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V・O・クリュチェフスキー ロバート・F・バーンズ(著) - 彩流社
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V・O・クリュチェフスキー (ヴァシーリーオシポーヴィチクリュチェフスキー) ロシアの歴史家 (ロシアノレキシカ)
原書: V.O.Kliuchevskii,Historian of Russia.

歴史・地理
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発行:彩流社
A5判
縦215mm 横155mm 厚さ30mm
重さ 620g
462ページ
上製
定価 4,800円+税
ISBN
978-4-7791-1485-4   COPY
ISBN 13
9784779114854   COPY
ISBN 10h
4-7791-1485-3   COPY
ISBN 10
4779114853   COPY
出版者記号
7791   COPY
Cコード
C0023  
0:一般 0:単行本 23:伝記
出版社在庫情報
在庫僅少
初版年月日
2010年10月
書店発売日
登録日
2010年4月5日
最終更新日
2019年7月26日
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紹介

ヴァシーリー・オシポーヴィチ・クリュチェフスキー(一八四一~一九一一年)の生涯と学問。国民意識の覚醒を目指したクリュチェフスキーの独特のスタイルと語りの芸術性を備えた講義録に新たな評価を加えるとともに、多面的な歴史家像の構築によって、その可能性を現代に蘇らせた労作。ロシア史研究に新しい刺激を与える好著である。

目次

目 次

謝 辞
序 文

  第一部 はじまり
第一章ペンザの「鐘の下で」
第二章「私は学問への道を歩み始めた」
第三章 「導きの星たち」――モスクワ大学歴史・文献学部
第四章 準備と変化の時期
第五章 突破――『貴族会議』
  第二部 モスクワ大学教授
第六章教授生活
第七章 外部世界からの干渉
第八章 学者

  第三部 ロシア史を読み解く
第九章 ロシアおよびロシア人の起源
第十章 ロシア史の流れ
第十一章 教会と宗教分裂――西欧との関係のジレンマ
第十二章 専制と専制君主の政策――西欧との関係のジレンマ

  第四部 国民を創りだす試み
第十三章 「国民の教師」
第十四章 国民形成者としてのクリュチェフスキー
第十五章 晩年

解 題 バーンズのクリュチェフスキー伝について

訳者あとがき
文献目録
原 注
文献案内
索 引

前書きなど

序 文

 本書はヴァシーリー・オシポーヴィチ・クリュチェフスキー(一八四一~一九一一年)の生涯と学問を扱ったものである。クリュチェフスキーは多くの専門家たちによってロシアのもっとも優れた歴史家とみなされ、教えること、書くこと、若い学者を訓練することを通して、ロシアの過去にたいするロシア人自身や他の人びとの見方に大きな影響を与えた人物である。彼の名声のほとんどは、四○年以上にわたって彼が講じたロシア史概論である五巻本の『ロシア史講義』に基づいている。『ロシア史講義』はほとんど間違いなく、かつて出版されたロシア史に関する研究書の中でもっとも広く読まれ、もっとも影響力のあった書物である。クリュチェフスキーはすばらしい教師であった。その献身、博識、教師としての卓越した技量は、多くの人びとの思いを自国の過去へと駆り立てないではおかなかった。一八六八年から一九一○年まで、彼は一一○の学期を教えた。モスクワ神学アカデミー――ロシアでもっとも神聖な、国の中心たる聖堂である聖三位一体修道院内にあるロシア正教会の四つの上級神学校のひとつ――で三五の学期を、また三一の学期を、ロシアでもっとも尊敬されている教育機関であり、西欧思想の牙城であるモスクワ大学で教えた。これら二つの愛国主義的な国立の機関――ひとつは内側に、他方は西欧に向いていた――に加えて、クリュチェフスキーはまた、士官学校や女性のための教育課程、絵画・彫刻・建築学校でも講義した。
 ペンザ県の貧しい教区司祭の息子であったクリュチェフスキーは、田舎から大学を経てロシア史の分野で最高の地位にまで自分の道を切り開いた。彼はたたき上げの学者であったが、その誠実さ、一次資料の重視、自立的な思考、(「なぜ歴史はあの道ではなく、この道を通ったのか」という)絶えざる問いかけ、そして冷静さのゆえに、国家一辺倒であった歴史学派から遠ざかることになった。クリュチェフスキーが、社会の経済的、社会的、そして制度的な「構成要素」を強調したことは、ロシア史研究の中心部に深い刻印を残し、一部のロシア人によるマルクス主義的なアプローチの採用を可能にした。同様に、歴史とは思想からも強力な個人からも影響を受けない、ゆっくりと流れる川のようなものだ、という彼の結論は、マスクス主義的決定論の受容に役立ったかもしれないのである。
 クリュチェフスキー自身が職業的な歴史研究の道に導き入れ、鍛えようとした弟子たちは彼の信念と技術を受け入れた。その大半の者たちは、一九二一年以後のロシアでは困難な状況に置かれたが、研究を続け、クリュチェフスキーの信念を保持し、ソヴィエトの歴史家の第一、第二世代の養成に努め、さらに一九三五年以降のソヴィエトの教科書作成において重要な役割を果たしさえした。その一人は一九一八年から一九二三年の間に出版されたクリュチェフスキーの『ロシア史講義』の最初のソヴィエト版を編集したし、他の三名の者たちは一九三七年から三八年に出版された正確さでは定評のある版の編集を行った。『ロシア史講義』は一九五○年代の終わりにも、また一九八七年から一九九三年の間にも多くの部数が出版された(後者の期間だけでも三二万五○○○部が出版された)。このことは、クリュチェフスキーがソヴィエトの公式の歴史学にとって、魅力的なオータナティブであり続けたことを物語っている。さらに、一一の外国語に翻訳された『ロシア史講義』はロシアの外部、特にイギリスとアメリカ合衆国で、その国の学者たちがロシア研究を始める際に、ロシアの過去についての彼ら見方を形成するのに役立った。
 クリュチェフスキーは、ひかえめな恥ずかしがりやの「田舎者」で、古いロシアを愛し、当時のモスクワ郊外にあたる場所で旧ロシア風な生活を送り、庭造りと釣りを楽しんだ。こういった資質と彼が経験した貧困、さらにモスクワで学問を始めた時期の苦難が、ロシアの過去についての彼の見解に深い影響を与えた。彼にとって、ロシアはつねに「ぎりぎりの状況にあった」国で、最初の数世紀の「厳しい環境」、大地の広がり、国内の分裂、強力な外敵の絶えざる脅威をやっとのことで耐え抜いてきた国であった。彼は専制主義者や後の専制的国家体制を生み出した責任をこれらの諸要素に帰し、専制主義者や専制的国家体制がロシアにとって「自然で、必然的」であると考えたのである。
 クリュチェフスキーは成人になってから、学者の友人たちの小さな集まりに出かける以外は、すべての生活をモスクワ市とその近郊で自分の仕事だけに集中して過ごした。サンクト・ペテルブルグに行ったのは、大学院生として調査資料を見る必要があった時と、一九○五年に政府が助言を求めてきた際に首席研究員として赴いた時だけであった。キエフには一八七四年に一度出かけただけで、ワルシャワやオデッサや他の大都市には行ったことがなかった。ウラル山脈の東を旅したこともなく、非ロシアで非正教の人びとについては完全に無知であった。社交界にも宮廷にも友人がいなかった。同様に農民や労働者の生活にも通じていなかった。眼前で工業化が繰り広げる変化にも気づかなかった。外国にも行ったことがなかったのである。
 その反面、クリュチェフスキーがモスクワで暮らした初めの時期はアレクサンドル二世の改革の時代で、国家による管理がそれ以降も持続的に弱まっていくという明るい見通しのある時期であった。さらに、彼と彼の世代――-才能ある人びとの世代――の師となった有能な学者たちは、かつてヨーロッパを旅行したり、そこで学んだ人びとであった。彼らは、ヨーロッパがロシアより自由で、より繁栄し、より強力であるのを自分の目で見ながら過ごしただけではなく、ギゾー、テーヌ、トクヴィル、バックルなどの著作をクリュチェフスキーに紹介してくれた。彼らの思想はずっと彼に影響を与えた。つまり、彼のロシア史とは、ロシア人の生活との限定的な接触、イギリスやフランスの刺激的な学者の著作への知識、非常にハイレベルな学者集団への所属、ロシアの文書館と図書館での長い研究の歳月などによって深く特徴づけられた輝かしい知的な創造物なのである。
 若き日のクリュチェフスキーは、ヨーロッパ諸民族が国民国家をつくり上げようとしているのにたいして、ロシアはその過程で遅れをとっているという結論に達した。彼の考えでは、歴史家は国家の形成においてビスマルクや[カミロ・]カヴール[イタリアの政治家。一八一〇~六一年]と同じくらい重要な意義を持っていた。つまり、過去の知識は、成功した軍事行動と同じように、人民を統合することができるのだ。ロシアには国家はあっても、統一した国民が存在しない、と確信した彼は、ロシア人が自分たちの過去に目覚め、歴史の知識を通して自らの国民意識を獲得できるようにするために教師としての自分の生涯を捧げたのである。
 クリュチェフスキーは彼自身も彼が指導した人びともともに、大学を通して国民に知識を伝えるためにチモフェイ・グラノフスキーがつくり上げたある種の宣教団の一員であるとみなしていた。グラノフスキーは、一八三九年から一八五五年に早世するまで、大学で西欧史とロシア史を教えた啓蒙的な教授で、誰からも愛された人物であった。クリュチェフスキーが自分の献身的な仕事において主要な指針としたのは、ロシア史全体にわたって一貫した総合的な見方を与えることであった。それは学生と読者たちに、自分たちの国の長い歴史における愚行と災厄、栄光と達成を理解させようとするものでもあった。彼の著作と論文は、アナール派の歴史家が「長期持続」と呼ぶところのものを視野に入れていた。彼の見解のあるものは今日では程度が低く、古びたものにみえる。後の世代がそれらの見解を当たり前の知識にし、また後の学者が彼が使えなかった情報を入手したりしたからだ。しかしあらゆる国のさまざまな信条を持った学者たちが、クリュチェフスキーが提起した問題を研究し続け、彼のアプローチに従い、また彼の研究には深みがあり、彼の見解は想像力に富むと同時に穏当でもあることを認めているのである。
 クリュチェフスキーの歴史は深い意味で愛国主義的ではあったが、民族的というよりは文化的で、地域に根ざしていて、穏やかで攻撃性がなかった。彼のもっとも重要なテーゼのひとつは、ロシア人と最初のロシア国家は一○世紀のキエフにその源を持っていたというものである。この見解は独創的でも、また当時においてさえも風変わりではなかったが、それはウクライナ人や白ロシア人が存在せず、ウクライナ人、白ロシア人がロシア人であったことを意味していた。それはウクライナ人や白ロシア人の学者の見解と、また後には他の国の学者たちの見解とも対立した。彼らはキエフ国家がウクライナの母であり、一方ロシアの根底は一四世紀のモスクワにあったと結論づけたのである。これらの不一致、また敵対する愛国主義者のグループの間における見解の不一致は、二○世紀にはより先鋭的なものとなり、一九一七年のロシア帝国崩壊を促し、一九九一年の独立ウクライナと白ロシアの成立を導いたのである。
 ロシア史全体を通じての西欧とロシアの関係は、クリュチェフスキーにとって中心的な問題であった。もっとも彼は、ロシアはヨーロッパの一部ではあるが、その周辺部にあると考えていた。初めの数世紀にロシア文化はすでに西欧の思想や産物を静かに、目に見える形の結果を生み出すことなく、吸収していたのである。しかし、一七世紀後半に幾人かのロシア正教会の指導者たちが、儀式におけるささいな誤りを根絶するために西欧の学問を利用しようとしたことで、教会の統一性と国民的統合はその根底を揺るがされることになった。またそれは、かつてはロシアの民衆を「文明化し」、教育の「屋台骨」を健康に保ち、宗教的、国民的統合に貢献していた教会の傲慢さと知的貧困を明らかにした。敬虔な正教徒であったにもかかわらず、クリュチェフスキーはロシア史において教会が持つ役割にきわめて小さな意義しか与えず、教会内の分裂[一七世紀なかばの総主教ニーコンの教会儀式改革とその後の分裂を指す]以後に西欧の影響がロシアに流入した主要な原因を教会の脆弱さに帰したのである。
 クリュチェフスキーは、一七世紀以後にロシアの支配者たちが直面したジレンマ、また後にソヴィエトの指導者たちが解決に失敗し、今日も世界中で多くの国々が直面している困難を鋭敏に感じとり、記述した。それは簡単に言えば、次のようなことである。ピョートル大帝、エカチェリーナ女帝、そして彼らの後継者たちは、一六世紀以後のヨーロッパ諸国家における力の増大が、ロシアと西欧を切り離していた経済的、軍事的な格差を拡げたことを認識していた。ロシアが独立を保つことができるのは、西欧にその優越性をもたらした手段と技術をロシアが借用し、吸収し、利用した時だけであると彼らは結論したのである。しかし、手段の借用はヨーロッパの発展の基になった価値観と信念をももたらし、それらはロシア独自の文化と制度を破壊してしまった。その結果、ロシアの西欧化をもっとも促進した支配者たちは、統制を強め、後進性の第一の原因であった集権的国家の権威を拡大した。つまり、借用によって「追いつこう」とする努力が、それ以前に国内状況や外圧がそうしたように、専制を強化したのである。
 教会が脆弱であるという確信、ロシアの支配者たちを苦しめた謎についての考察、民族的な諸問題を解決できない国家の無能さへの深まる認識――これらがクリュチェフスキーをいよいよおびえさせることになった。彼の憂鬱とペシミズムはチェーホフのものに似ていた。彼は変革の時がゆっくりロシアに近づいていると結論を下した。ロシア史は永遠の流れであって、そこではすべての要素は他のすべての要素と関連しており、すべてがたえず変化していた。過去とは、革命や個々の指導者によってもたらされる明確な切れ目などが存在しない、つなぎ目のない波のようなものであった。ツァーリも、左右の過激分子も、この流れに影響を及ぼすことができないこと、そして受動性こそが適切な対応であることを彼は納得した。つまり、専制はいつか衰え、消える去るだろう。しかし、それに続く支配体制もやがてはそうなるのだ。
 ある人びとにとってクリュチェフスキーが魅力的なのは、彼の公正さ、祖国と祖国の人民への信頼、西欧の恵みはかならずロシアにやってくるという確信のゆえであった。またある人びとには、彼は旧来のやり方への愛着、政治への無関心、受動性、ロシアの未来を指図できると考える人びとにたいする批判によって強い印象を与えたのである。
 クリュチェフスキーの過去の見方について評者たちがいかなる結論を下そうが、彼の学者としての資質、冷静さ、鋭い洞察力、教えたり書いたりする際の天賦の才はすべての人が認めるところであった。
 クリュチェフスキーの生涯と学問の中心にあったのは、国民意識と国民を創造するために教育することつまり、講義することと書くことに身を捧げることであった。教師としての並々ならぬ能力は、彼が自分の技能にささげた際限のないほどの努力――それぞれの講義の目的と構成についての反省はもとより、膨大な知識の獲得、説明のためにたえず確認することなど――によって発展したものであった。語彙は豊富で、巧みに状況を描き出し、学生たちにクリュチェフスキー自身と彼ら自身がその状況の参加者であるかのように思わせることができた。個人についての描写は忘れがたいもので、アフォリズムは学生や読者が理解したり記憶したりするのに役立った。彼はまた優れた俳優であった。しゃがれ声のテノールで、発音は明瞭で、絶妙な調子があった。ロシア史の全体像を与えると同時に細部と個々の人物像をも紹介しようとする技術は、歴史研究を芸術にまで高めることになった。教室に入ると、この穏やかで謙虚な男はすばらしい弁士に変身するのであった。
 クリュチェフスキーの著作にはまさに説得力があった。彼は一語一語、言葉という「大理石を磨き上げた」。自分の考えが正しく明晰であることを確信するために、書き直し、さらに書き直し、そしてまた書き直した。ちょうど当時アメリカ合衆国でそうあったように、歴史記述は彼をもって文学の形態をとることになったのである。
 何よりも彼は自分の授業と学生たちを愛した。彼の死後にヨーロッパ・ロシアにばらまかれた数多くの教師たち、また革命の後にも教え続けた学者・教師たちを育てたことは、彼の功績のひとつであり、もうひとつの功績は『ロシア史講義』であった。卓越した学者がほとんど永久的な影響力を持ちうるというのは真実である。彼の教室での授業、公開講義、学問は彼をロシア文化のすばらしい開花の時代――トルストイ、シャリャーピン、レーピン、ドストエフスキー、チェーホフ、チャイコフスキーのような巨人の生きた時代――のもっとも優れた代表者の一人にした。またそれらはクリュチェフスキーを最高の学者・作家としてエドワード・ギボン[イギリスの歴史家。一七三七~九四年。代表作は『ローマ帝国衰亡史』全六巻]のレベルに到達せしめたのである。

版元から一言

訳者あとがき

 本書の著者ロバート・バーンズと本書の持つ学術的な意味については解題にゆずり、ここでは訳者が翻訳中にしばしば感じることになった本書のテキストとしての魅力について若干述べることで「あとがき」としたい。
 本書は、その六割弱を占める、クリュチェフスキーの伝記を中心とした彼の学問・研究についての全体的な記述(第一部、第二部、最終章)と、残りの四割強が割かれた、彼の歴史研究の内容とその問題性、さらに彼の宗教観、政治観、教育観等についての記述(第三部、最終章を除く第四部)からなっている。これは欧米の思想史等の個人研究によく見られる伝統的なスタイルに近いが、このスタイルでの著述はしばしば伝記的な記述が深みのない履歴風なものになる場合も多い。それは、評伝ではなく学術的な研究書が目指されているため、やむをえないといえるかも知れない。
 しかし、本書はまず伝記的部分が一個の評伝ともいえるほどに、クリュチェフスキーという複雑で、学問と人生がひとつに結びついた人物を巧みに描き出している点で出色である。それは、ひとつには手紙や覚え書き、さらに走り書きをも含む使用可能なほとんどすべての資料を渉猟した研究であることによるが、バーンズのほぼ晩年、七八歳の著作であることももうひとつの理由であろう。長い人生経験で磨かれた人間観、蓄積された深い学識と巧みな表現力、これらが伝記的部分を魅力的なものにしている。例えばそれは、地方の村の貧しい家に生まれ、その才知の故に神学校からモスクワ大学に脱出できたクリュチェフスキーが、その後家族や故郷の町、ペンザとのつながりをほとんど絶ってしまったことの指摘にもよくあらわれている。バーンズは「ペンザと彼の家族が彼の人生から滑り落ちてしまったように、ペンザの方も彼を忘れていた」と記している。また、結局後継者として推薦してくれなかった師である偉大なソロヴィヨーフへの屈折した思い、さらに、クリュチェフスキーの終生の関心事が金銭に関するものであったことなどへの記述に窺われる。クリュチェフスキーの収入に関しては、教官任命の際の書類、大学の年間報告書、大学や神学アカデミーの書類、書簡、金銭帳簿を総合して二ページに渡って詳述されているのである。さらに、彼の慎重で受動的な性格や、膨大な資料が存在するにもかかわらず、ピープスやボズエルのように、ほとんど内面生活をもらさなかったクリュチェフスキーについての描写もおもしろい。
 また、バーンズの深い学識と巧みな表現力によって、当時のロシア、モスクワ(モスクワ大学とその歴史・文献学部)の文化的、教育的環境や西欧史学の流入等が社会史的に生き生きと描写され、その部分はそれらについての格好なガイドとなっている。特にクリュチェフスキーの師・同僚・弟子(ソロヴィヨーフ、ゲリエ、ブスラーエフ、ヴィノグラードフ、ゴルスキー、ゴルブツォフ等)についてのポートレートを含む記述は、当時のロシア史学・人文学の状況を知りたいと思う者には有益である。
 本書第三部と、最終章を除く第四部は、すでに述べたようにクリュチェフスキーの歴史学の内容とその問題性やそれらと関係した彼自身の宗教観、政治観・国家観(専制についての見解)、教育者としてのクリュチェフスキーなどをテーマ別に考察した部分である。ロシア史にある程度通じている読者ならその細部のさまざまな記述から興味深い事実や見解を数多く知ることができるだろう。しかし、歴史家としての彼の主張とその問題点や政治観を手短に知りたいと思う読者には、少し読みにくい部分かも知れない。それはひとつにはクリュチェフスキー自身の歴史観そのものが簡単には説明できないもので(「彼の仕事を正確に要約することは、彼の表現が正確で明瞭であるにもかかわらず困難である」)、本書の伝記的な部分を含めた全体の読み解きからしか浮かび上がってこない代物であることによる。しかし、クリュチェフスキーの研究が簡単に要約できない主たる理由は、扱われた膨大な量の歴史的事実をクリュチェフスキーが彼独自の歴史観によって記述し、バーンズもそれを出来るだけ忠実に提示しようとしていることによると思われる。歴史において果たした個人の役割についてのクリュチェフスキーの見解は矛盾し、正教・正教会についての評価も、主要な著作においてそれらを無視したにもかかわらず、「ロシア史とロシア文化の不可欠の一部」とも見なし、必ずしも明確とはいえない。専制にたいする評価も時を経て変化し、簡単には規定できない。さらに細分化され、その分野においては極めて実証的であるが、膨大なデータの故に全体的視点を欠きがちな現在の歴史学とは異なって、クリュチェフスキーの歴史学が、実証性の重視とともにロシア国民の歴史を全体的に語り、国民を創りだそうとした複雑な産物であったことも要約を難しくしている。またさらに、社会・国家にたいする使命感や責任感、さらに講義における語り口や著述における巧みな文学的表現といった、現在においては学問内容とはあまり関係がないように思われることがらが大きな意味を持った時代の歴史学であったこともその理由であろう。
 ところでこれらのクリュチェフスキーの歴史学に関する記述によって描き出された彼の歴史観ともいえるもの、それは訳者にとって大きな魅力であった。クリュチェフスキーは一日一六時間を歴史学に捧げた。彼自身「一日に一六時間よろこんで働く気のない学者は生きるに値しない」と述べている。そして、二次文献が少なかったこともあるが、一次資料のみを重視した。同僚たちはクリュチェフスキーが彼らの仕事を参照するのは文献の在処を確かめるためだけであった、と悲しげに書いているという。このような激しく深く静かな探求の中で、理論や思想ではなく、個々の指導者や知識人でもない、地理や風土(「物理的な自然」)、社会の素材(「経済的諸要素、社会的諸利害とそれらを生み出しかつ反映している社会的な諸集団、さらには行政」など)といった、いわばクリュチェフスキーにとっての歴史の実体的要素ともいえるものが、彼の先生たちや同僚を通じた西欧の偉大な歴史家たちの影響もあって、見いだされていくのである。そして、歴史は区切りのない川の流れのようなものであるといった歴史観が形成される。すでに述べたように、クリュチェフスキーの歴史観は簡単には要約できないから、この比喩を理解するには自然性や必然性を重視したクリュチェフスキーや彼の受動的な性格など本書に書かれたことを読み込まねばならない。また、バーンズはクリュチェフスキーが「アナール派の歴史家が『長期持続』と呼ぶところのものを視野に入れていた」と述べているが、このような評価については読者の解釈にゆだねたい。訳者が感銘を受けたのは、この歴史観の基となったクリュチェフスキーの学者・職人的な実証的歴史研究の持つ、歴史の手応えに触れるような感覚であり、歴史の方法論としてわれわれが簡単に語る「実証的」ということの深さと喜びである。クリュチェフスキーは徹底的な原資料の探索と読み込みと現実的な考慮によって一七世紀のパンの価格を推定したが、それは現在でも経済史の研究で使用されているという。彼の実証的研究が持つ凄さの魅力である。そして、このような実証的研究が彼の巧みな芸術的な講義によって国民創生への試みとなりえたことは、当時の歴史研究が、現在の細分化され、同時に膨大でもある歴史研究とは異なっていたこともあろうが、たいへん興味深い。     
 本書は一九九五年に出版された。ソ連邦が崩壊し、「大きな物語」の終焉が語られ、歴史もひとつの解釈・物語であるという歴史学におけるいわゆる「ポスト・モダン」的な見解も広く流布した時期である。穿ってみれば、バーンズはこのような新しい思潮に対してはクリュチェフスキー流の実証的な歴史研究の凄みを示し(歴史に進歩の法則等を見いだそうとする志向をモダンとすれば、ポスト・モダンに連なると思えるアナール学派との繋がりを見いだし)、一方では依然として勢力を保つ重箱の隅をつつく実証的研究に対してクリュチェフスキー流の広い視野に立った語りの歴史学の意味を示したともいえるのである。いずれにしてもモスクワの「田舎者」であったクリュチェフスキー、さまざまな意味において「ロシアの歴史家」であったクリュチェフスキーの魅力は現代にも十分に通用すると思えるのである。
 

著者プロフィール

ロバート・F・バーンズ  (バーンズ,ロバート・F.)  (

Robert F.Byrnes 1917年ニューヨーク生まれ。アマースト・カレッジを経て、1939年よりハーヴァード大学大学院で、クリュチェフスキーの弟子でもあった亡命ロシア人ミハイル・カルポーヴィチの元、ロシア史研究、フランス近代研究を行う。1948年よりコロンビア大学附属ロシア研究所上級研究員。1951年より3年間、アメリカ中央情報局(CIA)勤務。その後、中部ヨーロッパ研究センター長に就任。1956年より、インディアナ大学東ヨーロッパ研究所で歴史学科長等、多面的に活躍する。本訳書(1995年)刊行のわずか二年後の1997年に逝去。

清水 昭雄  (シミズ アキオ)  (共訳

1949年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程満期退学。現在、志學館大学教授。著書、『社会哲学のアクチュアリティ』(共著) 未知谷、2009年。訳書、L.トロツキー『バルカン戦争』 つげ書房新社、2002年。訳書、『道標 ロシア革命批判論文集①』(共訳) 現代企画室、1991年。

加藤 史朗  (カトウ シロウ)  (共訳

1946年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程満期退学。現在、愛知県立大学外国語学部教授。論文、「ゲルツェンと十八世紀」(ロシア語)『ロシア思想史研究』 第3号、2006年。論文、「シチェルバートフの『モスクワ』論」『愛知県立大学外国語学部紀要』(地域研究・国際学編) 42号、2010年。

土肥 恒之  (ドヒ ツネユキ)  (共訳

1947年生まれ。一橋大学大学院社会学研究科博士課程満期退学。現在、一橋大学名誉教授。訳書、クリュチェフスキー 『ロシア農民と農奴制の起源』 未来社、1982年。著書、『岐路に立つ歴史家たち―二十世紀ロシアの歴史学とその周辺』 山川出版社、2000年。

上記内容は本書刊行時のものです。