発行:凱風社
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四六判 240ページ 上製
定価:2,200円+税 総額を計算する
ISBN978-4-7736-2808-1(4-7736-2808-1) C0331
在庫あり
奥付の初版発行年月:2004年02月
書店発売日:2004年02月25日
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紹介
行動する沖縄戦後史研究者の発言集「沖縄同時代史シリーズ」の第9巻。日本はアメリカの世界戦略(NATOによるユーゴ空爆、WTO閣僚会議の決裂など)の補完的役割をますます強め、「戦争ができる普通の国家」を完成させた。サミットが行われたにもかかわらず、沖縄は依然として基地の県内移設や軍港建設問題、米兵の暴行事件に揺れ、物乞い政治に邁進する。そんな中で、真の平和創造・基地撤去をどう進めるべきか。著者は様々な角度から提言する。
目次
●目次 公正・平等な共生社会を 迫られる沖縄の選択
序
はじめに 「沖縄の現実」と「日本の将来」
◆沖縄民衆平和宣言
[I] 変わりゆく日本
1 新しい状況と基地返還運動
【補記1】不審船騒ぎと不確かな世論
【補記2】ユーゴ空爆とは何か
2 新ガイドラインから見えるもの
3 ガイドライン関連法案と沖縄
4 地方公聴会って何だ?
5 横田基地問題と沖縄
6 いま、なぜ、国旗・国歌か?
7 地方分権一括法と米軍用地特措法
8 憲法記念日に想う
9 一九九九年を総括する
[II] 保守県政下の沖縄
1 稲嶺県政の登場とその背景
2 新しい反基地闘争の胎動
3 沖縄闘争の現場から
4 一坪反戦地主排除決議の意味するもの
【補記】森発言の何が問題か
5 住民意思が状況動かす——シアトル・吉野川・ビエケスそして沖縄
6 沖縄はどこへ
【補記1】沖縄の役割
【補記2】〈座談会〉宮里政玄/星野英一/我部政明/新崎盛暉
「軍事力=安全保障の要」は学会の「定説」か——牧野副知事の主張を検証する
【補記3】韓国の米軍基地問題
7 使用期限一五年・軍民共用空港とは何か
8 閉塞状況は打破できるか
[III] 沖縄サミットとは何だったのか
1 沖縄サミットをどうとらえるか
2 沖縄サミットと基地の「県内移設」
3 宴の後に
4 嘉手納基地包囲は成功したが……
【補記1】「基地はいらない人間の鎖県民大行動」実行委員会への要請書
「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対する県民会議」への要請書
【補記2】七・二〇カデナ基地包囲行動についてのアンケート
[IV] 歴史と現在
1 新平和祈念資料館をめぐる問題とは何か
2 いま、何が変わろうとしているのか
3 桂・タフト協定と新ガイドライン
4 沖縄戦の記憶 『沖縄 近い昔の旅——非武の島の記憶』を読んで
5 戦後沖縄の選択
6 「島ぐるみ闘争」を振り返る
【補記1】名護へ基地移設、やり方が同じ 国場幸太郎
反米植民地化へ最初のうねり 喜舎場朝順
【補記2】歴史を切り拓く主体として登場
7 「沖縄イニシアティブ」を読む
8 二〇世紀とは、どんな時代だったか
前書きなど
■はじめに——いま沖縄はどこに立っているのか
一九九五年九月に沸き起こった沖縄の現状打開を求める民衆運動は、沖縄県知事をも巻き込みながら、日米地位協定の見直しと基地の整理・縮小を最低限の島ぐるみ要求として展開されていくことになった。予期せざる沖縄県知事の代理署名拒否に、日本政府は問題解決の糸口を見出だせないまま、結局は、職務執行命令訴訟に踏み切る。首相が知事を相手どって訴訟を提起するという前代未聞の事態は、日本国家と沖縄社会の対決の構図を浮きあがらせ、自立・独立論議を活発化させるような社会的雰囲気も生まれた。
一方、リップサービスや小手先の対応策に失敗し、安保再定義のためのクリントン米大統領の訪日日程も延期せざるをえない状況に直面した政府は、関係閣僚と知事による沖縄米軍基地問題協議会を設けると同時に、日米間にSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置した。復帰後二十数年を経て、沖縄の民衆運動は、ようやく、基地問題に関する沖縄の発言権を、陳情のレベルから中央政府と地方政府の協議のレベルへと押し上げたのである。また、沖縄の基地問題が日米間における特別のテーマであることを改めて認識させることにもなった。地位協定の見直しと基地の整理・縮小を求める沖縄からの問題提起は、安保再定義=日米軍事同盟の強化・拡大に対する民衆レベルでの最初の反撃といえたが、それが大きな反響をよんだのは、すでに日米安保体制が制度疲労をおこしつつあったからであった。多くの地方議会が、沖縄を越えた拡がりをもって次々と地位協定見直しの決議を行ったこと、世論調査の数字の上で、安保見直しの声が急増したことなどにもそれが示されている。ただ、そこにも、反米嫌米ナショナリズムに通じる要素と、より普遍的な人権・平和を追求する要素が、ない混ぜになっていたことを見落としてはなるまい。
こうした動きを背景に、大田沖縄県知事は、九五年十一月四日の村山首相との会談で、基地返還アクションプログラムの策定と、一〇項目にわたる地位協定の見直しを要請することになる。
明けて一九九六年一月、沖縄県は、沖縄米軍基地問題協議会の場に、基地返還アクションプログラムと国際都市形成構想素案を提出した。基地返還アクションプログラムは、二〇一五年までの二〇年を三期に分けて、米軍基地の全面返還を実現しようというものであり、基地の即時撤去を求める立場からすれば不満の残るものではあったが、九五年十月二十一日の県民大会における基地の整理・縮小が基地撤去へのプロセスとして明確に位置づけられた点が高く評価され、ほぼ島ぐるみのコンセンサスを得た。しかし、一〇・二一県民大会にも不参加だった土地連(軍用地主会連合会)だけは、いち早く基地全面返還反対の意向を表明していた。
また、基地の整理・縮小を撤去へのプロセスとして位置づけた基地返還アクションプログラムにしても、下から積み上げられたプログラムというよりも、急進展する事態に対応するために県が机上でまとめあげたという側面が強く、二〇〇一年、二〇一〇年、二〇一五年という三つの時期の目標年次も、過去の沖縄振興開発計画の延長線上に、三次振計(第三次沖縄振興開発計画)の目標年次や、新しい全国総合開発計画の目標年次に合わせて設定されていた。したがって、自然環境の破壊や公共投資依存型経済構造の強化をもたらした過去の振興開発政策を批判的に克服し、基地のない沖縄の将来像を模索しようという方向性はみられなかった。
基地返還アクションプログラムとセットになって、沖縄の将来構想の意味ももたされて提起されたのが国際都市形成構想である。国際都市形成構想は、二〇〇一年に終わる三次振計後のいわば四次振計として検討されていたものが、基地の整理・縮小・撤去を求める民衆運動のうねりに不安を示す土地連の動向などもにらみながら、基地の跡地利用策と結びついて急浮上したのである。
したがって、返還軍用地跡地に国の財政支援で各種の国際交流施設を建設し、沖縄全体を日本とアジアを結ぶ交流の拠点にしようというこの構想は、著しく具体性を欠いていたが、ムード先行のまま、九六年一月には、この構想を推進する県と市町村の連絡協議会が発足することになった。中身を具体的に検討するより先に、各市町村ともバスに乗り遅れまいとした、といってよい。
こうした状況に鋭い疑問を呈したのは、牧野浩隆であった。彼の国際都市形成構想批判の核心は次の点にあったといっていいだろう。
沖縄を国際交流拠点として繁栄させるという構想は、一次振計から三次振計まで常にくり返されてきたにもかかわらず実現できなかった。その間、安い労働力と広大な市場を求めてアジアに進出した日本と、日本の資本や技術によって開発をすすめようとするアジア諸国の思惑がドッキングし、沖縄を飛び越したネットワークがすでにできあがっている。その結果、沖縄に東南アジアの安い製品が入ってくるなど、沖縄にとってのマイナス面も生じている。国際都市形成構想は、果たしてこうした現実を踏まえているのだろうか。
牧野は、“箱もの(施設)”中心主義の国際交流拠点づくりよりも、人材の育成や産業技術の拡充による新たな産業の創出が必要であり、そのためには、工業試験場やTTC(トロピカルテクノセンター)などの試験研究機関の充実に数百倍のエネルギーを注ぐべきだ、と主張する。こうした牧野の批判は、きわめて説得力をもっており、それは、いわば経済的常識といえた(ただわたしの立場からすれば、牧野が基地関連収入を固定的に過大評価しているかにみえることと並んで、「土地を基地にとられているから産業振興が妨げられているわけではない」という牧野の主張が、現状維持論に強く傾斜しているかに見える点には、大きな疑問と批判がある)。
だが、最大の問題は、沖縄経済界自体が、そうした経済的常識を共有して行動しようとはしなかった点にある。牧野浩隆が、その主張を「『国際都市』の陥穽(かんせい)——昨今の県経済に寄せて」と題して『沖縄タイムス』に連載するより先、九六年四月、沖縄経済団体会議は、国際都市形成構想に関する提言をまとめているが、そこにみられる発想は、牧野の批判する“箱もの”中心であったり、特別措置依存であって、県の構想を後押ししているものでしかなかった。つまり、沖縄経済界は、少し長いスパンで経済的常識に沿って沖縄の将来を構想するよりは、自転車操業を続ける個別企業経営の目先の利益のために、財政資金や特別措置を獲得する道を選んだのである。
このような、国際都市形成構想をめぐる革新県政と経済界の野合は、やがて大田知事が、五〇億円の特別調整費を呼び水とする沖縄振興策と引きかえに、公告・縦覧代行に応じる伏線になっていく。県は、基地返還を前提とした跡地利用による沖縄振興策であるはずの国際都市形成構想や、その一環としての規制緩和やフリーゾーン構想を、徐々に一人歩きさせはじめるようになるのである(そこだけは、牧野たちの、「土地を基地にとられているから産業振興が妨げられているわけではない」という主張を取り込んでしまったようにみえる)。
こうした矛盾を抱え込みながらも、一九九六年の前半は、政府と沖縄の緊張関係が持続されていた。その一つのピークは、三月二十五日の福岡高裁那覇支部における県側敗訴の判決であった。知事はこの判決に従わなかったので、橋本首相が署名代行を行ったが、四月一日から楚辺(そべ)通信所(象のオリ)の知花昌一の土地は不法占拠状態になった。
五か月遅れのクリントン訪日直前、日米両政府は、沖縄側が提起した基地返還アクションプログラムに回答を出した。SACOの中間報告を承認した日米安保協議委員会の決定がそれである。
日米両政府は、基地返還アクションプログラムに何のコメントも加えないまま、アクションプログラムが第一期に挙げた基地のほとんどすべてと第二期に挙げた一部の基地の部分返還、及び移設条件付返還を決定した。それは、老朽施設の更新を含む軍事施設・機能の強化再編成と抱き合わせで、基地面積の縮小をはかるという基地の整理・統合・縮小策であった。安保堅持と調和する基地の整理・統合・縮小は、基地撤去へのプロセスとしての整理・縮小とは似て非なるものであった。その整理・統合・縮小策の目玉が普天間(ふてんま)基地の返還であった。
普天間基地の返還は、SACOの中間報告に先立って、巧みな演出の下に橋本首相とモンデール駐日大使の共同記者会見で発表された。その前日のNHKの番組「クローズアップ現代」が、普天間基地はなぜ返還できないのか、を報道して二四時間も経っていなかった。不可能なものを可能にした橋本首相のリーダーシップは一時的には橋本首相の支持率を上昇させさえしたが、沖縄では、それが沖縄側の要求とは本質的に異なることが広く認識されており、“普天間基地全面返還”をめぐるヤマトと沖縄の評価・認識のギャップはかなり大きなものがあった。
一九九六年前半、基地問題が膠着状態にあったとき、沖縄側がおこすべき次のアクションとして考えられたのが住民投票である。住民投票は、沖縄返還協定の段階でも、一部で話題にのぼったことがあるが、九五年秋以降の状況の大きな変化の中で、積極的自己主張の手段として現実性をおびはじめたのである。
これを県民投票条例制定要求の署名運動として具体的に提起したのは連合沖縄であった。わたし自身もこの署名運動に協力し、運動の幅を拡げるため連合沖縄と「大学人・市民の会」を結びつけようとしたりもしたのだが、県民投票に大きな期待を寄せたのは県であった。県民投票による意思表示は、当然県(知事)の中央政府に対する発言力を強化させることになる。だが同時にそれは、大田知事の支持基盤を拡大・強化することにもなりかねず、県政野党は、県民世論の動向をにらみつつ微妙な立場にたたされることになった。こうしてついに自民党は、県民投票条例制定に反対し、県民投票にも棄権を呼びかけることになった。ここで、九五年秋、とりわけ一〇・二一県民大会以来の島ぐるみ体勢は崩れはじめるのである。
一方県は、吉元副知事を県民投票推進本部長として、県民投票のキャンペーンに乗り出すことになった。それでいて、代理署名訴訟に関する最高裁判決が近づくにつれて、その態度は微妙に変化する。振りあげたこぶしの下ろしどころをさぐりはじめるのである。
中央政府にとっても、県が、基地返還を前提とした将来構想としての国際都市形成構想を、新たな沖縄振興策として基地返還要求と並列化させ、これに要求の比重を移しはじめたことは、歓迎すべき変化であった。政府が、安保堅持・拡大・強化の方針を貫こうとするかぎり、基地返還アクションプログラムのような妥協的微温的提案に対してさえ満足な回答を用意することは当然不可能に近いが、その代償としての財政的支援・制度的支援であれば、いかような対応も可能だからである。昨今の危機的財政事情からして、それが将来のどの時点かで突如破綻することがありうるとしても、当面は、それが、現在の政府の体質に最も馴染んだ、外交、内政上の問題解決の手段だった。こうみてくると、梶山官房長官と大田知事と結ぶパイプ役として、「開発天皇」(『朝日人物事典』)とよばれた下河辺淳(しもこうべあつし)元国土庁次官が登場してくるのも不思議ではない。
最高裁判決(一九九六年八月二十八日)の一〇日前、県民投票(九月八日)の二〇日前の八月十九日、早くも梶山官房長官の私的諮問機関「沖縄米軍基地所在市町村に関する懇談会」が発足した。そこには、『沖縄タイムス』・『琉球新報』両新聞社社長、名桜大学学長、連合沖縄会長、沖縄経営者協会会長なども、それぞれの思惑をもって名を連ねている。この懇談会は、基地を抱え込まされた市町村の閉塞感をどうすれば緩和できるか、を検討する機関であって、返還軍用地の跡地利用や基地労働者の雇用対策を検討する機関ではなかった。
こうして、知事の代行応諾の環境は整備され、一年に及ぶ“知事を先頭にした島ぐるみの闘い”の時代は終わるのである。
主役の座を降りてしまった知事に代わって、抵抗運動の前面に押し出されたのは、本来の主役である反戦地主を軸とする民衆運動であった。土地連、知事、経済界とそれにつらなる層にアメを与える約束をした政府は、抵抗運動の核心部分に特措法改定というムチを振り下ろすチャンスを狙いはじめた。すでに右翼ジャーナリズムは、九六年夏ごろから、知事と反戦地主や一坪反戦地主に対する攻撃を開始していたが、知事が膝を屈すると、反戦地主なかんずく一坪反戦地主にその攻撃を集中し、これを安保に反対する特殊なイデオロギー集団として描き出そうとした。政府、自民党関係者もこれと歩調を合わせ、特措法改定は特殊な集団の政治的妨害を排除するやむをえない措置、として正当化しようとした。
しかし、沖縄の世論は、特措法改定を、沖縄基地の現状固定化・維持・強化のための措置として正確にとらえていた。
特措法改定(一九九七年四月十七日)は、沖縄の世論を安保翼賛体制下の日本の政治が踏みにじる、というかたちで強行された。その反動で、一種の独立論的雰囲気も一挙に拡がったし、目先の変化を追い求める無責任な、あるいは、沖縄への心情的共感をやや性急に、勇み足的に表現したヤマトジャーナリズムが、これを増幅するという状況もあった。
改定特措法の成立とちょうど同じころ(四月十九日)、もう一つの重大な決定がなされた。名護市長が、海上へリポート建設のための事前調査受入れを表明したのである。
九六年十二月のSACOの最終報告を受けて、九七年一月、日米双方は海上へリポート建設予定地をキャンプ・シュワブ沖と基本合意したが、地元は早くからこれに強く反対していた。名護市では、市長を実行委員長とするヘリポート建設反対の市民大会が二回も開かれ、市議会も海上へリポート反対を決議していた。これに対して県(知事)は、ヘリポート建設は一義的には国と地元自治体の問題、として傍観者的態度に終始した。名護市は、国の説明にも県の同席を求めたが、県はこれも拒否した。普天間の代替へリポート建設予定地が、嘉手納弾薬庫地区に擬せられたとき、あるいは、嘉手納飛行場への統合や中城湾がとりざたされたとき、県知事は、地元とともにこれに強く反対していた。知事の姿勢は、明らかに九五年秋以前の状態に逆戻りしていた。それでいて名護市長が事前調査受入れを表明したとき、知事は、市長の立場を理解し、地元の意見を尊重するとした。
名護市長は、ヘリポートに賛成しているわけではない。なお、原則反対といっている。しかし、建設のための事前調査は、地元民の反対を押し切って容認した。そこにもまた、北部振興策の影がちらつく。
大田知事は、特措法の改定に際して「沖縄は日本にとって何なのか」と問うた。だが、そう問う前に、「山原(やんばる)(北部)は沖縄にとって何なのか」という問いに答えなければならないだろう。
この文章を書いているちょうどこのとき名護市では、昨年の県民投票を、質的にも量的にもはるかに超えるかたちで、市民投票条例制定請求の署名運動がすすめられている。だが、県民投票の場合と違って、市長も、市長与党が多数を占める市議会も、市民投票に好意的ではない。もし、海上へリポート問題が、地元名護市やキャンプ・シュワブを抱える辺野古(へのこ)周辺の問題に局地化されてしまうならば、それは沖縄が、日米安保体制が強いている構造的沖縄差別の論理を、自ら受け入れてしまうことを意味する。いま沖縄は、重大な転機にさしかかっている。
ところでこの約二年、沖縄民衆は、日米安保再定義、安保体制の拡大・強化に対する闘いの主役であった。ヤマト民衆の沖縄に対する共感も、かつてない拡がりと深まりをみせているとはいえ、全体としてみればきわめて小さな部分にすぎない。それは安保との闘いの脇役ではあっても、主役にはなりえていない。だからこそ日本政府は、沖縄民衆の抵抗に手を焼きながらも、新防衛計画大綱の策定、日米物品役務相互提供協定(ACSA)の調印、日米安保共同宣言、沖縄基地の再編統合、特措法改定、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)見直しの中間報告、と既定の路線を押しすすめることができているのである。そして新ガイドラインの彼方には、有事(戦時)法制がはっきり姿をみせている。偽りの豊かさの上に安住する日本国民が、日米軍事同盟のあり方を根底的に問い直す闘いの主役として登場してくるのはいつの日だろうか。
一九九七年七月
版元から一言
新ガイドラインの策定など、戦後培ってきた平和思想をかなぐり捨てた日本の危機的政治・社会状況を、沖縄から鋭く衝く。
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著者プロフィール
新崎 盛暉(アラサキ・モリテル)
1936年東京生まれ。1961年東京大学文学部卒。東京都庁勤務のあいだに、中野好夫主宰の「沖縄資料センター」の主任研究員として沖縄戦後史の研究にたずさわる。中野好夫との共著『沖縄問題二十年』で沖縄戦後史研究の端緒を開き、『戦後沖縄史』においてその基礎を確立した。沖縄の日本復帰に際して、沖縄大学存続闘争に関わり、74年に同大に赴任、83年4月から89年3月まで学長として同大再建に尽力する。2001年4月、再度学長となる。
沖縄移住当初からCTS(石油備蓄基地)建設に反対する住民運動に関わり、その支援のため「CTS阻止闘争を拡げる会」(のち「琉球弧の住民運動を拡げる会」)を組織し、代表世話人となる。82年には「一坪反戦地主会」を組織、93年からは沖縄発の問題提起と情報交換の場として、季刊誌『けーし風』の刊行にかかわっている。99年8月から「沖縄平和市民連絡会」代表世話人。現在、沖縄大学学長。
◆著作一覧——『沖縄問題二十年』(共著・岩波新書、1965)、『沖縄返還と70年安保』(現代評論社、1968)、『ドキュメント沖縄闘争』(編・亜紀書房、1969)、『沖縄・70年前後』(共著・岩波新書、1970)、『沖縄の歩いた道』(ポプラ社、1973)、『戦後沖縄史』(日本評論社、1976)、『沖縄戦後史』(共著・岩波新書、1976)、『沖縄・世替わりの渦の中で』(毎日新聞社、1978)、『沖縄現代史への証言』(編・沖縄タイムス社、1982)、『沖縄自立への挑戦』(共著・社会思想社、1982)、『観光コースでない沖縄』(共著・高文研、1983)、『沖縄考 琉球弧の視点から』(凱風社、1984)、『沖縄・反戦地主』(高文研、1986)、『日本になった沖縄』(有斐閣新書、1987)、『沖縄・天皇制への逆光』(共編・社会評論社、1988)、『新版 観光コースでない沖縄』(共編・高文研、1989)、『戦後沖縄の社会変動と家族問題』(共編・アテネ書房、1989)、〈沖縄同時代史・第一巻〉『世替わりの渦のなかで 1973〜1977』、〈同・第二巻〉『琉球弧の視点から 1978〜1982』、〈同・第三巻〉『小国主義の立場で 1983〜1987』、〈同・第四巻〉『柔らかい社会を求めて 1988〜1990』(以上、凱風社、1992)、『沖縄修学旅行』(共著・高文研、1992)、〈沖縄同時代史・第五巻〉『「脱北入南」の思想を 1991〜1992』(凱風社、1993)、『新版 沖縄・反戦地主』(高文研、1995)、〈沖縄同時代史・第六巻〉『基地のない世界を 1993〜1995』(凱風社、1996)、『沖縄現代史』(岩波新書、1996)、『沖縄を知る 日本を知る』(解放出版社、1997)、『第三版 観光コースでない沖縄』(共編・高文研、1997)、〈沖縄同時代史・第七巻〉『平和と自立をめざして 1996〜1997.6』(凱風社、1997)、『琉球・沖縄写真絵画集成(全5巻)』(監修・日本図書センター、1998)、『沖縄のこれから』(ポプラ社、1999)、〈沖縄同時代史・第八巻〉『政治を民衆の手に 1997.7〜1998』(凱風社、1999)、『本当に戦争がしたいの!?——新ガイドラインの向こうに見えるもの』(共著・凱風社、1999)、『〈和英両文〉沖縄の素顔』(編・テクノ、2000)、『現代日本と沖縄』(山川出版社、2001)、〈沖縄同時代史・第九巻〉『公正・平等な共生社会を 1999〜2000』(凱風社、2001)
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