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白神山地マタギ伝
鈴木忠勝の生涯
- 初版年月日
- 2014年9月
- 書店発売日
- 2014年8月27日
- 登録日
- 2014年7月28日
- 最終更新日
- 2015年1月29日
書評掲載情報
2014-10-26 |
東京新聞/中日新聞
評者: 宇江敏勝(作家・林業家) |
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紹介
忠勝の死(1990年)に関して、「これで目屋のマダギも終わったナ」という何人かの村人たちの噂を私は耳にしている。たしかに鈴木忠勝(明治40年=1907年生)は名実ともに、村の誰もが認める最後の伝承マタギだった。忠勝はマタギ集団のリーダー、すなわち「シカリ」として知れ渡っていた。忠勝がマタギであることを否定する村人は一人もいない。(はじめに)
──永年にわたる付き合いのあった著者が、残されたたくさんの写真と録音から、白神山地の最後の伝承マタギの生涯を綴ります。著者の白神山地シリーズの最終作といえる大作です。
目次
はじめに
第1章 水没集落
第2章 白神山地とマタギ
第3章 クマ狩り
第4章 山々に残る伝承
第5章 山の暮らし
第6章 白神山地をめぐる歴史
終 章 ひとつの山村の消滅と将来について
おわりに
前書きなど
あとがき
白神山地ではブナを主体としたミズナラ、イタヤカエデ、サワグルミなどの落葉広葉樹林からなる豊かな自然が脈々と息づいている。それは文字どおり山川草木悉皆成仏の、循環と連鎖が織りなす、命を基軸にした曼荼羅世界である。
高校時代から登山にうつつを抜かしていた私は、憧れていたヒマラヤにもたびたび出かけるようになると、その一方で、「神々の御座」と言われて天空にそそり立つ慈悲深い氷雪嶺とは異なる安らぎをブナの山々の自然に見出すようになっていた。ブナの渓流でイワナを釣り、焚火を見つめて沈思黙考する日々は俗世間から隔絶された至福の世界だった。安心立命の境地とでもいうのだろうか。
鈴木忠勝と知り合ったのはそのころである。イワナ釣りの好きだった私は、若気の至りというべきか旺盛な釣欲の赴くまま、人煙絶えた深山幽谷で釣ることを念頭にできるだけ奥地、つまり秋田との県境付近の源流に関する情報ばかりを知りたがった。奥地に行けば、大きなイワナを存分に釣ることができるだろうし、世俗にまみれていない自然を満喫できる、といった考えからだった。
当時、私は三十代であり、若さに溢れ、体力的にも恵まれていた。食糧やテントをザックに入れて背負い、釣りながら渓流をわけもなく遡行していた。下山後、そのときどきの山行の様子を鈴木忠勝に知らせるのだが、そうすれば会話も弾み、必然的に、沢や滝の名前、杣道、伝説などについても口伝を受けることになる。
私が鈴木忠勝から伝授された知識は、白神山地の自然と人の関係を理解するための必須条件だった。私には登山の心得があったので、地図や磁石と同じように、鈴木忠勝から受け継いだ伝承を指針に四季を通じて丹念に白神山地を歩き回ることができた。ナタメに導かれて杣道をたどり、流れを渡渉し尾根を越え、イワナを釣り、焚火をし、星空を仰ぎながら、赤々と燃え盛るその焚火でイワナを炙って食べ、夜のしじまにせせらぎを聴き、いにしえの人たちの心境に思いを馳せたりしたのだ。風雨や吹雪の山々で、一時の晴れ間の美しさに魅了され、時空を超越した自然の息吹を感じ取っていた。
その思いは遥か縄文の昔にまで遡る。縄文時代とたいして変わらぬ自然の中で過ごしているのだから、それも当然だろうと思う。こうした体験によって磨かれた、自然に対する認識や感性は、心身ともに自らを形成する上での養分になっている。この養分こそ、昔の伝承マタギが生きた前近代的な、魑魅魍魎が支配する自然の神秘性につながる精神的紐帯である。森羅万象に宿る神秘性は深遠であり、先人はそれを魔物や妖怪になぞらえていたのではないだろうか。
私は鈴木忠勝を介して、白神山地の自然にかかわる多くの体験や知識を得たけれど、もっと知りたいことがあったにもかかわらず、自らの至らなさから、鈴木忠勝が持っていた知見の一部しか引き出せなかったことは残念である。
いまにして思えば、鈴木忠勝が体現したのは、近代の合理性だけでは測り知ることのできない前近代に属する、自然が与えてくれる恵み以上には望むべくもない制約された生活での足るを知る世界だった。
……
上記内容は本書刊行時のものです。