
シリーズ・叢書「明石ライブラリー106」の本一覧
発行:明石書店 この版元の本一覧
四六判 480ページ 上製
定価:4,800円+税 総額を計算する
ISBN 978-4-7503-2488-3 C0337
在庫あり
奥付の初版発行年月:2007年03月 書店発売日:2007年03月01日
※FAXによるご注文は、原則としてお受けしておりません。
学校・官公庁などのでの御用でネットショッピングが利用できない場合、メールか電話にてご相談ください。
※お支払いは郵便振替(到着後後払い)・クレジットカードがご利用いただけます。
あらかじめご了承下さい。
他のオンライン書店で購入※リンク先の書店では、お取り扱いしていない場合があります。あらかじめご了承ください
アマゾン(在庫あり。)|HonyaClub.com紹介
教育が荒廃すれば未来の国民は荒廃する。教育の荒廃の原因は教育政策と教育行政にある。文部科学省と教育委員会,校長と教師,学校と親と子どもの関係から教育現場の実態を明らかにする。民主主義と教育のあり方を根本的な視点から見直し,再生について考える。
目次
まえがき
序章1 破綻した教育勅語下の教育——侵略戦争と敗戦下日本で見えたもの
1 軍国主義日本の内と外
2 敗戦直後の混乱で見えたもの
序章2 平和憲法と日米軍事同盟の狭間で
1 戦後改革を国民は支持し推進した
2 文部省はなぜ廃止されなかったのか
3 冷戦の激化とGHQの裏切り
4 早くも国家権力による教育支配が復活した
5 平和憲法と戦後民主教育を守り育てた力
第1部[A]文部行政の破綻を見すえる
第1章 六〇年代高度経済成長期以後、教育政策のごまかしと失敗
1 「多様化」政策という名の画一主義
2 選択を狭める「選択の自由」
3 「文部省好みの能力」をテストで測る「能力主義」
4 子どもの社会性を破壊する競争的能力観
5 「多様化」政策のなかの遺伝信仰——日本社会は動脈硬化?
第2章 九〇年代以後、「多様化」政策の混迷1——「新学力観」、「生きる力」の破綻
1 態度主義に転落した「新学力観」
2 正体不明の「生きる力」概念
3 なぜ「ゆとり」重視で基礎学力が低下したのか
第3章 九〇年代以後、「多様化」政策の混迷2——中高一貫公立校と大学飛び入学制度
1 中高一貫公立校は子どもの早期選別法制だ
2 大学飛び入学制度をつくって天才待望の幻想に酔う
第4章 財界の教育改革論の矛盾と限界
1 財界の危機感と反省に注目したい
2 財界の期待はもっともであるが
3 「地域運営学校」の原型
4 財界の教育改革論の矛盾
第1部[B]国家権力による精神支配の手は伸びる
第5章 国家権力による教育委員会・学校・地域・家庭教育支配の構図
1 臨教審に叱責された教育委員会
2 地方分権推進委員会答申と文部省の巻き返し
3 「校長のリーダーシップ」によって校長も教師も堕落する
4 「地域に開かれた学校」は学校を密室にする
5 行政はPTA・地域・家庭にまで手を伸ばす
6 偽りの住民参加——「地域運営学校」
第6章 文部省の露払い——東京都教育委員会
1 文部省・中教審・都教育庁の隠密連携プレイ
2 都立高校の自由を根こそぎにして……
3 高校生に教師評価をさせて教師管理の資料に?
第7章 国家権力は大学・文化支配に手を伸ばす
1 国立大学法人化で何をねらったのか
2 都立大学を破壊した石原都政の野蛮
3 学生による教師評価は学生を堕落させる
第8章 国家主義の台頭と憲法・教育基本法の危機
1 戦後最低、教育改革国民会議報告書
2 迷走中教審の教育基本法改正論
3 日の丸・君が代強制のこの異常さ
第2部 現代を生きる人間について考える
第9章 個人の尊厳と自由の拡大
1 第二次世界大戦の反省
2 「自由」の発展形態を考える
3 自由な人間の関係、物化した人間の関係
4 自由な人間がまことの国民となる
第10章 個人の普遍性と差異——個人の偉大さ
1 個 性
2 能 力
第11章 二一世紀の人間像を求めて
1 現代世界における人間疎外
2 高度情報社会の光と闇
3 子どもたちの危機
4 日本人の歴史形成力の問題
5 地球市民の課題
6 世界は教育に何を求めているか
第3部 日本の教育再生のために——学校自治共同体の実現と教育行政の抜本改革
第12章 子どもの教育人権
1 子どもの発達権・学習権
2 子ども集団のなかの道徳・知性の発達
3 生徒自治は生徒の権利
4 生徒の社会的活動と社会的権利
第13章 教師の教育の自由、教育専門性を問う
1 教師に教育の自由はなぜ必要か
2 教師の教育の自由に対する疑問に答える
3 教師の教育専門性とは何か
4 教師の専門性を高めるために
5 教師の教育専門性を評価しようとする迷妄
6 教師集団の自治はなぜ必要なのか
第14章 親の教育権と学校参加
1 親の教育権の根拠
2 家庭教育の本質と家庭の社会的基盤
3 家庭教育と学校教育
4 学校に対する親の権利
5 親の学校参加とPTA
第15章 学校自治共同体の必然性
1 子ども・教師・親は互いに相手の自由・自治を必要とする
2 生徒自治に教師の指導が必要である
3 生徒自治が教師集団の自治を支える
4 親は自由な教師を求め、学校参加によって教師の同志となる
5 学校における三者交流の意義
6 学校・教師と子ども・親の紛争処理機関
7 学校自治共同体とプライバシー権
8 学校自治共同体の連合化と教育行政参加
第16章 教育行政改革の視座
1 政・官・財癒着による教育支配の腐敗構造
2 文部科学省の抜本的改革
3 地方教育行政の抜本的改革
4 教育行政改革と学校自治共同体
結章 教育の再生のために
1 国民の精神・教育を支配しようとする国家権力の本質はいまも変わらない
2 戦後六〇年、国民は変わったか
3 教育行政の現実を見すえる
4 民主的連帯と学校自治共同体
5 教育から自由を抹殺することはできない
あとがき
前書きなど
まえがき
いま、日本社会の多くの領域で荒廃が進行している。教育もそうである。しかも、教育の荒廃は、部分的にははっきり見えるけれども、その全体像も、原因も、責任の所在も覆い隠されている。
教育が荒廃すれば、未来の国民が荒廃する。日本の自浄能力が衰弱することを意味している。教育を知る人、教育にたずさわった人は、憂いを共にするだろう。
しかし、覆い隠されているけれど、教育荒廃の全体像も原因も、責任の所在も、認識し、追及することはできる。解決の処方箋を書くこともできる。その点は、他の荒廃領域と異なった教育荒廃の特徴である。
教育荒廃の根本原因は日本の教育政策、教育行政にある、とわたしは確信する。文部(科学)省がもつ全国の学校教育に対する支配権限は強大である。しかも、増大の一途をたどっている。教育委員会についても同じことが言えるだろう。
しかし、学校に対して巨大な力を振るっている文部(科学)省が、閣内において低い地位にあるのは周知のとおり。歴代文部(科学)大臣の顔ぶれを見ればわかるように、多くは教育についてずぶのしろうと、しかも任期もきわめて短い。文部官僚も、「御殿女中」などという有難くない名を頂戴しているようである。
一方、地方教育行政をつかさどる教育委員会はと言えば、知事、議会与党にまったく頭が上がらない。教育予算決定に際しても、何の権限もなく、教育予算を執行する権限すらない。自治体首長が変われば、教育委員会もがらりと変わる。文部(科学)省も教育委員会も「内弁慶」の見本と言えようか。教育は国家百年の大計、という常識から見れば、こんな現状が良いはずはないだろう。
教育行政は、教育の論理を尊重して行われるのがすじである。しかし、戦後ほとんどの期間政権を独占してきた自民党(保守党)の方針、政府に巨大な発言力をもつ財界の要望、文部官僚がもつ官僚主義、これらが教育行政にもろになだれ込んできた。しかも、政府・与党の論理、財界の論理、官僚の論理は教育の論理と異なる。まったく相いれない面もある。それらの要求が教育行政になだれ込み、教育行政を牛耳るなら、教育が混乱し、荒廃するのは当たり前ではないか。それでは実態はどうなのか、本書第1部でくわしく検討していきたい。
それにしても、教育行政はなぜこれほど上と外に対して弱く、下に対して強いのか。なぜ政治家、財界、文部官僚は、これほど全国の教育を支配しようと情熱を燃やしているのか。
何よりも、教育支配の絶大な効果には目をみはるものがある。戦前に国家が、教育勅語体制のもとに教育を隅々まで支配してきた。その結果、国民は忠君愛国の思いに燃えて、侵略戦争に熱狂した。権力欲に燃えた政治家にとって、その事実は忘れ難い。少なくとも、政府を支持し、従ってくる国民を育成したい、と切望する政治家が現われても不思議ではない。
しかし、それはあべこべである。近代国家においては、政府が国民を育成するのではなく、主権者である国民が政府を選ぶのである。民主政治は、政権交代を前提とする。そのためには、国民が高い政治意識、理性、教養を身につける必要がある。政府に支配されることなく、学問、文化に基づく教育が行われなければならない。それを保障するための仕組みが、近代国家において求められてきた。教育行政の中立・独立、学校の自律、教師の教育の自由、親の教育権、子どもの教育への権利……など。その論理構造については、本書第3部で詳述する。ただ、日本においては、戦後教育改革期を除き、何一つ実現されていない悲しむべき現実がある。、それについては第1部で分析しよう。
もちろん、戦前の日本においては、これらのことはまったく問題にもならなかった。教育勅語は、国家に対する献身を教育の中心徳目に据えた。何より重要なことは、国民の道徳価値、教育理念・内容を天皇制国家が決定したことである。さらに、教師に対するきびしい管理は、それよりはるか以前から始まっていたことに注目したい。
その結果、国民が侵略戦争に熱狂したことは前述のとおりである。まずここで検討すべきことは、南京大虐殺をはじめ占領地における日本兵の無数の蛮行である。戦争に野蛮な行為はつきものだ、と自己弁護をしても、世界には通用しない。戦争が人間を狂気にするにしても、その人なりの、その国民なりの狂気の様相がある。戦時、戦場において、平時には隠されていたモラルの深部があらわになる、と見るべきではないか。占領地における日本兵の蛮行と日本人のモラルの関係、また教育との関係について追究する必要があるだろう。
さらに、敗戦直後の内地における、権力者による大規模な軍需物資の横領、そして占領アメリカ軍に対する手のひらを返したような迎合ぶり。誇りある者なら、屈辱感なしには回顧できない、数々の事実についても、同様にその根源を追究する必要があろう。
戦後日本の歴史は、民主主義、平和憲法を守り、支え、発展させていく国民的努力と、日米安保体制のもと、世界の超大国アメリカに従属した政府との対抗関係の視点から見ていくことが、教育を考えるうえで重要である。と言うのは、教育と教育行政において、それが最も先端的な形で現われているからである。
本書で、講和時の全面講和の論調に少しふれたが、愚痴や空想としてではない。自由な人間の、生存の時間構造と異なり、国家歴史において別の選択肢もあったことを認識することによって、現実を絶対化することなく、批判的に眺めることができるからである。国民が既成事実を絶対化し、ひたすら順応しようとするとき、既成事実はどんどん積み重ねられていく。自分の理念、自分の内にある大切なものを育てようとせず、過去をすぐに忘れ、回りを見、上を見て新しいものに飛びつこうとする、それでは自分の、地域住民の、国民の歴史が形成されるはずもない。
最近、国家主義が台頭し、憲法・教育基本法の改正が現実の問題となっている。二つとも、保守党、国家主義者の宿願であった。その核心は、周知のとおり、憲法第九条の改正と愛国心教育であり、現に起こっている日の丸・君が代強制事件は、その先ぶれと言えよう。東京都などの日の丸・君が代強制の方法が、戦前を丸写しにしていることも明らかである。
政府が愛国心を家族愛や愛郷心と結びつけて強調するのも、戦前と同じ発想である。だが、大資本を擁護して格差社会を現出させて、何の家庭重視であろうか。住民自治も自治体財政も育てず、自然を破壊して何の愛郷心重視であろうか。そして、米軍基地の重圧にあえぐ沖縄県民に対して、アメリカの代弁者のように振舞う日本政府。その政府が強調する愛国心とは、何であろうか。超大国アメリカに従属する政府の説く愛国心は、戦前の愛国心よりもっと危険なものであるかも知れない。ここでも、政治、軍事と教育問題は切り離すことができない。序章をはじめ多くの箇所で、専門の領域を超えて、政治や軍事を論じないわけにはいかなかったことを了承していただきたい。
さて、本書第1部以下については、多くの前置きはあまり必要ではないと思われるので、ごく簡単にとどめたい。
第Ⅰ部は、一九六〇年代の高度経済成長期から今日に至るまで、教育政策の矛盾、教育の破綻をつぶさに見ていく。現実に照明を当てるのは教育の理念であり、現実の矛盾を照射することによって、逆に理念は鍛えられる、と言うべきか。もっとも、その理念は教育学、教育法学の通説をわたしなりに理解したものであるが……。
第2部は、権力によって破壊できない人間の基盤は何であろうか。教育はその基盤の上に確立されなければならない、と考えた。わたしは、文部省が「新学力観」に見られる自主的思考やまた「生きる力」、「ゆとりの教育」を掲げたことに注目した。文部省の政策はいずれもあえなく失敗するのであるが、そのような発想をもつに至った理由に興味をもつ。
わたしの脳裏には、敗戦後、焦土に立って人間として生きる道を求めた民衆、わたしもその一人であったが、その姿があった。そしていま、パレスチナで、イラクで、アフリカで焦土に立つ民衆を思い浮かべる。人間らしく生きたい。それは共通の痛切な願いであろう。そして、さらに、なぜだ、なぜこんな戦争が起こるのか、と考える。そして、死んだ人びとに対してどう供養するのか、と。日本でも戦後六〇年、その道は、多くの人びとによって示された。それを追究することは、自由な人間として、さらにまことの国民として、生きるために必要であると確信する。それを出発点にして、二一世紀の世界を、何が教育に要求されるかを考えてみたい。地球市民として……。
第3部は、わたしが求めてきた教育権論である。これは、学校自治共同体の理念、方法論として、日本の教育改革の具体的方法、教育荒廃解決の処方箋となるにちがいないと思う。
ここに描かれた学校自治共同体は、いわゆる「地域社会学校」のように、教育委員会の学校管理の下請けとなった地域有力者が、監視し管理する、萎縮した学校ではない。反対に、教師・親・生徒がそれぞれの自由・自治を基礎に三者が連帯する学校であり、その連合体である。外部の力によってこじ開けられる学校ではなく、外へ自分を開き、外部に進出する学校である。その実現は必然である。教師も、親も、生徒も、自分たちの自由と自治を求めると同時に、相手側の自由と自治を求めてやまないのだから……。まずは、その必然性を認識し、一歩でも二歩でも進むことである。
最後に、教育行政の抜本改革は、究極の課題である。残念ながら、道は遠い。しかも、残された時間はそれほど多くはないように思う。何よりも、危機の深さ、病は深く、おそらくは死に至る病であることを認識する必要があろう。認識は必ずしも喜びをもたらすわけではない。しかし、認識によって心はすわる。いま求められているのは、それである。
二〇〇七年一月
著 者
著者プロフィール
坂本 秀夫(サカモト ヒデオ)
1924年生まれる。中央大学法学部卒業。東京都立桜水商業高校教諭、全国高等学校教育法研究会長、日本教育法学会理事、東京都立大学非常勤講師、中央大学非常勤講師を経て、現在、日本教育法学会名誉理事。
著書
『生徒懲戒の研究』1982年 学陽書房(第4回教育科学研究会賞)
『教師にとって法とは何か』1984年 エイデル研究所
『生徒心得』1984年 エイデル研究所
『時代を見すえる平和と人権の教育』1985年 国土社
『「校則」の研究』1986年 三一書房
『生徒規則マニュアル』1987年 ぎょうせい
『バイク退学事件の研究』1987年 三一書房
『PTAの研究』1988年(1994年増補新版)三一書房
『教師の研究』1989年 三一書房
『校則の話』1990年 三一書房
『こんな校則 あんな拘束』1992年 朝日新聞社
『校則裁判』1993年 三一書房
『生徒会の話』1994年 三一書房
『体罰の研究』1995年 三一書房
『教育情報公開の研究』1997年 学陽書房
※FAXによるご注文は、原則としてお受けしておりません。
学校・官公庁などのでの御用でネットショッピングが利用できない場合、メールか電話にてご相談ください。
※お支払いは郵便振替(到着後後払い)・クレジットカードがご利用いただけます。
コメントとトラックバック »
まだコメントとトラックバックはありません
TrackBack URI : http://www.hanmoto.com/bd/isbn978-4-7503-2488-3.html/trackback