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「第九」と日本 出会いの歴史
板東ドイツ人俘虜収容所の演奏会と文化活動の記録
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2011年9月
- 書店発売日
- 2011年9月12日
- 登録日
- 2011年7月11日
- 最終更新日
- 2014年12月19日
紹介
バルトの楽園で脚光を浴びた板東収容所の俘虜の音楽活動に焦点を当てたビジュアル歴史読本。
収容所の写真はもとより、収容所の印刷所で作られた多数のコンサート(1917-19 の32 ヵ月で100 回以上)のプログラム、楽譜など貴重なカラー資料を100 枚以上使って解説。日本における「第九」のルーツの詳細と、奇跡的な日独交流の史実を明らにする。
目次
はじめに
膠州のドイツ租借地
丸亀の寺社内に設けられた仮俘虜収容所
板東のバラック式収容所
ベートーヴェン作品のコンサートプログラム
パウル・エンゲルとその手紙
板東における日本初演 交響曲第九番
ベートーヴェン作品の入った他のコンサート・プログラム
その他のコンサート
板東の劇場と演劇
人形劇と展覧会
俘虜生活の終わり
おわりに
板東俘虜収容所関連年譜
図版一覧
前書きなど
インゲボルグ・エッセルは、父親の遺した板東俘虜収容所時代のコンサート・プログラ
ムの冊子に関して、最も適切な相談先は、ベートーヴェン・ハウスではないかと常々考
えていた。そこでミュージアムを訪問し、亡き父のコレクションについて話をした。彼
女の父親ハインリッヒ・ティースは、第一次世界大戦の時に1917 年から1919 年にかけ
て日本の俘虜となり、収容所における文化活動を示す無数の文書をドイツに持ち帰って
いた。彼女のベートーヴェン・ハウス訪問こそ、肥沃な土地に播かれた一粒の種となった。
ベートーヴェン・ハウスの責任者が、早速、彼女の家を訪問し遺品を検討した。そこに
は、コンサートや演劇のプログラムのほぼ完全なコレクションが、一冊に綴じられて残っ
ていた。のみならず、板東で印刷された数種類の新聞、“ 美術工芸品展覧会” のカタログ、
収容所の案内書、大きなアルバムに収められた写真集もあった。とりわけ関心を惹いた
のは、ベートーヴェンの作品が数多く演奏されていたことである。この地こそ紛れもなく、
1917 年6 月1 日に、日本における「第九」交響曲の初演が行われた場所であった。これ
らの文書は、研究対象として非常に興味深いものであり、ベートーヴェン・ハウスで特
別展を通じ一般公開に踏み切ることが合意された。“ 音楽の力――1917 ~1919 年の板
東俘虜収容所における文化活動” と題する特別展は、大盛況であった。板東において制作
された精緻なデザインと多色刷りのコンサートや演劇のプログラムが、公開前に専門的
に復元され、ベートーヴェンの作品の自筆譜と並べて展示された。効果は絶大で、それ
はあたかも板東における文化的活動を、万華鏡で見るかのごとき、色鮮やかな世界となっ
た。展示会が終了したとき、インゲボルグ・エッセルは、父の遺品の収まるべき処を得
たと確信し、すべてをベートーヴェン・ハウスに快く寄贈することを決めたのである。
展示会の開催中(2009 年1 月~6 月)に、数名の板東の俘虜の子孫たちから自分た
ちの父親の遺産の中にも興味深いものがあるとの申し出でがあった。その結果、例えば、
板東で印刷された収容所の詳細な大型図面、およびそれ以前の仮収容所の図面も含め
て、展示内容を一層充実することができた。その後、シモン家の持つこの一連の文書は、
幸いにも、ベートーヴェン・ハウスに永久貸与されることになった。参観者の中には、
自分たちの祖先が、収容所でどのような生活を送ったかを話し合ったり、祖父を写真
の中に見出したりするなどの感動的な場面もしばしばあった。ベートーヴェン・ハウ
スを訪れたスイス人の女性は、コンサートや演劇のプログラムの中に、あの精緻なデ
ザインを彫った自分の祖父グスターフ・メラーの署名が印刷されているのを発見して
いる。
本書出版の経緯
(その後、ウェブ上で日本語版の展示内容が公開された。それを機に大沼幸雄氏を通
じ彩流社より出版の話があり、今般、出版の運びとなった)当協会は、本書の出版を
通じ、この舞台となった日本で、さらに多くの人々に、この出来事が知られる機会が
ふえることを大いに歓迎したい。板東収容所での生活は、著しい苦境の中で、人間にとっ
て文化がいかに精神力の源泉として重要であるかを示す好例である。また一時的に敵
同士であっても、文化交流を通じて、友となりうることを示す好例でもある。板東の
町役場は、俘虜の手になる450 品目もの美術・工芸品の展覧会用に板東公会堂を提供
した。この見知らぬ国の文化を吸収するために、約5 万人の見物客が訪れ、19 名の通
訳が案内役をつとめた。双方がお互いに学びあっていた。収容所の一つのオーケスト
ラの指揮者パウル・エンゲルは、収容所外で、日本人学生に音楽を教えていた。その
結果、戦争が終結した時には、徳島で日独共演の公開コンサートが開催できた。我々は、
こうした考え――すなわち、未知なるものへの好奇心と文化が精神力の源であり人間
の知性と感性を磨く場となるとの考え――が、いつの世までも続くことを願うもので
ある。ベートーヴェンの「第九」にある“ すべての人々は兄弟となる” との頌詩が、板
東で広く受け入れられたのも決して偶然ではない。
ニコレ・ケンプケン(ベートーヴェン・ハウス ボン)
上記内容は本書刊行時のものです。