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病いとかかわる思想 【第2版】
看護学・生活学から〈もうひとつの臨床教育学〉へ
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2006年3月
- 書店発売日
- 2006年3月23日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2015年8月22日
紹介
自ら癒す力の衰えた現代人。その問題点をナイチンゲールの看護論,西勝造の医学論をもとに検討。人間や動植物の形態の進化を踏まえ,現代の看護・医療のさまざまな矛盾点・問題点をみる。現代日本人の食生活の偏りから,心身両面の「健康」のあり方を考える。
目次
第一章 ナイチンゲール看護論と現代――文明批判の学としての西医学との共通性
はじめに
一 看護学と医学
二 ナイチンゲール看護論と現代社会
三 西勝造の医学論
四「看護の専門性」考
おわりに
第二章 科学的食理論の射程――〈離乳〉の意味と近代食養運動の再評価
はじめに
一 哺乳類と母乳
二 瀬江千史批判
三 香川綾批判
まとめにかえて
第三章 空腹と歯牙の意味論――飢餓の生命史の視座から
はじめに
一 空腹
二 歯牙・歯式
第四章 ハリス・諭吉・ベルツ――幕末維新期の牛乳/牛肉と日本文化
はじめに
一 ハリスと牛乳
二 福沢諭吉と牛乳・牛肉
三 エルウィン・ベルツの思想
四 民衆文化における牛乳・牛肉
五 啓蒙思想家福沢諭吉と差別問題
第五章 イリイチの『脱病院化社会』をどう読むか――ロマン主義的自律論から〈もうひとつの臨床教育学〉への架橋
はじめに
一 学校化社会
二 加速化社会
三 病院化社会
四 イリイチ思想と脱医療化運動
五 社会変革と自己変革
第六章 説教強盗「食育基本法」批判――〈石塚左玄・村井弦齋 食育食養思想〉の復権と現代栄養学のパラダイムチェンジ
はじめに
一 現代栄養学という問題
二 反牛乳運動からパラダイムチェンジへ
初 版あとがき
第2版あとがき
前書きなど
第2版あとがき
初版をテキストとして使い学生の皆さんから出された感想・疑問に向き合うなかで、内容の不十分さを痛感し、ぜひとも補足する必要を感じるふたつの問題がでてきた。牛乳問題と断食・少食問題である。
前者については学校教育や企業広告の影響力、要素主義的な栄養学がうみ出す牛乳神話の根深さをあらためて認識させられた。ただし乳糖不耐のため学校給食における牛乳強制に反感・批判をもっている人が一定の割合で存在することを、当然のことながら、再確認できた。こんかいの改訂でも基本的な私の立場はまったく変わっていない。初版の記述に誤りがあったのは、アメリカでは成人後も乳糖耐性者がおおく、それを当然視し牛乳を絶対視しているかの如き書き方をしてしまった点である。そのことをお詫びしなければならない。第2版では、アメリカの反牛乳運動やその根拠とされる医学・疫学研究を、可能なかぎり原著論文に当たり、その成果を内容に反映させた。
後者に対しては、「オカルトだ」「いかさまだ」「あたらしい『宗教』か?」など、じつにおおくの否定的評価を受けた。断食に凝った村井弦齋の評伝を書いた石黒比佐子氏ですら、「断食」に対して「誰でも一瞬どきっとするのではないか」と書き自らの評価を明らかにしていない問題だから、無理もないことと言うべきか。この問題についても、科学的な老化研究(食餌制限研究)の動向・主張をオリジナルへ遡って検討し、こんかいの改定に反映させた。
それと同時に、食・健康・教育・政治等の問題にかかわって「食育基本法」成立という最近の社会動向に関連する第六章をあらたにくわえた。幾つかの新聞報道によれば、「食育」「食育基本法」の社会的認知度はまだひくいというものの、一方でこのかん、関連する著書・論文は急増している。けれどもそこには、社会的・政治的関心を据えたものがあまりにすくない現実がある。同法成立当日、自民党武部幹事長は定例会見の場で、「こんな良い法律」に反対した勢力に対しては「全く理解できない」「真に信じがたいこと」であること、ぎゃくに「反対したこと」それ自体を「国民に訴えていきたい」と発言している。この発言にも、「食育基本法」のもつ〈政治〉が象徴されているだろう。小泉改革の流れは、近所の与党政治事務所に掲げられた看板に「教育基本法を改正しよう!! ジェンダーフリー教育をやめさせよう」なる標語を大々的に書かしめるまでに至っている。「食育基本法」成立は、一九八〇年代からの「健康の自己責任」論の強調という政策の一応の到達点という側面と、教育基本法「改正」・反「ジェンダーフリー教育」(=家庭科攻撃)という側面をもつ、というのが第六章の基本的認識である。
こうした体制批判的・左翼的言説は、体制派が「改革」の主導権を握り、右傾化した社会動向のなかで微々たる存在になってきた。ただ私がそこにこだわるのは、憲法・教育基本法「改正」が政治日程に上ってくる現状に対する危機感と、対して自らの立場を明確化する必要を感じるためである。例年、新年は賀状を通して、大学時代「ワレワレハタタカウゾ、サイゴノサイゴマデタタカウゾ」と共に叫んだ、ポスト全共闘世代としては特異な経験をくぐった知人友人の、それぞれの〈現在〉の一端に触れ、時の流れと自らの生き方を意識させられる。昨秋同世代の人間が書いた、ひと世代上の「団塊世代」の生き方を揶揄・挑発する『昔、革命的だったお父さんたちへ』(平凡社新書、二〇〇五年)を読み抱いた違和感も、そのことに関連した。たしかに「内ゲバ」が激しくなる過程を見てきただけに一部では共感する記述に出会うものの、当時の大学進学率、その中の全共闘およびその共鳴者の割合も意識せず、十把一絡げに「世代」論として、外側から分析するやり方はフェアーでないと感じた。これを読みながらよけいに、自らの経験によってみとった問題意識は大切にしたいと、改めて思いなおした次第である。そしてそれを支えた二冊の本がある。
それは初版出版後、上記したような事情とはべつに勉強せねばならない幾つかの領域が出てきたことに端を発する。そのひとつが人類学なのだが、時間をひねり出して読んでいた関連文献のなかで、在野のサル学研究者・島泰三氏の著作と出会えたことは誠に幸運であった。〈目からウロコが落ちる〉体験、〈学〉の底力を実感させられた刺激的な経験となった。昨年末ある書店で『安田講堂1968-1969』(中公新書、二〇〇五年)を手にすることになる。東大安田講堂に「本郷学生隊長」として立てこもり実刑判決を受けた当事者によって書かれたその本の著者が、島泰三氏であったことは驚きと同時に、つよい励ましにもなった。それは、『昔、革命的…』で揶揄された「団塊世代」の姿ではなく、「当時おなじ戦線にいた青年たちが当時の風貌のまま、自らの命を縮めるという事件が続」くなかで、かつての仲間とこれからの若い世代に書き残された貴重な証言である。またそこには運動を経ることでみ取られた「父祖と子孫と同胞に向かって恥じることがない」〈地道〉で〈平凡〉な、しかし〈硬質〉の生活思想が語られていよう。私が大学生活をはじめた岡山大学北津寮周縁には、安田講堂立てこもり組をはじめ、『昔、革命的…』でも言及される七〇年代の凄惨な事件にかかわる人たちの姿もあった。
もう一冊は、今年はじめに出版された、二〇〇三年一一月末イラクで命を落とした外交官奥克彦の生涯を描いた『日本を想い、イラクを翔けた』(新潮社、二〇〇六年)である。それを読むと中学・高校・大学時代がまざまざと甦る。同級生だった彼とは中学時代の関係や思い出が主で、違う高校に進学したため関係は疎遠になっていった。ただ大学時代のはなしで、彼が帰省した折中学時代の友人との集まりで、いわゆる「体育会系」の私が(前記したような環境のなかで)「政治に走った」ことをめぐり「大いに盛り上がった」と、ある知人から聞かされた。外交官を志す彼とは、考え方も視点も違ったであろう。本心を語りそれについての意見を聴く機会を失った今となってはどうしようもないが、彼はまた、島泰三氏のいう〈義〉に生きた人物であったことは確信できる。そのことをここに記して、遅ればせながら「奥チン」に対する私なりの墓碑名(エピタフ)としたい。そして彼の生き方を思うにつけ、自らの問題意識に誠実に論を立てるべきだとの思いをあらたにするのである。
「言葉のむなしさや思想の無力ということが語られてすでに久しい」「行動のむなしさや実践の無力のひそやかな感知もまた沈殿する」(真木悠介・一九七一)というコトバの前で私は立ち止まったままだが、それでもそう〈語る〉には、日々喰わねばならぬし、日々誰かがそれをつくってくれている。〈食養食育〉はそこを凝視することでもあると、いま思う。
第2版の改訂に際し、医学領域の文献にかんしては、その渉猟のスタートに、関西医科大学衛生学教室の甲田勝康先生にアドバイスを頂きました。また文献蒐集や図書相互利用にかんしては、前回と同様、大手前大学伊丹キャンパス図書館の田中まり子さん、担当が変わって以降は原美穂子さんに一方ならぬお世話になりました。閉鎖的な対応をされる医学系の図書館もある中で、多くの知恵と労力を割いてくださったご恩を忘れることはできません。
皆さんどうもありがとうございました。
二○○六年二月
森本 芳生
上記内容は本書刊行時のものです。