発行:批評社
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四六判 216ページ 上製
定価:2,000円+税 総額を計算する
ISBN978-4-8265-0363-1(4-8265-0363-6) C0021
在庫あり
奥付の初版発行年月:2002年12月
書店発売日:2002年12月13日
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朝鮮渡来氏族・高句麗の軌跡を探る!
積石塚に象徴される高句麗系渡来氏族の文化が日本の地に脈々と連なっている甲斐、信濃の地を基点に、西は大阪・河内国にもその痕跡を残す積石塚古墳の謎を、甲斐国最古の寺本廃寺の甍、軒丸瓦の文様、瓦窯址の発掘、さらには騎馬民族特有の馬牧の経営による朝廷への貢馬数を(『延喜式』)踏まえて、高句麗系渡来文化が日本の地に根付いていった軌跡を明らかにする。
目次
もくじ
●まえがき〜失われた日本の高句麗を探して
●序章〜黒い海峡
●第一章〜船と馬のある風景
一衣帯水/東海の潮/馬駆ける丘/野に満つ光芒
●第二章〜巨麻郷の風景
幻の甲斐・巨麻郷/大和川/骨がらみ/巨麻神社/穂坂牧
●第三章〜瓦のある風景
消えた豪族/『耕土』の丘/武蔵に見る風貌
●第四章〜積石塚のある風景
天狗山の祭り/聖なる山/神下し/高句麗人の邑
●第五章〜里の見える風景
やすらぎの谷/記憶の川から/土器を焼く里/里の暮らし
●第六章〜塔のある風景
聳え立つ塔/残り火/並び立つ塔/倒れ伏す塔
*高句麗残照関係年表 *参考文献 *あとがき
前書きなど
新井白石が、いにしえは「国」といったものが、のちには「郡」となり「郷」といった——と『古史通或問』に書いたような、小さな国の存在ばかりを考えていた。私の住んでいる所は古代の巨麻郡のすぐ東で、そこいらに高句麗の影が見えても、なんの不思議もないことだったけれど、はじめは、積石塚を中心とした古墳群のある四、五キロ四方の範囲だけを考えていた。むろん、その国は独立国であって、まつろわぬ国でなければ気がすまない。大和朝廷が日本を統一したというころになっても、まだ日本のあちこちに、そういう国はあったはずである。
けれども、全国に十五万余と言われる古墳に占める積石塚の割合は、わずか二%に過ぎないのに、信濃では三○%、甲斐が二○%という異常な密集値は、これはいったいどういうことを意味するのであろうかと思わずにはいられなかった。積石塚古墳が高句麗の古い墓制であってみれば、それらを残した人々もまた高句麗人でなければならない。これはいままで語られてこなかったなにかがあるに違いないという気がした。それに、ぼんやりと考えていた国が、意外に大きなものではないかと思ったら、総身の毛が逆立つ思いであった。
朝鮮半島の北半分から中国東北部の奥地に至るまで、広大な版図を持っていた高句麗は、つねに膨張策をとって戦争巧者で、つまり戦乱は日常のありふれたことであった。だから、人々の中には戦に倦み疲れ、あるいは平穏な日々を望んで、故国を捨てたい思いの集団もあったはずである。彼らはある時、一つの決意を持ってその身を東海に浮かべた。それはいつと限ったことではなく、抜き差しのならない、それとも熱い想いに背を押されて、いろんな集団が、渡海を試みたに違いない。
朝鮮半島と日本列島の間には北東へ向かって潮が流れていて、彼らの船を運んでくれるのに都合が良かった。北陸のどこかへたどり着いた彼らは、川を溯って内陸へ分け入っただろう。最初に定着して足跡を残したのは、長野盆地にある千曲川右岸の丘陵上である。彼らはこの丘で馬を飼い、五百を上まわる積石塚古墳を忘れ形見として残した。また、ある集団は、そこから進んで東南へ行き、諏訪湖に至り、さらには、甲斐国に入った。そうして、そこでは、のちに巨麻郡という地名を残すほどに繁栄したけれど、彼らは、やはり釜無川や塩川沿いの丘陵上で馬を飼っていた。のちの世に甲斐の三官牧と称される真衣野、柏前、穂坂の牧場は、こうした高句麗系渡来氏族の辛苦の結晶を、中央権力が横合いから苦もなく簒奪した結果に過ぎない。高句麗人は、関東随一の広大な穂坂の牧場の中心を「フル」の地と呼び、祖神を祀っていた。
穂坂の台地の東の、谷を見下ろす斜面では、瓦や須恵器を焼く窯も営まれていたけれど、その瓦で屋根を葺いた寺もしくは公共の建造物の在り処は、いまだに不明のままである。台地を東へ下りて、川と山に囲まれた微高地では、甲斐で最大の積石塚のある山と、葺き石のある円墳を中心に、千塚という地名を残すまでに多くの古墳を残した。古墳の展開とぴったり重なるように、高句麗系の神を祀った大宮神社が四キロ四方の中に七つ残っている。
これら、信濃、甲斐の高句麗系渡来氏族の存在を考えるにつけ、大阪・河内に残る二つの巨麻郷や、武蔵国分寺の跡をつぶさに見た。そこでは遺跡・遺物や地名、伝承が、高句麗系渡来氏族の存在を証拠付けるものとして不動のものであり、従って信濃、甲斐においても同様のことがあったのだという、一点の曇りもない確信を得た。
さらに東へ行けば、二百基を越える横根・桜井積石塚古墳群があって、ここでの高句麗系渡来氏族は、土器の生産を基盤としていた。そうして、すぐ東の春日居古墳群に至って「日本の高句麗」は最前線にたどり着く。そこには国分寺の時代を百年は溯る甲斐国最古の寺院があった。今日、寺本廃寺と呼ばれているその寺は、創建のころ、高句麗様式の瓦を載せた甍を光らせていた。寺を中心とする、当時最先端の文化をもって、彼らは笛吹川をはさんで南に展開する、甲斐国中枢の勢力と、甲斐を二分して対峙していた。甲斐の中枢は、代々、百済系渡来氏族の甲斐守が支配してきたが、国分寺の時代になって、寺本廃寺の地から巨麻に至るまでことごとくの高句麗系渡来氏族は、甲斐守の軍事力に屈して、百済系の足下に組み込まれることになってしまう。けれども、こうした敗者の歴史は勝者が踏み消してしまったから、彼らの高句麗は、今日では幻の存在に過ぎない。
版元から一言
元『月刊新山梨』編集発行人が、知られざる高句麗系渡来文化の軌跡を、さまざまな交友関係とフィールドワークを通じて明らかにした労作です。
装丁=臼井新太郎
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著者プロフィール
備仲 臣道(ビンナカ シゲミチ)
1941年、朝鮮忠清南道大田に植民者の二世として生まれる。1959年、山梨県立甲府第一高校を卒業、山梨時事新聞記者となる。のち同労働組合書記長。1970年ころから朝鮮渡来文化を研究、1980年、朝鮮文化社主催のシンポジウム「甲斐の古代文化」に参加、司会を兼ねて講師をつとめる。1982年、「月刊新山梨」を創刊、編集発行人となり、1993年、134号を以って休刊までの間、同誌上に朝鮮渡来文化についての論考や種々のエッセーを発表。2002年、第6回岡山・吉備の国「内田百聞文学賞」優秀賞を受賞。現在、『高麗美術館』に李朝美術についてのエッセーを連載中。
著書に『千塚物語』『輾転点々』(新山梨社)、『蘇る朝鮮文化』(明石書店)、『輝いて生きた人々』(山梨ふるさと文庫)、『美は乱調にあり、生は無頼にあり』(批評社)、共著に『甲府中学・甲府一高百年誌』(同校同窓会)など。
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