発行:凱風社
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四六判 240ページ 上製
定価:2,200円+税 総額を計算する
ISBN978-4-7736-2602-5(4-7736-2602-X) C0331
奥付の初版発行年月:2001年10月
書店発売日:2001年10月20日
紹介
行動する沖縄戦後史研究者の発言集「沖縄同時代史シリーズ」の第9巻。日本はアメリカの世界戦略(NATOによるユーゴ空爆、WTO閣僚会議の決裂など)の補完的役割をますます強め、「戦争ができる普通の国家」を完成させた。サミットが行われたにもかかわらず、沖縄は依然として基地の県内移設や軍港建設問題、米兵の暴行事件に揺れ、物乞い政治に邁進する。そんな中で、真の平和創造・基地撤去をどう進めるべきか。著者は様々な角度から提言する。
目次
●目次 公正・平等な共生社会を 迫られる沖縄の選択
序
はじめに 「沖縄の現実」と「日本の将来」
◆沖縄民衆平和宣言
I 変わりゆく日本
1 新しい状況と基地返還運動
【補記1】不審船騒ぎと不確かな世論
【補記2】ユーゴ空爆とは何か
2 新ガイドラインから見えるもの
3 ガイドライン関連法案と沖縄
4 地方公聴会って何だ?
5 横田基地問題と沖縄
6 いま、なぜ、国旗・国歌か?
7 地方分権一括法と米軍用地特措法
8 憲法記念日に想う
9 一九九九年を総括する
II 保守県政下の沖縄
1 稲嶺県政の登場とその背景
2 新しい反基地闘争の胎動
3 沖縄闘争の現場から
4 一坪反戦地主排除決議の意味するもの
【補記】森発言の何が問題か
5 住民意思が状況動かす——シアトル・吉野川・ビエケスそして沖縄
6 沖縄はどこへ
【補記1】沖縄の役割
【補記2】〈座談会〉宮里政玄/星野英一/我部政明/新崎盛暉
「軍事力=安全保障の要」は学会の「定説」か——牧野副知事の主張を検証する
【補記3】韓国の米軍基地問題
7 使用期限一五年・軍民共用空港とは何か
8 閉塞状況は打破できるか
III 沖縄サミットとは何だったのか
1 沖縄サミットをどうとらえるか
2 沖縄サミットと基地の「県内移設」
3 宴の後に
4 嘉手納基地包囲は成功したが……
【補記1】「基地はいらない人間の鎖県民大行動」実行委員会への要請書
「普天間基地・那覇軍港の県内移設に反対する県民会議」への要請書
【補記2】七・二〇カデナ基地包囲行動についてのアンケート
IV 歴史と現在
1 新平和祈念資料館をめぐる問題とは何か
2 いま、何が変わろうとしているのか
3 桂・タフト協定と新ガイドライン
4 沖縄戦の記憶 『沖縄 近い昔の旅——非武の島の記憶』を読んで
5 戦後沖縄の選択
6 「島ぐるみ闘争」を振り返る
【補記1】名護へ基地移設、やり方が同じ 国場幸太郎
反米植民地化へ最初のうねり 喜舎場朝順
【補記2】歴史を切り拓く主体として登場
7 「沖縄イニシアティブ」を読む
8 二〇世紀とは、どんな時代だったか
前書きなど
はじめに 「沖縄の現実」と「日本の将来」
この巻に収録した文章は、一九九九年から二〇〇〇年という二〇世紀末の二年間に書かれた文章である。世界政治の上での動向でいえば、NATOのユーゴ爆撃に始まり、アメリカ大統領選挙をめぐる大混乱に終わった二年間だったともいえる。ユーゴ爆撃は、東アジアにおける日米安保再定義の欧州版ともいうべきNATO新戦略概念の実践として、日本にとっても、沖縄にとっても、見過ごすことのできない意味を持っている。この間ロシアでは、プーチンがエリツィンの跡を継いで大統領となり、台湾では、国民党の李登輝前総統の路線を継承するかたちで民進党の陳水扁が台湾総統になった。
アジアでは、東チモールがインドネシアに扇動された民兵の暴走による惨劇を経てではあるが、とりあえずは住民投票によって示された民意に沿って独立への道を歩み始めた。しかし中東では、アメリカが押しつけようとした和平会談が決裂し、イスラエルの暴力的占領政策と国家テロに対抗するパレスチナ民衆の自爆テロを含む抵抗闘争は将来展望を見いだしえてはいない。シアトルのWTO閣僚会議の決裂は、大国中心の価値観や制度の押しつけであるグローバリズムへの抵抗の根強さは示したが、なおこれに変わるべき選択肢は提示されていない。
こうしたなかで日米同盟を基軸とする日本は、アメリカの世界戦略の補完的役割を果たすための体制整備に向かって突き進んでいるように見える。一言でいえば、「戦争はしないと誓った、したがって戦争ができない国」を「戦争ができる普通の国家」に変質させることである。周辺事態法、盗聴法、地方分権推進一括法(米軍用地特措法改定)、国旗国歌法等、一連の法整備はすべてそこにつながる。その直接の出発点は、九六年四月十七日の日米安保共同宣言に基づく、九七年九月二十三日の日米新ガイドライン策定にある。
沖縄では、日米同盟の強化は米軍基地の再編統合として表現されている。その出発点は、日米安保共同宣言と一体となった、というよりもむしろその前提になったSACO(沖縄基地に関する特別行動委員会)報告である。周知のようにSACOは、九五年十一月に予定されていた日米安保共同宣言を不可能にし、日米同盟それ自体を揺るがしかねない沖縄の民衆運動に対処するために設置された。米兵による少女暴行事件を直接のきっかけとして爆発した沖縄の民衆運動は、日米地位協定の見直しと、基地撤去へのプロセスとしての基地の整理・縮小を求めていた。
これに対して日米両政府は、日米地位協定に関しては見せかけの「運用改善」を行うとともに、基地に関しては、民衆の要求を逆手にとって、老朽化した広大な基地の整理・統合・縮小・移設による基地機能の維持・強化を図ろうとした。SACO報告の中心テーマとして「普天間飛行場全面返還」が強調されたのは、こうした意図に基づくものだが、その際、軍事戦略上の利便性からいっても、基地問題を全国化しないという政治的必要性からいっても、あくまで「沖縄の基地問題」は、沖縄内部で、すなわち「県内移設」によって解決されなければならなかった。
基地の整理・統合・縮小・移設によって、軍用地面積は二〇%程度削減するが、基地機能はあくまで維持・強化するという「県内移設」策を沖縄側に受け入れさせるために強調されたのが経済的利益の供与、いわゆる振興策である。
もともと日本政府は、沖縄返還を利用して、沖縄に集約化するかたちで全国的な米軍基地の再編統合政策を実施して以来、一貫して、沖縄の反基地感情を経済的利益の供与によって和らげようとする政策をとってきた。それは、軍用地料の大幅引き上げ、「思いやり予算」による基地労働者の待遇改善、基地周辺整備事業等による基地所在市町村への資金提供から、沖縄振興開発計画にまで及んでいる。その結果、沖縄経済全体を見ても、県や市町村の財政構造を見ても、中央財政依存、公共事業依存の傾向を強めている。いいかえれば、直接的にせよ間接的にせよ基地に依存する社会構造が造り出されてきている。しかし、それでもなお政府は、基地押しつけの代償が経済的利益の供与であることを強調することはなかった。例えば沖縄振興開発計画は、あくまで、永年米軍支配下に置かれ、社会資本の整備が遅れた沖縄と本土の格差を是正し、沖縄の自立的発展の基盤を作るためのものであって、基地維持政策とは、何の関係もないはずであった。
だが、九五年秋の民衆運動の爆発が、たとえ基地に依存せざるをえない社会構造が造り出されてもなお、民衆の意識を根本的に変えることは困難であるということを立証して以降、政府の政策は明らかに変化した。経済的利益供与の量的拡大や方法的緻密化だけではなく、陰に陽に、基地受け入れと振興策が表裏一体の関係にあることを強調し始めるのである。それは、自覚的にせよ無自覚的にせよ、「基地と振興策は無関係」という政府の建て前を利用し、政府の経済的制度的支援によって基地依存社会からの脱却を目指した大田革新県政の矛盾、すなわち、政府の方針とは逆の政策を政府の支援・協力によって実現しようという矛盾によってあぶり出されたともいえる。
大田革新県政は、基地受け入れと振興策が事実上表裏一体の関係にあることが示され始めると、基地と振興策の間で揺れ動くが、最終的には民衆の意思を尊重せざるをえず、政府と決定的対立関係に陥る。その分岐点が九七年十二月の名護市民投票であった。
大田県政ぐるみで沖縄を取り込むことに失敗した政府は、振興策の凍結という手段によって大田県政を締めあげ、知事の首すげ替えに動きだした。沖縄経済界は、大田知事の反基地的姿勢が財政支援の拡大につながっている間は大田に同調していたが、振興策凍結という恫喝が加えられると、たちまち大田と袂を別った。こうして大田県政は、稲嶺県政に代わった。
一九九九年から二〇〇〇年にいたる二年間は、沖縄についていえば保守県政の前半期ということになる。
大田県政が優柔不断さ(そのことが民衆運動の勢いを削ぎ、政府に付け入る隙を与えたのだが)によって特徴づけられるとすれば、稲嶺県政の特徴はその欺瞞性にある。
稲嶺県政も積極的に基地を受け入れるわけにはいかない。民衆の支持が得られないからである。しかし、基地受け入れなくしては特別な振興策と称する利益供与は得られない。そこで政府の提案と民衆の主張の中間点を探るかのような装いを凝らして、一定の使用期限付き(たとえば一五年)で県民の財産として残る軍民共用空港を、といった事実上不可能な提案をすることになる。
政策実現の手段にも大きな問題がある。たとえば、普天間代替施設の移転先については、専門家の委員会を作って慎重に検討するというのが、公約であった。しかし、離島僻地の地域ボスを煽って何か所かで誘致運動を起こさせただけで、専門委員会も設置しないばかりか、現地調査一つ行わず、政府のシナリオ通りに、名護市辺野古沿岸域が最適地であると決定したのである。まったくの公約違反であるが、そのことに何の痛痒も感じているようには見えない。
政府のやり方はどうか。
大田県政時代は、日米(SACO)合意に基づいて日本政府が基本案を提示し、地元に説明し、県や市は振興策との絡みで大きく動揺するが、最終的には市民投票で拒否されるかたちになった。
このことを教訓化した政府は、稲嶺県政になると、ことさら「地元の意向尊重」を強調し、知事や県議会に受け入れの意思表示をさせ、名護市へ要請させ、市議会や市長の受け入れ表明を待って、政府が閣議決定をするというかたちをとった。しかし、裏で政府がいくつものシナリオを作り、根回しをしていたという事実が、新聞等でくわしく報道されている。そのシナリオの中には、名護市長の普天間代替施設受け入れに関しての声明の雛形まである。内閣府の審議官が、名護市議会の議員に電話をかけ、市議会決議に介入した事実も報道されている。県や関係市町村は、がんじがらめのかたちで政府に取り込まれているのである。
普天間代替施設の移設先を決定した一九九九年十二月二十八日の閣議で政府は、四つの協議会の設置を決定した。官房長官・防衛庁長官・外務大臣・運輸大臣・沖縄県知事・名護市長・東村長・宜野座村長で構成される代替施設協議会、官房長官・沖縄開発庁長官・沖縄県知事・名護市長・東村長・宜野座村長で構成される移設先及び周辺地域振興協議会、官房長官・沖縄開発庁長官・沖縄県知事・北部一二市町村長で構成される北部振興協議会、官房長官・沖縄県知事・宜野湾市長で構成される跡地対策準備協議会がそれである。代替施設の規模・工法から、振興策や跡地利用対策にいたるまで、すべて地元の意向を尊重したというかたちを作ろうとしているのである。ただしこの“地元”には、地域住民は含まれていない。
大田県政当時は、政府(防衛施設局等)が直接住民に働きかけたり、説明会を持ったりしたが、現在はそうしたことはできるだけ避けるようになった。地元自治体首長や議会が地域住民を代表しているはずだからである。
こうして住民投票等の手段によって民衆が手にした自己決定権は、徐々に奪い返されようとしている。
次に経済構想の面から稲嶺県政を見てみよう。もともと沖縄振興策は、沖縄に基地を封じ込めておきたい政府と、政府の協力を得た経済開発によって基地無き沖縄を夢見た大田県政と、目先の利益を追求する沖縄経済界の同床異夢の中から紡ぎ出されたものである。それは、大田知事の“造反”によって一時凍結されていたが、県政交代によって一挙に復活した。大田県政当時、それは「国際都市形成構想」と総称されていた。
国際都市形成構想を鋭く批判したのは、牧野浩隆である。牧野は、“箱もの(施設)”中心主義の国際交流拠点づくりよりも、人材の育成や産業技術の拡充による新たな産業の創出が必要であると主張した〔本シリーズ第七巻「はじめに」および牧野インタビュー参照〕。フリーゾーン(自由貿易地域)構想についても、それが絵空事に過ぎないことを指摘していた。その限りで牧野の主張は説得力を持っていた。
その牧野が稲嶺県政の副知事になった。しかし、稲嶺県政の経済政策は、「国際都市形成構想」という言葉が消えただけで、大田県政と何ら変わるところはなかった。それが、政府と沖縄経済界の意向だったからである。残ったのは、「基地を人質にとって経済的要求をするのはおかしい」という大田批判だけである。牧野は、「基地を人質にとる」のではなく、「基地受け入れの正当な代償」として経済的利益供与を要求した。だがそれだけでは「物乞い政治」との批判を免れえない。その批判を免れるためには、「基地受け入れ」それ自体を正当化しなければならない。牧野は、軍事力による平和の維持は国際政治学会の常識であり、この常識に基づく日米安保体制への協力は沖縄の義務でありその代償を得るのは正当な権利である、という主張を展開し始めた。
最初にこうした役割を担って登場したのは、一九九八年の県知事選挙をにらんで出版された真栄城守定、牧野浩隆、高良倉吉による『沖縄の自己検証〜鼎談・「情念」から論理へ〜』(ひるぎ社)である。反戦平和の主張や運動は、情念に基づく抽象的観念論に過ぎないとするこの鼎談の基調となる論理は、「沖縄の日本復帰は沖縄自身の選択であつた」「日本の国策は安保堅持である」「安保への協力は日本国家、ひいては国際社会への貢献である」というものであった。
「反日的展示はいかがなものか」という稲嶺知事や牧野副知事の指摘に沿った新平和祈念資料館展示内容改竄〔●●●頁参照〕もこうした論理に基づくものであり、二〇〇〇年三月に発表された沖縄イニシアティブ〔●●●頁参照〕もその焼き直しに過ぎなかった。しかし、沖縄イニシアティブは、小渕首相も出席するような国際会議で発表されたこともあって、本土ジャーナリズムに大きく取り上げられることになった。日本における歴史見直しの風潮と波長が合っていたこともあるだろう。
もう一つここで付け加えておくことがあるとすれば、日本復帰運動を自らの主張の論拠として利用しようとする高良倉吉たちも、これを批判する一部の独立論者たちも、復帰運動を帰属問題としての側面からのみとらえて、その平和運動としての側面を無視しがちな点である。私自身の復帰運動に関する総括は、一九七四年に三〇六回にわたって『沖縄タイムス』に掲載した『試論・沖縄戦後史』、その約三分の二を収録した『戦後沖縄史』(日本評論社)、それらをベースにした歴史叙述としての『沖縄戦後史』(中野好夫と共著、岩波新書、一九七六年)で終えているつもりなので繰り返さないが、復帰運動が掲げた「平和憲法下への復帰」というスローガンの持つ意味は決して無視できない重みを持っている。
さて、もう一度日本政府に話を戻そう。
基地と振興策を結びつけて基地を沖縄に封じ込めようとする政府の政策は、「物乞い政治」は生み出しえても、民衆の意識を変えることはできない。そこで政府は、高良倉吉らも利用しながら、基地受容の社会的雰囲気を作り出そうと努力することになる。その目玉が、いわゆる沖縄サミットであった。
日本初の地方サミットの開催地を沖縄(名護市)にすることについて、当初から日米に緊密な協調体制があったかどうかは疑問だが、やがてこれをテコにして「県内移設」政策を前進させ、さらには「沖縄サミットを日米同盟の戦略的重要性を示す場」にしようとして動き始める。しかしそのことが逆に民衆の危機感を煽ることになった。新平和祈念資料館展示改竄問題などを通して、稲嶺県政が大田革新県政前の西銘保守県政とも違って、沖縄の歴史的体験へのこだわりが薄く、時代的風潮に流されやすい性格を持っていることが露呈されたことも、こうした傾向に拍車をかけた。
一九九九年八月十四日、「『サミット』の歴史やそれが果たしてきた役割、沖縄で『サミット』が開催される意図などを明らかにし、『沖縄サミット』を利用した基地の県内移設(再編強化)に反対し、沖縄民衆の平和への意思を世界に発信するための多様な行動を展開することを目的に」して、平和市民連絡会(沖縄から基地をなくし世界の平和を求める市民連絡会)が結成された。
同年九月二十七日には、旧社会党・総評系といわれる平和運動センター、共産党系といわれる統一連、それに超党派的市民団体である平和市民連絡会も参加して県内移設反対県民会議(普天間基地・那覇軍港の県内移設反対県民会議)が結成され、十月二十三日には、万余の民衆を結集して県内移設反対の県民大会が開かれた。また、名護市長が普天間代替施設受け入れ表明をすると、ヘリ基地反対協はただちに市長リコール宣言を行った。
二〇〇〇年四月、平和市民連絡会は「沖縄から平和を呼びかける四・一七集会」を行い、「沖縄民衆平和宣言」を発した。四月十七日は、四年前、日米安保共同宣言が出された日である。
沖縄民衆の求める「異なった文化・価値観・制度・を相互に認めあうことによる平和」は、日米安保共同宣言が「平和」と呼ぶ軍事力による秩序維持の対極にあるものであったが、それが決して抽象的な観念論ではなく、大きな実現可能性を持っていることは、この年六月の朝鮮半島における南北首脳会談によって見事に立証されることになった。世界を驚かせた南北首脳会談も、決して突発的な出来事ではなく、大きな歴史の流れの中で準備されてきたことは、このシリーズに収録した韓国の民衆運動に関するわたし自身の文章を読み返してみただけでもあらためて痛感する。
南北首脳会談の実現という背景もあって、四月十七日から沖縄サミットにいたる間、沖縄では、国際平和交流集会やシンポジウムなど、多彩な対抗サミット運動が、反サミット運動を展開してきたNGOの動きとも結びついて、幅広く展開されることになった。そのピークをなしたのが、二万七千人余の民衆を結集した「人間の鎖」による嘉手納基地包囲行動の成功である。
こうして「沖縄サミットを日米同盟の戦略的重要性を誇示する場」にしようとした日米両政府の試みは失敗した。だが、嘉手納基地包囲行動の成功は、その後の反基地闘争展開へのバネにはならなかった。それどころか、嘉手納基地包囲行動にいたる過程にもさまざまな問題が伏在していたことが表面化してきた。すでに名護市長リコール運動も挫折していた。くわしいことは「第二章・3」の補記〔一一〇頁〕や「第三章・4」〔一七六頁〕にゆずるが、既成運動体の組織的硬直化や運動の惰性化、「選挙」と「大衆運動の遊離・相克」、党派的思惑のすれ違い、といった宿痾が、一挙に露呈してきたのである。
沖縄サミットが終わると、政府は何事もなかったかのように代替施設協議会の初会合を開き、その後二か月に一度のペースで、普天間代替施設の規模・工法等に関する実務的協議を開始した。反基地運動の側は、その流れを阻止する術を作り出しえてはいない。
一方民衆の反基地・反軍感情はますます敏感になってきている。それは世論調査の数字の上にも現れているが、とりわけ三十台、四十台の女性の反基地意識が強化されてきているのが最近の特徴である。それは米軍犯罪に対する反応となって現れている。米軍による事件・事故の発生件数は、統計的数字の上では明らかに減少しているのだが、民衆の人権感覚も鋭敏になっている。かつては、新聞のベタ記事ぐらいにしかならなかった事件でも、現在では、議会の海兵隊撤退要求決議に発展しかねない。去る六月の米兵による強姦事件が、再び日米地位協定の抜本的見直し要求を噴き上げさせたのは当然である。軍隊にとって住み心地の悪い社会が造り出されつつあるのである。それが九五年以来の民衆運動の成果だともいえよう。
たとえ組織的反基地運動が衰退したとしても、県内移設、すなわち米軍基地の再編強化が困難な理由はそこにある。
さて、新世紀になってアメリカにはブッシュ政権が、日本には小泉政権が登場した。ブッシュ政権の安保・沖縄政策は、後にアーミテージ・レポートと呼ばれることになる文書で、その方向性が示されている。それは、沖縄の軍事的な過重負担の軽減を口実に、日本の集団的自衛権の解禁などを実現し、日米同盟を飛躍的に強化しようとする政策である。日米会談における小泉首相の発言や、いわゆる歴史教科書問題・靖国参拝問題等を通してみる限り、小泉政権も同じ方向を目指しているのは明らかである。それは、沖縄民衆平和宣言や朝鮮半島で実現した南北首脳会談が目指す方向とは、まるで逆である。
日本は、近代の歩みを、もう一度現代においても繰り返そうとしている。だが、現代と近代には、明らかな相違点がある。発言力を強めつつある民衆が、お互いに顔の見える関係で、交流を積み重ねつつあることである。そこに、わずかではあるが、「地球上の人びとが、自然環境を大切にし、限られた資源や富をできるだけ平等に分かち合い、決して暴力(軍事力)を用いることなく、異なった文化・価値観・制度を尊重しあって、共生する」(沖縄民衆平和宣言)途が残されている。
二〇〇一年八月
版元から一言
新ガイドラインの策定、憲法改正論の登場など、戦後培ってきた平和思想をかなぐり捨てる日本。「今日を楽しく過ごせれば」ではもう済まない!
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