、クレーが絵画上に文字を積極的に書きこみはじめた年にあたる。
いっぽう文字絵の詩は、いずれもアジア・オリエントに関係しているといえる。この時期のクレーのもうひとつの関心事がこの領域であった。クレーとオリエントの関係について、これまでの研究でとりわけ注目されてきたのが、一九一四年四月のチュニジア旅行、一九二八年十二月から二九年一月にかけてのエジプト旅行である。また、一九二〇年から翌年にかけて出版されたクレーにかんする三つのモノグラフは、それぞれ批評の見地は異なるが、一九一〇年代後半にテオドール・ドイプラーの批評等がうち立てた、非地上的な場にいる表現主義的なクレー像を多かれ少なかれ踏襲して、アジア・オリエントとクレーの関係にふれている。これらの旅行(とりわけチュニジア旅行)やモノグラフについては、一九八〇年以降刊行されたとくに四つの展覧会カタログ、あるいはマルガレータ・ベンツ=ツァウナー、クリスティーネ・ホプフェンガルト、宮下誠、ジェニー・アンガーの各論文において批判的に検証されている。文字絵が描かれたのは、ドイプラーや一九二〇-二一年のモノグラフの著者たちがクレーとかかわった時期にあたるが、文字絵の制作にあたってクレーが、このようなアジア・オリエントとみずからの関係についての叙述をあるていど意識していたことは確かであろう。
また、一九一六年の文字絵は中国の詩に依拠している。ユルゲン・グレーゼマーやコンスタンス・ノベール=リゼール)をはじめとするこれまでの研究は、クレーが一九一六年の文字絵に中国の詩をとりいれたのは、まさにその年に中国文学と出会ったことによるとしている。クレーがほんとうにこの年に関連の詩に出会ったのかということは後の章で検証することになるが──それは第一次世界大戦前までさかのぼることになるだろう──、実際にクレーは、第一次世界大戦期に集中して中国文学を読んでいる。そのため、クレーとアジアの関係の研究は、第一次世界大戦前のクレーの東洋美術に対する関心、あるいは第一次大戦直後の道教との関係等を指摘した、奥田修の一連の研究)を例外として、この第一次大戦期に重点をおい
ている。
各文字絵の発想源となっているのは、クレーが体験したチュニジア旅行というよりは、むしろ書物などのテクストである。戦時中から戦争直後にかけての文字絵の制作期に、クレーは中国だけではなく、アジア・オリエントにかんするじつにさまざまな書物を読んでいる。一九一八年の文字絵制作まで影を落とすことになる戦時下の状況では、実際に遠くの世界に旅行をすることは不可能であったが、兵役をつとめていたクレーにとっては芸術活動の励みとなる、あるいは心の平安を保つための新たなインスピレーションが必要であった。しかしながらこの時期の多様な読書は、そのような苦しい状況下にあったことだけでは説明しきれない。つまり、戦中のヘルヴァルト・ヴァルデンによるクレーのキャンペーン戦略や、戦後のモノグラフの刊行は、後述するようにこのことと密接に結びついてくるのである。ここに、文字絵におけるアジア・オリエントの問題の複雑さがある。本書では、この複雑さをひとつひとつ解きほぐしてゆくことになるだろう。
この読書体験から作品に反映されるクレーの想像力は、ある時空間に限定されることなく、さまざまな時代や土地を自由に行き来している。たとえば線描画《詩篇のための二つのビネット》(一九一五)の作品構成は、一九一六年の文字絵《王僧孺による中国詩のコンポジション、高く輝いて月が出る。第一部》にひじょうに類似している。『詩篇』の世界が王僧孺の詩の世界と重なりあうのである。そしてこの『詩篇』は、一九一八年の文字絵の制作に深く関与してくるのである。そうしたことから、それぞれの文字絵の詩がアジア・オリエントという幅広い地帯をよりどころとしており、個々の作品がある種の連想によって重なりあう部分をもっているということが考えられる。
(後略)
版元から一言
20世紀を代表する画家のひとり、パウル・クレー。彼は1916年から21年にかけて、計10点の「文字絵」を制作しています。「文字絵」とは、文字が他の造形的要素と同じ価値をもって表現された絵画作品のこと。第一次世界大戦とその後の動乱のなかで、彼は「文字絵」に何を託そうとしたのでしょうか?
戦争への反感、アジア・オリエントへの憧憬がいかにして文字絵に結実し、その後、音楽的・時間的要素を絵画化するという野心的試みへ発展していったかを、著者・野田由美意さん(成城大学非常勤講師)は、その卓抜した着想と緻密な論証により、はじめて明らかにしています。詩・色彩・音楽・エロス……クレーの芸術思想の核
心にせまる画期的論考です。
上記内容は本書刊行時のものです。