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ツーリズムとポストモダン社会
後期近代における観光の両義性
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2012年3月
- 書店発売日
- 2012年4月5日
- 登録日
- 2012年4月2日
- 最終更新日
- 2012年4月2日
紹介
後期近代は「自然」が消失した社会で、そこでは「観光」は市場が全面化するにおける「人工的」なサービス商品としての構造と性格を有する。本書は「観光」がいかに消費主義に席巻されていくのかを考察することにより現代社会を理解しようとする試みである。
目次
序論
1 東欧のアイデンティティと観光
2 後期近代社会とアイデンティティへの希求
3 観光の近代化とその意味
4 観光の両義性の諸相
第1章 『ザ・ビーチ』の憂鬱〈ロマン主義的まなざし〉の陥穽
1 観光の幻影
2 欧米人の「オリエンタリズム」とビーチ消費
3 『ザ・ビーチ』の読み方
4 「観光のまざさし」の向こう側を求めて
5 「禁断の島」と消費時代のコミューン
6 消費時代の「楽園」の代償
7 生活の論理と観光の論理
8 まとめ
第2章 地域の虚構化と観光化
1 観光の近代化と〈虚構〉の脱埋め込み
2 郊外化と「生活の文脈」の稀薄化
3 「風土の虚構化」の背景
4 東京と街の〈再魔術化〉
5 地方の虚構化
6 洗練される〈虚構〉
7 観光の〈虚構〉とまちの分裂
8 統一的で閉じられた〈虚構〉から、〈他者性〉へと開かれた〈虚構〉へ
第3章 観光文化と他者性
1 観光のリアリティと観光社会学
2 観光社会学のテーマ
3 観光の産業化と「他者性」の交換の喪失
4 観光対象の客体化とリアリティの分裂
5 観光のリアリティとポストモダニズム文化
6 ポストモダニズム文化とシミュレーション
7 観光文化の意味作用
8 他者性へと開かれた観光へ
補論 人間はアンドロイドの夢を見るのか?――映画『ブレードランナー』におけるポストモダニズムの身体と表象
はじめに
1 現代社会と身体性
2 モダニティにおける表象秩序の不安
3 ポストモダニズムにおけるパスティシュの技法
4 パスティシュとしての自己と自己の身体
5 ポストモダニズム映画としての『ブレードランナー』
6 「ブレードランナー」とポストモダニティの不安
おわりに
第4章 後期近代の観光社会学へ向けて
はじめに
1 情報消費社会における「疎外論」の限界
2 マッキャーネルによるブーアスティン批判の論点
3 〈表/裏局域〉の変動と崩壊
4 観光と市場の「外部」と「ポランニー的不安」
おわりに観光研究の知識社会学へ向けて
おわりに──リスク社会と観光
前書きなど
おわりに──リスク社会と観光
後期近代社会は、宿命としての「自然」が消失した社会である。観光のあり方も宿命から選択へ、「自然」的、固定的な〈アウラ〉志向から、人工的な「アウラ」志向へと変容する。観光対象は常に人工的に創作するものとなり、そのことが観光の「不安」の原因ともなる。
こういったことの背景には、A・ギデンズ(Giddens)が現代社会の特徴として示した「再帰性 reflexivity」が存在している。ギデンズは近代の特徴を時間と空間のローカルな文脈から引き離す「脱埋め込み」にあると言う[ギデンズ1993:13-74]。すなわち、近代において人々は、「伝統」を「伝統」であるからという理由だけで是認することができなくなり、自らの行為の意味を「伝統」を参照しつつ理解することができなくなる。近代人の営みは──制度からアイデンティティに至るまで──常に新しい情報によって吟味し、作り変えなければならなくなり、我々は作り変えたものに対する省察(すなわち自己言及性)が見境なく働くような日常を生きることを強いられる。ポストモダン(先進国の現代)とは──彼によれば、ポストモダンはモダンの延長線上にあると見るので「後期近代」と言う方が的を射ているのだが──そのようなモダニティが徹底化した局面のことである。
伝統を信頼(trust)の指標にすることができなくなった現代人の信頼の向かう先は、専門家システムと貨幣である。信頼とは「信仰」の一種であるのだが、そこにはもう「運命の女神」はいない。空席になった女神の座にあるのは人間の下す決断に対するリスクだけである。人間の営為が「宿命」から「決断」へと変わったとき、〈リスク〉が生まれる。すなわち〈リスク〉は近代になって生まれ、再帰性が徹底化される現代にこそ、その巨大な姿を人間の前に立ちはだからせる。現代人は「宿命」として専門家システムや貨幣を使用しているわけではない(「信仰」はしていても、特殊システムに限定した信仰でしかない)。現代人は、専門家システムや貨幣への信仰を「選択」している。すなわち、この選択的「信仰」そのものがリスクを生み出すのである。現代人の「信仰」とリスクとはコインの両面である。そしてまた、顔を覗かせたリスクに対して、それをどこまで容認するかに関する合意は、専門家システムや貨幣への「信仰」とも関わり、〈大きな物語〉としての共同性は持つことができず、個人が「自己責任」で判断する他にない。
(…中略…)
観光はこのような不安の影響を最も多く受ける領域である。観光にとって、治安や環境や通貨に対する信頼は最も重要なインフラである(放射能が拡散しているような状況では「安全」そのものが観光資源とも言える)。自然災害の危険だけならば、その影響は一時的なものとなるであろう(純粋な自然災害などないのであるが、少なくともそのように信じられているうちは普通、その被害が観光客の「選択」の結果だと思われることはない)。しかし、人が「選択的」に作り出したリスクは、リスクを生み出すシステムそのものへの信頼が失われ、コントロール不能性が前景化された時には、耐えがたいものとなる。そもそも観光とは敢えてするものであり、意識されるかどうかは別にして、少なからずリスクが伴う。特に国際観光の場合その特徴は顕著になる。福島第一原子力発電所の事故を例に取れば、リスク容認に対する観光客の合意が生まれるまで(安全情報に対する信頼を獲得するまで)、東北地方への観光客(特に国際観光客)は容易には帰って来ないかも知れない。
以上のように、リスク社会における観光の悲観的な現状を取り上げたが、人々のリスクの経験が、皮肉にも思わぬ連帯を作り出すこともある。東日本震災にはなんと九〇万人以上(二〇一二年一月現在)ものボランティアが駆け付けた。このなかには旅行代理店が組織したボランティア・ツーリストたちも含まれている。素人の集まりであるボランティアたちは、素人たちが何をするべきなのか、その経験を積み上げ、ボランティア社会へのノウハウを作り出しつつあると言われる。レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』において、数々の例をあげながら指摘しているように、大災害は人々の分裂と醜い戦いを生むのではなく、むしろ共同性と贈与の心を生むのだということが、東北でも実証された。まだ評価は固まってはいないが、被災者同士あるいは被災者と援助者たちのネットワークが、専門家システムへの過度な信頼から覚醒させ、自らの力で連帯する力を醸成し、このことがリスク逓減社会へ向けて日本全体の向かう方向を変えるきっかけになるかも知れない。
リスク社会は両義的なものである。リスク社会を自覚しつつ観光もまた、人々が根拠なく信じていた近代のシステムに対する信仰から脱する地点まで到達しようとしている。不確実性が蔓延する地点では、全てが両義的なものとなる。
今回、本書のなかで震災、原発事故と観光との関係について扱った章を予定していたが、進行中の出来事を客観的に見ることは難しく、諦めざるを得なかった。この先はことが落ち着いてから別の論文としてまとめようと思う。
(…後略…)
上記内容は本書刊行時のものです。