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A戦場のマリア 木村花道(著) - 柏艪舎
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A戦場のマリア (エーセンジョウノマリア)

文芸
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発行:柏艪舎
四六判
360ページ
並製
定価 1,600円+税
ISBN
978-4-434-19833-5   COPY
ISBN 13
9784434198335   COPY
ISBN 10h
4-434-19833-5   COPY
ISBN 10
4434198335   COPY
出版者記号
434   COPY
Cコード
C0093  
0:一般 0:単行本 93:日本文学、小説・物語
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2014年11月
書店発売日
登録日
2014年10月10日
最終更新日
2014年11月10日
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紹介

明日は晴れる 花道希望劇場
海老名 香葉子氏 推薦!

突然の病魔に打ちのめされ、
絶望に陥りながらも
希望とユーモアを忘れぬ著者による、
第一級のエンタテインメント!

A(アドバタイジング)という過酷な
業界を鮮烈に駆け抜ける沢村陽平。
心身をすり減らした陽平はある時
空蝉の聖母と巡り会う……

収録作品~『A戦場のマリア』『海に咲いた二輪草』

目次

A戦場のマリア 3
海に咲いた二輪草 253
あとがき 344
木村さんのこと――海老名 香葉子 356

前書きなど

あとがき

私は今、札幌の郊外にある温泉地定山渓の病院で長期療養中の身である。実は一昨年、九月十日、私は脳幹梗塞で倒れ、中村記念病院に緊急入院となった。頭がしっかりしていて右手も動き、この分なら半年もあれば退院できると思ったのだが、脳幹梗塞としては極めて稀な症例で、頭のほうは大丈夫でも、二年近くになるというのに右手が少し動くくらいで、まだほとんど全身麻痺という状態なのである。こんな私が本を出版することになったのは、この出版元の柏艪舎の山本代表の力はもちろんのこと、落語界で著名な先代林家三平師匠のおかみさんの力によるところが大なのである。
実は、昨年八月、病気に陥って一年にもなるのに、リハビリをやっても効果というものが目に見えず、焦る自分との戦いが続いているなか、おかみさんから一通の手紙が届いた。
〈遅くなったけど、二ヶ月後の十一月末に札幌に見舞いに行く〉という内容だった。そんな寒い時に無理しないでと断るつもりだったが、他にも用事があるということだったので、お言葉に甘えることにした。ただ、その間あと二ヶ月あるということで、なんとか体に変化を起こせないかとリハビリに努めたところ、不思議なことが起こった。右手が二、三十センチ動いたのだ。
そうして、その日を迎えた。おかみさんは、娘さんである泰葉さんと、正蔵師匠の奥さん有希子さんの三人で、札幌で市議会議員をしている林家一門の林家屯田兵さんの案内で病院にお見舞いに来てくれたのだった。懐かしい再会だった。おかみさんは、「木村さん、木村さん、木村さん」と三回大きな声で言って病室に入ってこられた。おかみさんの顔を見て、どんなに勇気づけられたか、今さら言うまでもない。おかみさんの手紙にパワーをかけてやると書いてあったが、それが現実になったのだ。おかみさんは泰葉さんを促して、泰葉さんのヒット曲をはじめ三曲も披露してくれた。楽しいひと時はあっという間に過ぎた。
おかみさんと別れたあとで、本著はすぐに出版しなければならないと心に決めたのだった。柏艪舎の山本代表には、体がよくなってからにしたいとずっとこの一年固辞していたのである。
その私とおかみさんの出会いについて、ちょっと長くなるけれど話しておきたい。おかみさんとの出会いは、今から三十五年以上前に遡る。私はそのころ、広告代理店に身を置いていた。俗に言うアドマンである。二十代後半で、入社五年目くらいのころ、怖いもの知らず、猪突猛進で日々営業マンとして活動していた。ある日、東京本社から新しい札幌支店長が赴任してきて間もないころ、営業会議でその支店長が我々に、「私はみなさんがよく知っている林家三平師匠とたいへん親しい付き合いをさせていただいてきた。もし、この北海道で師匠をコマーシャルに使ってみたいというところがあったら、申し出てほしい。出演料はなんとか私が頼み込んで、友人価格で交渉するから」と言った。北海道のみなさんはすぐに、「ああ土倉のお茶屋さんだ」と思うほど有名になった感のあるテレビCMだが、お茶の土倉さんと林家一家が関係するようになったのは、この支店長のひと言がきっかけだった。
私はすぐに自分のお客さんである、お茶の土倉さんにその話を持ち込んだ。当時、お茶の土倉さんは、社長の奥様が広告担当者だった。奥さんを説得してすぐに社長室に向かった。ところが、返事は私が想像したとおりだった。「木村くん、何を言うんだ、北海道にはうちのライバル会社で林屋製茶があるのを知ってるだろ。話を持ち込むんだったら、うちじゃないだろ」と怒るように言う。
私はやっぱりそう言われたかと思ったけれどひるまずに、「社長、この前私に、林屋製茶の売り上げをとうとう抜いた。もう目指すはトップしかない。そう言ったじゃないですか。なんで今さら、追い抜いたところをライバルだなんて言うんですか」と反論した。「こんなすごい話は二度とないですよ。あの三平師匠はいくらローカルでも一千万はくだらないはずです。それを友人価格で出演してくれると言う。こんなことは普通はあり得る話じゃない。こうしている間にも他の営業マンが林屋製茶に話を持って行ってるかもしれないですよ。今この場でやるかどうか結論を出してください」と私は食い下がった。
社長はその言葉に、腕組みをして目をつぶり、一分くらいずっと考えてから、静かに目を開けた。「木村くん、わかった。君にかけてみようか」とそう言った。「その代わり条件がある。当社のお茶は日本一だと自負している。だからコマーシャルのスタッフも北海道じゃなく、東京の一流スタッフを使ってくれということと、もうひとつ、林家三平じゃなく、土倉の三平としてテレビに映してほしい。くれぐれも林家という文字が出ないようにしてくれ」というものだった。私は、すぐに喜びいさんで支店長に報告して、先方の師匠の了解を取り、破格の料金でコマーシャルの内容、いわゆるコンテ作りを進めた。
それから半年後、東京でコマーシャル撮影となった。一日で撮影は終わり、その後もうすっかり日は暮れていたが、林家三平師匠宅にご挨拶に、私と札幌支店長と土倉夫人と三人でうかがった。師匠はこれから仕事だということでご不在だったが、おかみさんが相手をしてくださった。そして帰ろうとすると、まだ食事を済ませていないなら一緒に会食でもしませんかとお誘いを受けた。思わぬ言葉だったが、全員用事があるわけでもないから、その言葉に甘えて、歩いてすぐの近くの店に向かった。名前を忘れてしまったが、由緒のある店だということだった。私は感心したのはその店よりも、おかみさんの我々に対してのおもてなし。昨年、流行語大賞になったおもてなしそのものの精神だった。気遣い、会話の豊富さ、話し上手で聞き上手はこういう人のことを言うんだなと思い、三平師匠が今日あるのは、ご本人の力はもとより、実は側面にいるおかみさんのプロデュースの力がすごかったのではないか、とすぐにそう感じた。それほどおもてなしは徹底していた。我々広告代理店も、接待の会食は絶対条件のひとつである。でも私はその時、それまでのおもてなしがいかに田舎風でお粗末なものだったのかということを思い知らされた。こうして、おかみさんに尊敬の念を抱いたことからお付き合いが始まったのである。
同時に、私はその時、三平師匠がこれほど長期にわたって国民的スターであること。またその間、林家一門を何十人もの規模に作り上げたのも、師匠の力はもちろんのこと、何よりも陰で支えた、おかみさんの手腕であると思い知らされたのであった。
みなさんご存知のように、三平師匠はそれから数年で帰らぬ人となってしまったのである。私もそうだが、土倉さんサイドにとってもそれはまったくの寝耳に水だった。当然ながら、コマーシャルは打ち切り。「さて、これからどうしよう」ということになった。でも私は絶対におかみさんとの縁を終わらせたくなかった。怒られるのを承知で土倉さんに向かった。そして奥さんを説得して社長にこう言った。
「社長、今まで私達は三平師匠並びにおかみさんの好意でずいぶんお世話になってきました。今、困っているのは大黒柱を失ったおかみさん自身です。どうか、このまま縁を切らないでください」と頼み込んだ。土倉社長は「木村くん、君の気持ちはよく分かるけど、お茶は縁起物なんだ。今回ばかりは、続けて林家一家を使うというのはどういうものだろうか。普通は使うことはあり得ない」こう言った。
私は食い下がった。「だけど、社長は普通の人じゃないでしょう。だからこそ、社長は一代にして北海道一のお茶屋さんを作り上げたんでしょう。世間の人はやっぱり土倉さんだ、と絶対に褒め称えると思いますよ」と。また社長は目をつぶって考え込んで、目を開くと、「君には参った。その通りかもしれないな。そうしたら、どういう案があるのか考えて持ってきてくれ」と言った。
私はすぐに何回も直接やり取りしているおかみさんに電話をかけた。おかみさんにその旨を伝えると、おかみさんは「木村さんありがとう。他のスポンサーはほとんど降りて、本当に困っていたところ。一社でも、そういうところがあると大変心強い」と言って喜んでくれた。そして林家一家のどなたかに出ていただきたい、と頼むと、おかみさんはキッパリこう言った。
「木村さん、今度の作品は一家全員出ましょう。私とみどり、こぶ平(現正蔵師匠)、泰葉、泰助(現二代目三平師匠、当時小学四年生)の五人です」
今もし、そのフィルムが(Y広告社)に残っていたら、お宝CMそのものである。こうして、一家全員によるコマーシャル撮影となったのだ。そして、終わったあとで、おかみさんは次のような言葉を付け加えた。
「木村さん、今年は一家全員だけど、うちはこれからこぶ平(当時二十歳くらい)を一家の大黒柱に早く育てなければなりません。だからこの次からこぶ平一人でお願いします」と。私はおかみさんの真剣な目つきとその言葉に圧倒され、おかみさんの本当のすごさに感心した。それから、北海道民なら誰もが知っているように三十年もの間、林家正蔵(旧名こぶ平)師匠がずっとお茶の土倉のコマーシャルに出演し、土倉は名実ともに北海道一のお茶屋さんになったのは私が言うまでもないことだ。
その後、我々が想像しないことが待っていた。おかみさんはテレビに出演するたびに、一番困っているときに、北海道のお茶の土倉さんに助けられたと発言してくれたのだった。その事実を知った土倉社長は大変喜んでくれて、「木村くん、君のおかげだ。ありがとう」と言ってくれた。そして後にこぶ平(現正蔵)師匠が結婚するときに仲人を務めたのが、他でもない土倉社長であった。
昨年、みなさんご存知のように半沢直樹というドラマが大ヒットしたが、私もそのドラマを見て感動した一人だ。あの正々堂々と何にも臆せずぶつかっていく姿が自分の若かりしころとダブって、毎週涙なくしては見られなかった。私自身、やはりサラリーマン生活は性分に合わず、たとえ上司であろうと、相手が年間数億の広告主であっても、違うものは違うと自説を曲げない性格のため、サラリーマン生活がうまくいくはずもなく、四十歳のとき独立することを決意した。絶対、十年で北海道一の広告代理店を作ってやると飛び出したのだ。そのようなわけで、お茶の土倉さんのCM作りを離れることとなったのだが、おかみさんとだけはお付き合いを永久に続けたいと思ってきた。
さて、会社を飛び出したそんな私だが、北海道拓殖銀行と繊維会社としては戦後最大の負債額を抱えたB社の倒産とのダブルパンチで、いろいろ手を尽くしたものの、あえなく自分で興した会社も八年間の短い命となってしまった。しかし、毎年倍々のように業績を伸ばし、道内五位にランクされる規模になり、〇〇台風などと言われ、業界に一石を投じることはできたと今でも思っている。
そんな時期、これから何をしていったらいいやらと試行錯誤するなか、インターネット仲間からおまえは文章がユニークだから本など書いたらどうだと言われ、元手もかからないならと思って書き始めたのが本著だ。そのとき六十歳になるある女性実業家から、本を書くなら私達熟年世代を勇気づける作品を書いて欲しいと言われた。やっぱりまだ広告代理店に未練があったころなので、舞台を今まで自分がいた世界、そこで熟年の女性が活躍するような小説がいいのではと、しかも、恋愛小説的な要素も取り入れられたらと考えをまとめ、書き始めたら意外に一気に書き上げられた。とはいえ、この小説が世間に通じるものかどうかまったく自信がなかったので、誰に相談したらいいか考えた時、すぐに浮かんだのがおかみさんだった。作品をすぐにおかみさんに送ったところ、何日も経たないうちに電話がかかってきた。それは意外な言葉だった。
「木村さん、なぜもっと早く作家を目指さなかったの。あの作品で十分通用すると思うから、私が紹介するS社のY編集長を訪ねて行きなさい」と。
おかみさんは、はっきりものを言う人だから、このことはすごく自信になった。後日、Y編集長を訪ねて行った。しかし、S社は日本でも最大手に入る出版社であり、編集長の言葉はけっこうきついものだった。「まず、賞を取らなければだめだ。どんな賞でもいいから取ってこい。それと、これから小説家として生きていくのは厳しいよ。賞を取った作家でも食べていけるのはひと握りで、小説を書くなら趣味程度にしておいたほうがいい」と。でも、とにかく毎日書き続けることだという忠告を受けた。ショックではあったものの、それが現実だと思い知った。それでも、せっかくおかみさんからの紹介だからといろいろなアドバイスを受け、Y編集長とはその後もお付き合いをさせていただいている。
私も現実的に何かで食べていかなければならず、小説家になろうという気持ちは薄らいでいったが、Y編集長に言われたとおり、本は書き続け、それから今までに六作の小説を書き上げた。
それからあっという間に五、六年が過ぎたころ、おかみさんから突然電話がかかってきた。「あの小説はどうしたの?」と言われ、まだ出版していない旨を伝えた。「何も東京の出版社にこだわることはない。札幌にすごい出版社がある。柏艪舎という出版社で、東京よりもむしろレベルの高い本を出版しているから、そこの青山さんという女性を訪ねて行きなさい。話は通してあります」その言葉に私はびっくりした。おかみさんがまだ私の本のことを覚えてくれていたことがとにかく嬉しかったのだ。すぐに、作品を持って会社を訪ねて行った。柏艪舎でお会いした青山さんはもちろんのこと、社員の方の質の高さと一生懸命さが、入ってすぐに伝わってきた。何よりも感動したのは、代表者の山本光伸氏だ。もともと有名な翻訳家であり、『ゴッドファーザー』や『トップガン』も彼の手によるものだということに驚いた。もっと驚いたのは五十歳で湘南の自宅を売り払い、翻訳学校と出版社を立ち上げたということだ。北海道にはまったくいない、北海道人が忘れてしまったフロンティアスピリットを持ち合わせた人物だと、彼に初対面で惚れ込んでしまった。それからすぐに二人で飲むような間柄になり、自分の本のことはどこへやら北海道の出版業界はこうあるべきだ、そんな話を肴に還暦を過ぎてからの親友付き合いが始まった。そんな矢先のこの病気だった。
でも山本代表はすぐによくなるから、本を出版して、半年後の木村さんの誕生日に出版パーティをやろうと、毎週のように来ては力づけてくれた。私は体がよくなるまで本はやめましょうと固辞していたのだが、今回、おかみさんのお見舞いを受けて、一日も早く本を出版するのがおかみさんに対する一番のお礼につながるのではないかと、今日の日を夢見て出版の準備に取り掛かったのだ。おかみさんがいなければ、この本は世に出ていなかったと心の底から思っている。
それにつけても、おかみさんとここまで長いお付き合いができたのは、お茶の土倉さんがあってのこと。傍若無人、小生意気な私の営業を笑いながら受け止め、ここぞという時大きな決断をしてくれた故土倉会長は、今振り返っても大きな度量を持った人だと感服する思いだ。
そして忘れてはいけないのが、CM担当者だった土倉夫人である。こんな私の勝手気ままな話をいつも真剣に受け止めてくれた。特に、初代林家三平師匠の件に関してはすぐに理解を示してくれ、私の支援に回って一緒に社長を説得してくれたのだった。
社長はお亡くなりになったけれど、八十歳を優に越えた土倉夫人がお見舞いにいらしてくれた。すごく若々しく驚いたが、いつまでも長生きしていてほしいと願った。私がアドマンとしてこれまでやってこられたのは、土倉ご夫妻のご支援があってのことと、この場を借りて心よりお礼申し上げたい。
今回、柏艪舎の山本代表はもちろん、編集者の青山万里子さん、可知佳恵さんには本当にお世話になった。時には私の看病に来てくれたり、親戚でもできないことをしてくれて心より感謝している。
編集サポートとして、いろいろな面で忙しい思いをさせた山本哲平君には深く感謝したい。遠い病院を何往復もさせて、本当に申し訳ないと思っている。それから、新人ながら私の担当となり、いろいろと苦労したと思う山田寿矢君には本当に頑張ってくれたと感謝したい。山本社長も私に、「よく頑張ってくれた。誉めてやってください」と言っていましたよ。
中学、高校時代を初めとする古い友人達。東京からも何度も見舞いに駆けつけてくれるなど、会うたびに涙が止まらないほど感謝している。ありがとう。
それから、本書の挿絵は親友の土岐純造君が手がけてくれた。彼とは私が社会人として初めて就職したテレビ局のデザイナーの同期である。私はデザインの才能がないので広告代理店に転職したが、彼はその後も仕事を全うし、現在は某民間テレビ局のデザイナー軍団のトップとして長年活躍している。今回私の要望を取り入れてくれ、素晴らしい作品に仕上げてくれたことに心からお礼申し上げたい。
あらためて言うのも照れ臭いが、妻と娘二人には感謝の言葉もない。仕事にかまけて家庭をおろそかにした夫であり父であったと思う。これからもいろいろと迷惑をかけるかと思うと心苦しい限りだが、どうか許して欲しい。
それから、今回収録されている「海に咲いた二輪草」は母の半生を綴ったものだ。現在八十九歳でもう飯寿司作りは引退しているが、なんとか母の姿を通して力強く自分の子ども達が生きていってくれればと願い、またどうして札幌からあんな片田舎に嫁いだのか、おふくろが生きている間に聞きたいと思い、大病の後でいつ死ぬかわからないという現実を目の前にして、何とか母のことを小説にと思って書いたものである。
あの頑固な親父に黙ってついていく姿は、私も子どもながらすごいと感心し、将来絶対おふくろを楽にさせてやるぞと思ったものだった。身内話で恥ずかしいのだが、出版記念に何とかおふくろを登場させたいと思い、母の話を取り上げたしだいだ。なお、本書「A戦場のマリア」のほうはモデルにした会社はない。十訓は私の広告会社時代のものを使わせてもらったが、登場人物は全て架空である。実際、私の会社では弟がナンバー・2だったが、私の至らない点を全部カバーして社員の輪を率先してまとめ上げるような、人間的にできた弟で、その後の苦労を申し訳ないと思っているし、感謝もしている。今は自分で広告会社を営んでおり、私が倒れたあと、母のために家をバリアフリーに改造して面倒を見てくれてもいる。この小説を読んでナンバー・2は弟だと思う人がいるかもしれないが、弟をモデルにしたわけではないことをお断りしておく。
最後に、私が倒れたあと、私の事業を引き継ぎ、私の家族を励まし続け、私をいつも勇気づけてくれ、また私の小説の全てを読んで、早く出版したほうがいいといつも激励し続けてくれた山田英寿君に、この場を借りて衷心より感謝申し上げたい。彼とはライオンズクラブ時代からの付き合いで、彼が二十代の頃からだから、もう二十五年になる。
そして、忘れてはならないのは、ここ定山渓病院のことである。私の体は、これからのリハビリがとりわけ重要で、何とか車イスに乗れるようになるためには、それなりの病院選びが大変だった。札幌の有力な病院に全て断られて、途方に暮れていた私を、二つ返事で受け入れてくれたのが、当病院である。平井副院長、安田先生、石塚看護師長を中心とする看護師さん達、そしてワーカーさん、リハビリの先生方に一年以上にわたって親身な看病とリハビリ、そして激励を賜わっている。私がこうして小説を出そうという精神状態になったのは、この方達によるところも大きい。この場を借りて、スタッフの全ての皆様に感謝を申し上げたい。
そして最後にひと言、「おかみさん、十年以上かかりましたけど、私の本ようやく出版に漕ぎ着けました。ありがとうございました」

二〇一四年秋                               木村 花道


木村さんのこと

〝北海道出身の木村と申します〟
広告会社の部長、担当の方達と一緒に我が家に来られた若い青年は、とても感じがよくて、かしこまっている様子が何とも人なつっこいというか可愛い存在だった。
二度三度と会ううちに〝北海道へ来ませんか、来て下さいよ、案内しますから〟
その言葉がずっと胸にあって、夫が逝ったあと、なくなると思っていたコマーシャルの仕事が三本つづいて、その一本がお茶の土倉で、逝った夫の替りを家族で受け持たせて下さったり、倅や弟子たちが出させて頂き嬉しくありがたく思っていた。その中で、「おーい、お茶」と言うと湯呑みにピューとお茶が飛び込んでくる仕掛けが面白かった。夫三平なきあとも、お茶の土倉ご夫妻で何かとお世話を頂き、長男こぶ平の仲人まで引き受けて下さって、北海道は江戸暮らしの私にとっては、遠くて涼しい、純白の銀世界の地と夢にしていただけだったのが、長男の嫁と一緒に旅する機会を与えて頂き、そのときご案内して下さったのが木村さんだった。当時北海道支社勤務で、ご自分の車でいろいろな処へ連れていって下さり、汗を流して説明してくれるのが嬉しかった。でも驚いたことに、一日中、クシャミが止まらず、嫁有希子と〝木村さん鼻が傷んでしまうわ、大丈夫かしら〟と話している最中も、クシャン、クシャン。〝苦しくありませんか〟と聞くと、〝いえこんなこと何でもありませんよ、クシャン〟だった。スキー場跡へも連れていって下さって、緑の中で?がゲロゲロ、ゲロゲロ鳴いていて驚いた。〝北海道の?は違うんですねえー。関東の蛙みたい〟今北海道出身の人に話すと、そんなはずありませんよ、と笑う。木村さん、あのゲロゲロは何だったんでしょうか。
湖の売店でおみやげに、すずらん香水を二十個買った。帰ってみんなに渡して喜ばれたが、夜、突然、二男が〝この香水、本当に北海道で買ってきたの? 製造元、台東区入谷、すぐそこじゃないか〟と言う。自転車で五分もしない工場で作っていたのだ。
二泊三日、土倉さんのご厚意と木村さんの親切で、可愛い嫁との二人旅、終生の思い出となっている。
その後、木村さんとのお付き合いは仕事が変ってもつづいて、社長になっても人柄は昔のまま、何とも可愛い人、面白い人。

小説を書いたので読んでほしいと持って来られたのは十年ほど前だっただろうか。えっ、と驚くほどの厚み、読み出したら止まらなくなった。題材が面白い、すぐに小説の選考委員を務める知人に渡したら、原稿の話はどこへやら友達になったらしく、その後、本のことは話に出なかった。

三年前、木村さん倒れるの報に接したが、彼のこと、花粉症が流行する前にかかって最盛期は平気だったんだから、とあまり心配もしていなかった。その後、えっ本当! と驚く報告に飛んで行きたい気持が走ったが、日を決めてお弟子の案内を受けてお見舞いに上がった。
聞いていた状態より、ずっと元気そう。「目で字を追って会話をするんです」と心身共に尽す奥さまの説明を聞き、その場の様子で、きっと快復遂げるにちがいないと私の胸の中は熱くなっていた。―リハビリ付きそい経験者の勘でピンときたのだ。

この度、そんな木村さんが本を出す運びとなった。広告業界の複雑な様子が細かく書かれてあり、どんでん返しのように一人の女性を浮き立たせた。
よくぞ、細かに観察なさいましたね。
ご不自由な身で前むきに生きる木村さん。貴方はこの『A戦場のマリア』のように、何ごとにもギッシリつまった能力を持ち合わせているのだと改めて感心させられました。
ご両親、特にお母様のことを書かれた「海に咲いた二輪草」、親孝行出来ましたね。
今、障害を持つ人、落ち込んでいる人たちのお手本となる作品。世間に広めて、力づけてあげたい、と、本文とその持つエネルギーに感服し、拍手をいっぱい送ります。
奥さま、出版社の皆さまのお力添えに心より感謝し、私は良き友、木村さんに巡り会えお付き合いがつづいていることに、なき夫の恵みとも思っているほど幸せを感じます。
木村さんを思うと笑うことばかりなんです。人生精いっぱい面白、おかしく生きている人ですね。
心のまま鉛筆が走ってしまい、駄洒落のような文となりました。
おめでとう! の言葉で〆くくらせて頂きます。本当に嬉しいおめでとうを申し上げます。

体が動かなくても 言葉が出なくても
頭の中のものは表わせる 文章も作れる
ご不自由な方たち 落ち込んでいる人たち
この本を読んでご自分を見直し
元気を出して下さい
倒れても努力の人、の実証です
世界中の人に報らせたい本書であります

                                   海老名 香葉子

著者プロフィール

木村花道  (キムラハナミチ)  (

1949年、北海道浜益村(現・石狩市浜益区)生まれ。
テレビ局のデザイナーを経て、大手広告代理店に勤務ののち独立して広告代理店経営や業界新聞を立ち上げる。
その後小説の執筆にとりかかり、本書がデビュー作。

上記内容は本書刊行時のものです。