故郷に生きる
リカラッ・アウー, シャマン・ラポガン
発行:草風館
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四六判 336ページ 上製
定価:2,800円+税 総額を計算する
ISBN978-4-88323-131-7(4-88323-131-3) C0097
在庫あり
奥付の初版発行年月:2003年03月
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紹介

故郷に帰った作家たち──パイワン女性のまなざし/海の民・タオ族の世界
◎ リカラッ・アウーはパイワン族の女性作家。外省人の父が送った苦難の人生やパイワン族の女性たちが生きる厳しい現実を、あふれんばかりの愛をこめて描いた散文集。
◎シャマン・ラポガンはタオ族(ヤミ族)の海の作家。トビウオとともに生きる、台湾最南端の蘭嶼島のタオ族の生活、
   魅惑的な海の世界を描いた物語。

目次

◎リカラッ・アウー集◎
誰がこの衣装を着るのだろうか/歌が好きなアミの少女/軍人村の母/白い微笑/離婚したい耳/祖霊に忘れられた子ども /情深く義に厚い、あるパイワン姉妹/色あせた刺青/傷口/姑と野菜畑/故郷を出た少年/父と七夕/あの時代/赤い唇のヴヴ/ムリダン/永遠の恋人/医者をもとめて/山の子と魚/オンドリ実験/誕生/忘れられた怒り/大安渓岸の夜/ウェイハイ、病院に行く/さよなら、巫婆                        
◎シャマン・ラポガン集◎
黒い胸びれ 
第一章/第二章/第三章/第四章 
【解説】部落に生きる原住民作家たち 魚住悦子

前書きなど

 本巻では、台湾原住民文学では数少ない女性作家リカラッ・アウーと、海の作家シャマン・ラポガンを収録した。
 まず、本巻のタイトル「故郷に生きる」について述べたい。「故郷」は、原住民族の集落である部落を指す。
 台湾で民主化への運動がくりひろげられるようになった1970年代後半から、都市に住む原住民族もさまざまな要求をかかげて運動を行なうようになった。84年12月には台湾原住民権利促進会が結成され、87年7月に戒厳令が解除されると、いっそう活発に街頭活動や抗議デモを展開するようになった。
 80年代末になると、都市で原住民文化運動にたずさわっていた原住民族の知識人のあいだに、それまでの運動が自分たちを育んだ文化から乖離したものであることや、部落に住む人たちからの理解や支持を得ていないという反省から、故郷の部落に帰ろうという運動がおこった。
 97年8月18日付の『中国時報』は「帰郷—原住民作家回到部落之後……」と題する特集を組んで、部落に帰った原住民作家のその後をとりあげた。故郷にもどって創作活動を行なっている作家として、ルカイ族のオヴィニ・カルスワン、タイヤル族のワリス・ノカン、パイワン族のリカラッ・アウー、タオ族(自称。ヤミ族)のシャマン・ラポガンがあげられている。一方、生まれ故郷には帰らなかったが、原住民族の部落に住んで創作を行なった作家として、第1巻収録のトパス・タナピマをあげ、この運動より早く部落回帰の精神を実践したと述べている。また、同じく第1巻のモーナノンは、眼が見えないという障害ゆえに都市に出てマッサージ業につくしか生計を立てる道がないが、彼の活動も忘れてはならないとし、さらには、都市に出ることなく故郷に残って創作を続ける作家として女性作家のリイキン・ヨウマ(タイヤル族)とタオ族のシャプン・チヤポヤをあげていて、この特集全体が当時活躍していた原住民作家を紹介する記事になっている。
 リカラッ・アウーはワリス・ノカンとともに、ワリスが生まれ育った台中県のタイヤルの部落にもどり、シャマン・ラポガンは故郷の蘭嶼島にもどった。ふたりの文学はこうして生まれたのである。

版元から一言

本選集は、原住民文化運動を背景に生みだされてきた台湾原住民文学を体系的に日本に紹介する最初の試みである。第1巻から第4巻までは、80年代から90年代に輩出した11族の原住民作家の詩や小説、さらに随筆や評論を収め、第五巻では各族の神話伝説を収録する。これによって台湾の原住民族の人々がどのような神話伝説を有し、どのような価値観をもって、どのような環境のなかで、どのように生きているのかを知ることができるだろう。

著者プロフィール

リカラッ・アウー()

 リカラッ・アウーは、1969年、屏東の軍人村(原語「眷村」)に生まれた。リカラッ・アウーはパイワン名で、中国名は高振恵である。父は中国安徽省出身で、戦後、兵隊として台湾に渡って来たが、除隊して軍人村に住み、豆腐店を営んでいた。母は、屏東県来義郷出身のパイワン族である。
 国民政府が台湾に移って時が流れ、故郷の大陸へ帰るという夢が遠くなった1960年代になると、台湾に渡ってきた外省人のあいだに結婚ブームがおきた。多くの外省人が結婚仲介業者に金を払って原住民の女性を紹介してもらい、気に入った娘と結婚した。アウーの母もそのようにして18歳でアウーの父に嫁いだ。
 ふたりのあいだには、アウーを長女に、1男3女が生まれたが、アウーが小学校5年生の時に弟が亡くなり、その後、一家は台中市に転居した。
 アウーは、1986年、大甲高級中学(日本の高校にあたる)を卒業すると小学校で講師をつとめるようになった。彼女はそこでワリスと出会う。87年、ワリスと結婚し、88年に長男ウェイシュー、92年に長女リドゥルが生まれた。
 また、90年にはワリスとともに雑誌『猟人文化』を創刊し(92年停刊)、その編集や発行の煩雑な事務を担当し、またアウー自身もフィールドワークを行なってルポルタージュを書いた。その後、二人は台湾原住民人文センターを設立して活動を続けた。
 94年、アウーはワリスとともにタイヤルの部落にもどって、文化活動を行なうようになった。この部落は大安渓の河岸にあるタイヤル族北勢群の部落で、土地の人たちはミフ部落と呼んでいる。日本統治時代には埋伏坪部落と呼ばれていた。行政のうえでは、台中県和平郷自由村雙崎である。ふたりはこの地で創作だけでなく、部落における原住民文化の構築運動もはじめた。
 部落に住むようになった翌年の95年に、次男ウェイハイが生まれた。本巻でとりあげた「誕生」「忘れられた怒り」「ウェイハイ病院にいく」「大安渓岸の夜」は、この次男の誕生をめぐるできごとを描いている。
 99年9月に台湾中部を襲った九二一大地震で、ミフ部落は大きな被害を受けた。当時、活動の舞台を台北に移していたアウーも部落にもどり、震災後の部落再建にとりくんだ。2000年秋に訳者がミフ部落を訪ねたとき、ワリスとアウーは被災者のコミュニティーを組織し、仮設住宅の建設から、部落の唯一の産業である農業の立てなおしのための農産物販売、現金収入を得るための伝統的な工芸品をつくる工房の運営、さらにはパソコン教室の運営にまでたずさわり、人々の世話をし、相談にのり、そのかたわら原稿を書いていた。
 アウーはその後、2000年に設立された総統府人権諮問小委員会の委員に任命されている。02年1月、アウーはワリスと離婚し、現在は台北に住んでいる。
 リカラッ・アウーは自分の民族アイデンティティーをパイワン族としているが、彼女が自分は原住民族であるというアイデンティーを確立するまでの過程は複雑である。アウーは漢民族とパイワン族の血を引いている。しかし、父親は白色テロ時代に政治犯の汚名を着せられた老兵だったので、外省人ではあるが弱い立場にあった。アウーは同級生からは原住民差別を受け、学校の教師からは冷たく扱われて、つらい学校生活を送った。アウー自身は自分が政治犯の娘であると知らなかったので、差別的な待遇を受けるのは母が原住民だからだと思っていたという。アウーは、17歳までは自分は外省人二世だという意識を持っていた。(邱貴芬「原住民女性的馨音;訪談阿烏(上)(下)」1998年、ウェブサイト『南方電子報』参照)
 アウーの「身 認同在原住民文学創作中的呈現」(台湾原住民文教基金会編『二一世紀台湾原住民文学』1999年)によると、彼女が原住民意識に目覚めたのは、87年におこった湯英伸事件(原住民青年が雇用主一家を殺害した事件)がきっかけであったという。
 アウーの創作活動におおきな影響をあたえたのは、父親とワリス・ノカンである。故郷の安徽省で簡易師範卒の教師だった父親は、幼いアウーに『三字経』から始まる、いわゆる中国古典文学の教育をほどこした。彼女には毎日、古典の暗誦と日記を書くことが課されていたという。アウーは高級中学時代に創作を始めたが、卒業後、ワリスと出会ったことによって、その眼は現代文学へ向けられることになった。ワリスの本棚には、閉鎖的な軍人村では見ることもできなかったさまざまな先進的な文学雑誌がならんでいた。アウーは、文学とは堅苦しいものではなく生活に密着したものだと知って、創作意欲をかきたてられたと話している。
 リカラッ・アウーの著作は、散文集『誰がこの衣装を着るのだろうか』(原題『誰来穿我織的美麗衣裳』1996年、晨星出版社)、『赤い唇のヴヴ』(原題『紅嘴巴的VuVu』1997年、同)、『ムリダン』(原題『穆莉淡』、1998年、女書出版社)が出版されている。また、彼女は『1997原住民文化手暦』(1996年、常民文化)も編集している。
 本巻では、3冊の散文集から計24編の作品を翻訳した。

シャマン・ラポガン()

 シャマン・ラポガンは1957年、蘭嶼島(台東県蘭嶼郷)紅頭村に生まれた。中国名は施努来である。
 シャマン・ラポガンは、73年に蘭嶼国民中学を卒業すると、両親の反対をおしきって島を出て、台東高級中学に進んだ。高級中学卒業に際しては幾つかの大学への推薦入学が提示されたが、彼は原住民子弟枠での進学を潔しとせず、実力で自分の希望する大学に進みたいと台北に出て勉学を続け、80年、淡江大学仏語科に入学した。その後、台北で暮らしながら、原住民運動に加わるようになり、88年には蘭嶼島への核廃棄物貯蔵反対運動にも参加した。しかし、自分はタオの文化を知らないという反省から、前述したように八九年に故郷の蘭嶼にもどり、小中学校で講師をしながら、タオ族の伝統的文化を学びはじめた。
 シャマン・ラポガンはトビウオ漁やシイラ釣り、潜水しての魚捕り、タオ族の伝統的な舟であるタタラを造る技術をはじめ、さまざまな行事の知識や伝統的な詩歌の口承まで、タオの男として求められる伝統文化を習得し、そのかたわら創作活動をつづけて作品を発表してきた。さらに98年からは国立清華大学人類学研究所(大学院)の修士課程に在籍して研究活動を行っている。
 ところで、シャマン・ラポガンは「ラポガンの父」という意味である。タオ族の命名は、テクノニミー(子供本位呼称法)による。最初の子どもが生まれると、その父親は「シャマン+子どもの名前」、母親は「シナン+子どもの名前」、祖父母はともに「シャプン+子どもの名前」となる。86年に長男「シ・ラポガン」(「シ」は幼名につける冠詞)が誕生し、父親は「シャマン・ラポガン」、母親は「シナン・ラポガン」、祖父母は「シャプン・ラポガン」となった。ただし、シャマン・ラポガンが民族名を回復したのは、89年に蘭嶼にもどってからである。
 前述のアウーの作品に、民族名を名のるときの混乱を描いた作品があったが、シャマン・ラポガンにも、『八代湾的神話』(前掲)に、娘の名前を戸政事務所に届けたときのことを描いた作品「娘の名前」がある。
 シャマン・ラポガンの著作は『八代湾的神話』(前掲)、『冷海情深』(1997年、聯合文学出版社)、『黒色的翅膀』(1999年、晨星出版社)が出版されている。さらに、2002年には『海浪的記憶』(聯合文学出版社)を出版した。
 『八代湾的神話』には、島に伝わる神話が、ローマ字表記のタオ語で収録されており、対照するかたちで中国語訳がつけられている。さらに、何編かの散文も収められている。『冷海情深』は中国語で書かれた散文集で、シャマン・ラポガンが台湾本島から蘭嶼島に帰り、タオ族としてのアイデンティティーをふたたび確立する過程が描かれている。『黒色的翅膀』は本書で訳出した「黒い胸びれ」である。

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