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核と人類は共存できない
核絶対否定への歩み
- 初版年月日
- 2015年8月
- 書店発売日
- 2015年8月1日
- 登録日
- 2015年6月15日
- 最終更新日
- 2016年5月25日
紹介
敗戦から70年は、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下から70年。また、原水爆禁止日本国民会議が結成されてから50周年にもなります。原水爆禁止運動の「父」のような存在で、凛とした風貌は、世界中から敬愛されてきました。核戦争がせまる危機的状況にあって、何を考え、何をしてきたのか─。
目次
序 言 世代にわたるたたかいを
ここに哲学者がいる(大江健三郎)
第1章 核絶対否定への歩み
原発の贈り物
平和利用博
被団協の宣言
タペストリー
ソ連の核実験
核なき未来
科学者の良心
反原発の理論
欧州の運動
太平洋の叫び
生存のために
核文明批判
第2章 反核・被爆者運動の歩みと私
核戦争の危機と世界民衆の連帯
被爆三十周年を迎えて──核絶対否定
被爆三十周年原水禁大会基調演説
被爆三十一周年を迎えて──「援護法」・「反原発」
被爆三十二周年を迎えて──再び「援護法」・「反原発」
「座り込み十年」の「前史」と理念
被爆者運動の歩みと私
四国電力伊方原発訴訟における原告側「準備書面(一二)」の意味するもの
第3章 愛の文明と慈の文化
愛の文明
慈の文化
第4章 問われている日本の反核運動
被爆四十周年に思うこと──若い人に期待する
二学生の死
最後の生き証人・原爆小頭児
原爆孤児と人間愛
被爆者から見たABCC問題
第5章 さまざまな人との出会い
シュバイツァー博士を訪れて
ラッセル博士と会見
ローマ法王「いのちのためのアピール」
ノエルベーカー卿とヒロシマ
終 章 ふるさとと私
ふるさとと私
水棹のむ背の如く──解説に替えて(森瀧春子)
生きること、哲学としての核絶対否定(藤本泰成)
年 表
初出一覧
前書きなど
生きること、哲学としての核絶対否定
原水爆禁止日本国民会議事務局長 藤本泰成
核不拡散条約(NPT)再検討会議を前にして、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)は、米国ニューメキシコ州のグランツ・ミネラルベルト、ウラン採掘場跡や精錬場跡が点々とする米国先住民族の居住地域を訪問しました。未だに放射能レベルの高い鉱滓が、先住民の集落のすぐ脇に野積みされている状況に驚かされます。突然に企業がやってきて、先住民の聖なる土地でウラン採掘をはじめました。ウランを掘り尽くしたら、また突然いなくなりました。何の説明も無く、先住民はいつも通りに暮らし放射能を浴びました。そして環境は汚染され、何の補償もありませんでした。日本社会は、そのウラン鉱を燃料にした原子力発電所のエネルギーに頼り、経済成長を遂げました。
一九七五年、南太平洋フィジーでの「非核太平洋会議」に出席した被爆者森瀧市郎は、オーストラリア先住民のウラン採掘に反対する声を聞きます。そして、その年の「被爆三十周年原水禁大会」で、多くの仲間とともに「人類は生きねばなりません。そのためには『核絶対否定』の道しか残されてはいないのであります」(『被爆三十周年原水禁大会基調』)と、全世界に訴えました。
私たちは、ニューメキシコ州のウラン鉱の採掘の現場で、先住民の土地を蹂躙する企業の姿を目にしました。差別と搾取、人としての権利を無視して作り出される原子力エネルギーの実態を目の当たりにしました。核社会が、ウラン採掘という最初から使用済み核燃料の処分という最後まで、放射能との闘いであり、差別と搾取の中にあることに気がついた哲学者森瀧市郎は、「核と人類は共存できない」と叫び核絶対否定の道を歩み続けます。
原水禁の運動は、一九五四年のビキニ環礁での核実験と日本のマグロ漁船第五福竜丸乗組員が被曝した事件から始まりました。広島と長崎の被爆から十年、皮肉にも核実験によって被爆者に光があたったのです。しかし、一方で原子力の平和利用への道が開かれていきました。原爆ドームの保存運動の先頭に立った自らも被爆者である浜井信三広島市長は、当時「原子力の最初の犠牲都市に原子力の平和利用が行われることは、亡き犠牲者への慰霊にもなる。死のための原子力が生のために利用されることに市民は賛成すると思う」(『核絶対否定への歩み』)と述べたと記されています。森瀧市郎は、「あれだけ悲惨な体験をした私たち広島、長崎の被爆生存者さえも、あれほど恐るべき力が、もし平和的に利用されるとしたら、どんなに素晴らしい未来が開かれることだろうかと、今から思えば穴に入りたいほど恥ずかしい空想を抱いていたのである」(『核絶対否定への歩み』)と述べています。
「地下室の光の足らん薄やみの中で、生きてる者は皆うめいております。亡くなった者は皆腐っておる。あの地下室の状況は、地上における生きた地獄というものがあるとすればこんなものという光景で、これは忘れることができません」(『被曝四十一年に思うこと』)
広島高等師範学校の教員時代に森瀧市郎は、学徒動員の引率先で被爆しました。彼は、その脳裏に焼き付いた光景をもって、原水禁運動の先頭に立ち、思想的・精神的支柱として大きな役割を担っていきます。原水禁運動が政治的イデオロギーに偏ることなく、そして、平和利用を肯定することなく、今私たちが胸を張ってその正しさを主張できるのは、森瀧市郎が存在したからこそではないでしょうか。私は、原水禁運動の中に、人間を、人間の営みや自然との関わりを、深く洞察する哲学者のまなざしを感じます。「力は力をほこり、力の世界のことは力の原理によってのみ解決されるとして愛の力を笑った、が今愛の前に自己の無力を懺悔して救済を求める段階に来ているのではないか」(『慈の文化』)。この言葉があったからこそ原水禁運動は、道をそれることなく続いてきたのだろうと思います。
「原爆後四十二年間、私が『力の文明』として批判した所のものは、その方向を変えようとはしなかった」(『愛の文明』)。核兵器廃絶に向けて、そして原子力の平和利用さえも否定し、核絶対否定の道を歩み続けてなお、二〇一一年三月十一日の福島原発事故がありました。私たちは、今こそ哲学者であり被爆者である森瀧市郎の声を聞かなくてはなりません。「力の文明」から「愛の文明」へ、命に寄り添う社会を求めて舵を切ろうではありませんか。
原水禁は、戦後七十年、結成五十年を迎える今日、その意を持って本書を多くの若者に贈りたいと思います。
上記内容は本書刊行時のものです。