民族4000年の歴史と文化アルメニア人ジェノサイド
中島 偉晴
発行:明石書店
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四六判 264ページ 上製
定価:3,000円+税 総額を計算する
ISBN978-4-7503-2537-8 C0036

奥付の初版発行年月:2007年04月
書店発売日:2007年04月18日
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紹介

20世紀初頭のアルメニア人虐殺はなぜ起こったのか? テュルク政府はなぜ加害事実を認めないのか? 文化と民族の十字路・アルメニア高原の歴史を繙き,ペルシャ,テュルク,モンゴル,ロシアら大国の脅威に抗して生き抜いてきたアルメニア民族の姿を伝える。

目次

はじめに
第一章 アルメニア人ジェノサイドの実態
 1 忘れえぬ恐怖の記憶
 2 ジェノサイドの背景と実態
 3 生き証人・目撃者の証言
 4 ジェノサイドを引き起こしたもの
第二章 アルメニア高地の歴史
 1 古代アルメニアの王国と文化
 2 キリスト教の受容と文化の発展
 3 中世王朝の盛衰
 4 モンゴル帝国とキリキアのアルメニア
 5 テュルク、ペルシャ、ロシアによる支配
 6 内憂外患のオスマン帝国下で
 7 アルメニア人の民族的覚醒
第三章 第一次世界大戦とアルメニアの命運
 1 列強によるオスマン帝国分割策動
 2 ローザンヌ条約
 3 アルメニア国の命運
第四章 ジェノサイドをめぐって
 1 法廷で判明したこと
 2 テュルク史のタブー
 3 「ジェノサイド発令」から九〇年、いま問われるもの
終 章 世界のアルメニア人コミュニティ
あとがき
アルメニア史対照年表
索引

前書きなど

はじめに
 「アルメニア人ジェノサイド」は、一九一五年から一九二三年にかけてオスマン・テュルク帝国のイティハド・ヴェ・テラキ(通称「青年テュルク」党)政府によって遂行されたもので、国内に居住したアルメニア人二五〇万人のうち一五〇万人が殺戮・追放死させられるという人道に反する犯罪である。
 ところで、二〇〇五年は節目の年となった。「アルメニア人ジェノサイド」の開始から九〇年の四月二四日、アルメニアの首都イェレヴァンなど世界各地で犠牲者追悼の催しが開かれた。イェレヴァンではジェノサイド・人権に関わる国際会議も開催された。
 これに対し、テュルク政府はあたかも「大津波」に襲われたかのような反応をみせている。それは、二〇〇五年秋から始まった欧州連合(EU)加盟交渉を控えていたからでもある。加盟へのハードルとして課せられた人権抑圧問題、キュプロス占領問題とともに、アルメニア人ジェノサイド承認問題が大きく浮かび上がったのである。「アルメニア人ジェノサイド」問題は、これを否定する頑迷な政府の頭上に重石のように覆いかぶさっている。しかも後にみるように、政府が否定するための言動をとればとるほど、アルメニア人、ギリシャ人、アッシリア人等帝国内被抑圧民族を虐殺した上に建国が成ったという、血染めの過去を有する「国家」がいよいよ表ざたになって来よう。
 こうした「大津波」に抗するかのようにテュルクのエルドゥアン首相は四月一〇日、コチャリアン・アルメニア大統領宛に、両国の合同委員会を設け、互いのアルカイブを出し合って歴史の真実を検討しないかとの書簡を送った。これに対し、コチャリアンは四月二六日、国家の責任というものは歴史家のそれとは異なる。歴史家の結論はすでに明白である、と拒絶する手紙を送り、この申し出を断った。テュルク側の歴史隠蔽の罠を感じ取ってのことである(第四章に詳述)。
 九〇年前、アルメニア人であるというだけで一〇〇万を超える人々が突然に惨たらしい、不自然な死を被った。あまりの衝撃に打ちのめされて行動不能状態になっていた時期も含めて九〇年、アルメニア人大量虐殺の真実を営々として世界の人々に知らしめた結果、今日、欧州議会をはじめ、多くの国々が「アルメニア人ジェノサイド承認決議」を行うに至ったのである。二〇〇四年には、ニューヨーク・タイムズ紙も「学術上のジェノサイドの定義を注意深く研究した結果、テュルクによるアルメニア人大量虐殺はジェノサイドであり、【ジェノサイド】とずばり表現する。……」「【アルメニア人が言うところのジェノサイド】と表現しない」と、編集ガイドラインを改正した。
 さて、虐殺された数一五〇万人が、たとえテュルク政府のいう八〇万人であろうが、人数は第一義的な問題ではなかろう。アルメニア人というだけで、テュルクによって突如襲われ、目前で首をかき切られて男手を殺され、残された女性家族。両親を殺されてたった一人だけ「移送」と呼ばれた死の行進地獄に投げ込まれた少女。行進途上、突然拉致され、暴行されて殺された女性たち。酷熱のなか、路上で潰えたお年寄りたちのことをイメージできないのであろうか。母の懐から奪い取られ岩に打ち付けられて殺された赤子、腹部を切り裂かれた妊婦等々、痛めつけられた死体の数々。多くの無垢の人々があんなに野蛮なやり方で殺されたことを想わないのであろうか。ジェノサイドと呼ぼうが呼ぶまいが、人々の生命が計画的に殲滅させられたのである。文明が三〇〇〇年来育まれてきたアルメニア高地から、彼らは「消され」、住居も簒奪されてしまった。
 当時、「ジェノサイド」という用語はなかった。そこで、証言者は「民族殺戮」「人種殺戮」と表現した。だが、アルメニア人大量殺戮は、一九四八年国連総会で採択された「ジェノサイド条約」によれば、ジェノサイド行為を構成し、処罰すべき行為に当たる。
 たしかに、直接の下手人は昔に亡くなっている。だが、テュルク政府はアルメニア人ジェノサイドに対して責任を負う立場にある。犯罪の頂点に居たタラト内相の遺灰が一九四三年、イスタンブルに搬送され、改葬された。これは明らかに新世代へ引き継がれた印でなくて何であろう。今日の国家は、ジェノサイド犯罪の継承者であり、虐殺・追放の末に簒奪されたアルメニア高地の十分の九にも当たるアルメニア人の郷土の専有者である。古代から地誌上名高い「アルメニア高地」の大部分は現在、テュルク領とされている。これは、テュルク政府によるアルメニア人ジェノサイドおよび第一次世界大戦戦後処理過程で国際情勢が転変した結果の産物である。そんな訳で、現在、アルメニア人の国家は、アルメニア高地の十分の一に当たる東端部に陸島小国として存続している。
 魯迅の言うように、「墨で書かれた虚言は、血で書かれた事実を隠すことはできない」。テュルク政府は文明の地平に立ってジェノサイドを認めて謝罪すべきであろう。次いでジェノサイド生存者への物理的補償を行い、当時のアルメニア人多住地域、すなわちティグリス・ユーフラテス川源流域、アルメニア高地の核心部、少なくともアララト地域やヴァン地域をアルメニア人に安全に開放してしかるべきであろう。そして、アルメニア人大量虐殺のような悲劇を繰り返さぬよう語り継ぐため、例えばイスタンブルはガラタ橋のたもと、カルペルトはバス・ターミナル前などという具合に、「犠牲者追悼碑」が建立されてよいであろう。

著者プロフィール

中島 偉晴(ナカジマ ヒデハル)

1939年東京・目黒の生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業。産業団体勤務・定年退職。国際政治経済、ソ連論、コーカサス地域を研究。1980年以来アルメニアを12回訪問。1984年日本アルメニア研究所設立。1984、87年テュルク領アルメニア高地訪問。1993、98年ナゴルノ・カラバフに入る。2000年和光大学オープンカレッジ講座「アルメニアの民族・文化、歴史」講師。
〈主な著書及び論文〉
『閃光のアルメニア─ナゴルノ・カラバフはどこへ─トランスコーカサス歴史と紀』(神保出版会 1990年)、「カフカスの民族」(『歴史と地理』 山川出版社 1993年)、「ナゴルノ・カラバフに平和はいつ来る──抑圧され続けたアルメニア人の歴史」(『世界週報』 時事通信社 1993年)、「コーカサスの南と北」(『地理』11月増刊「現代世界をどう教えるか」 古今書院 1996年)、「コーカサス・カスピ海地域」(『授業のための世界地理』 古今書院 2006年)ほか。



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