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努力する人間になってはいけない
学校と仕事と社会の新人論
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2013年9月
- 書店発売日
- 2013年9月2日
- 登録日
- 2013年8月13日
- 最終更新日
- 2014年5月15日
書評掲載情報
2013-12-15 |
東京新聞/中日新聞
評者: 鷲田小彌太(思想家) |
2013-10-20 | 朝日新聞 |
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紹介
哲学者であり、教育者でもある芦田宏直先生が2001年以来書き続けてきたブログ記事や、専門学校校長時代の式辞、2010年の講演録などを大幅に加筆・修正してまとめたものです。「教育とは<新人>の産出・発見」という筆者は、若者に勉強や仕事の本質をわかりやすく説く一方で、個性重視の教育や、「キャリア教育」「コミュニケーション教育」に力を入れる教育の現状を鋭く批判します。さらに、読み進むにつれて内容は深みを増し、現代に蔓延する「機能主義」の問題点、独自の視点で見たツイッター論、ハイデガーの説を解釈した「新人論」まで、読む者を「知」の世界にいざないます。
仕事や勉強への心構えが変わる提言から、思わずホロリとするいい話、理解できそうでできない頭の中をひっかきまわされるような内容まで、何度も読み返したくなる、中身がぎっしり詰まった1冊です。
目次
まえがきにかえて―「話体表出の方法」について
第1章 努力する人間になってはいけない
―― これから社会人になるあなたたちへ
■努力する人間になってはいけない
■イノセントであってはならない
■単純な仕事にほど差異がある
■マーケットは会社の〈外部〉にあるわけではない
■〈顧客満足〉とは何か
第2章 掛け算の思考 割り算の思考
―― これから勉強を始めるあなたたちへ
■自立してはいけない
■掛け算の思考、割り算の思考
■読書〈初級〉〈中級〉〈上級〉
第3章就職活動への檄20箇条
―― 大きな企業が有利な本当の理由
■「一流」とは何か
■就職活動、出陣の言葉―― できるだけ大きな企業を目指しなさい
■就職活動開始の学生諸君に贈る「就職活動への檄20箇条」
■八王子・大学セミナーハウスの青春
―― 進路とは進路を考えなくても済む専門性を身につけること
第4章「読書」とは何か
―― 本を読める人はわからないことを恐れない人
■読書の方法と無方法―― なぜ読めないのか
■テキストを読むとは、何を意味するのか
―― 福沢諭吉『独立のすすめ』感想文コンクールの審査結果が発表されました
■「コピペ」は本当に悪いことなのか
―― NHK「クローズアップ現代」の視点は不毛
第5章 家族は「社会の基本単位」ではない
―― 家族の社会性と反社会性について
■小田急線の少年に出会う
―― 大人と子供との出会いがこんなにも楽しいなんて(春は近い)
■予備校営業が突然家にやってきた―― リビングの家族の顛末
■老兵は消え去るのみ―― 息子の太郎がわが家を巣立つ
■散髪屋にて―― 勤労感謝の日を祝して
第6章 なぜ、人を殺してはいけないのか
―― 愛の自由と出生の受動性
■なぜ人を殺してはいけないのか―― 一つの〈責任〉論
■人間の病気は、機械の故障と同じではない
■コミュニケーションは沈黙の中にある
■女性とは何か―― 女性にとって男性とは何か
第7章 学校教育の意味とは何か
―― 中曽根臨教審思想から遠く離れて(個性・自主性教育はいかに間違ったのか)
■学生は〈顧客〉か――〈学校教育〉とは何か
■学校教育と生涯学習と家族と
―― 中曽根臨教審思想の呪縛(学ぶことの主体とは何か)
■〈シラバス〉はなぜ機能しないのか―― 大綱化運動の経緯と顛末
■大学全入時代におけるカリキュラムとは何か(インタビュアー・田村耕太郎)
第8章キャリア教育の諸問題について
―― 学校教育におけるキャリア教育とは何か(ハイパー・メリトクラシー教育批判)
■接遇=コミュニケーション能力と専門教育と
―― キャリア教育は本来の学校教育を衰退させる
■大学における「キャリア教育」の行方
―― 就職センターの充実する大学はカリキュラム改革に向かわない
■なぜ専門学校は「コミュニケーション能力」に走るのか
―― 技能教育と技術教育とハイパー・メリトクラシーと
第9章ツイッター微分論
―― 機能主義批判と新人論と
■気仙沼はどうなっているのか… ――「港町ブルース」と大震災
■機能主義とメディアの現在―― 学校と仕事と社会の新人論(講演)
1 機能主義とは何か
2 機能主義の蹉跌
3 環境とは、後からやってくるもの
4 データベースと後悔
5 近代の問題
6 ツイッターにおける自由と平等
7 ツイッターにおける検索主義の解消
8 1990年代中盤から始まったオンライン自己現象
9 消費社会における知識のあり方
10 IT社会(高度情報化社会)と「オンライン自己 」
11 ツイッターの〈現在〉の限界とポストモダン
12 〈新人〉の発掘としての学校教育 ―― ハイデガーのエネルゲイア論と大学
第10章 追悼・吉本隆明
―― 機能主義批判としての言語の〈像〉概念
■吉本隆明、NHK出演その後
―― 自己表出の「沈黙」は唯物論的であることについて
■「検索バカ」と「自己表出」の反ファンクショナリズムについて
■追悼・吉本隆明
あとがきにかえて ―― キャリア教育と高等教育のグランドデザインについて
著作・作品・その他の索引
人名索引
欧語索引(ABC順)
索引(五十音順)
前書きなど
まえがきにかえて――「話体表出の方法」について
「先生、先生」と言われ続けて何十年にもなる。そうすると「先生」は大体がバカになる。先生がバカになるのにはわかりきった理由がある。自分より少しはバカな人(学生たち)を相手に教え続けるからだ。だからバカな人はどんどん賢くなっていくけれど、自分自身はバカなままにとどまる。社会人なら「お前はアホか」と言われ続ける20代、30代でも、「先生」と言われ続けるのだから、おかしな大人になるに決まっている。そうして自分のバカが学生にばれそうになったときに、選択科目は半期で変わり、担当学年が変わり、入学生と卒業生が変わり、学生は消えていく。先生のプレゼンスは長くても4年もてばいいわけだ。先生のバカはそうやって二重に守られている。
百歩譲って、"教え方"はどんどん賢くなっていくと言ったところで、知っている内容が変わらない点では一緒のことだ。「教え方が変わることによって教える内容も変わる」ともっともそうなことを言う人もいるが、それは"教え方"という言葉の乱用にすぎない。「教育」というのは、"教え方"の研究― 文科省は「教育研究」という便利な言葉をよく使うが― でもって教える内容を棚に上げるシステムだと思った方がいい。「先生」と言われる以上は、それくらいの恥を覚悟しないと。
千歩譲って、「先生」の相手は学会に集う研究者たちであってバカな人(学生)ではないと言っても、日本ムラのような学会で論文業績を作ることは、大学全入時代の学生を人材として育てるより遥かに簡単なことだ。もっとも私の経験では、〈教育〉に関心のない教員より、〈研究〉に関心のない教員の方が遥かに教育力がない。百歩譲っても千歩譲っても、しかしいずれにしても「先生」は変わらない。
昔、トロツキーは、「ロシア共産党はすべてを変えたが唯一変わらなかったものは、そのロシア共産党自身だ」と言ったことがある(埴谷雄高は何度もこの言葉を紹介していた)。前衛主義や啓蒙主義が破綻するのは、自分が考えていることについていつも「知ったかぶり」をするからである。
前衛主義や啓蒙主義の本性はいつも軽薄で保守的なものにすぎない。映画「ミッドナイト・イン・パリ」に出てくる大学教授やアメリカ文化もそれと似たところがあるのかもしれない。
ラテン語の格言でDocendo discimus(ドケンドーディスキムス)という言葉がある。「教えることによって学ぶ」という意味だが、これはくだらない『学び合い』教育とは何の関係もない。いつでもどこでも最高判断、最高認識が露呈する仕方で学ぶ者に接しなさいということだ。学ぶ者の程度を考えることは教える者自身の堕落に他ならない。留保なく教えることができるときにこそ、〈教育〉と〈研究〉は重なることが可能になる。そもそも学ぶ者の程度を選ばないためにこそ専門性探求は存在するのではなかったのか。できない研究者ほど、学ぶ者(の程度)を選びたがる。そんなに偏差値の低い学生が嫌いなら、偏差値の高い大学へ行けばいいじゃないかと言いたくなるくらいに。
「教えることによって学ぶ」とは、教えることによって自分を空っぽにするほどまでに最高判断で語りなさい、教える者自身が一から学び直さなくてはならないまでに学びなさい=教えなさいということだ。
私が大学の最初の教壇に立ったのは400名の受講者のいる階段教室だったが、一コマ目で話すことが尽きてしまったことがある。そのとき私は、10年以上哲学(ハイデガー・フッサール、および現代思想)の勉強に集中してきた私のストックの貧弱さに自己嫌悪しきりだった。10年はたかが10年でしかなかったわけだ。「有益な」情報が学生であってもすぐに手に入る昨今の状況では、当時の10年はいまの1年。だからいまの大学の教壇に立つには100年はかかるということだ。田辺元でさえ、講義の曜日の2日前から毎週面会謝絶だったらしいから、100年も決して大げさな話ではない。
トークというのは、研究者にとって通俗の極みのようなところがあるが(そんなものは政治家にでも任せればいいというように)、ときとして書き言葉よりは遥かに圧縮率が高いことがある。500枚の論文の内容も90分のトークで語り尽くせることがあるように。書き言葉はストックを積み重ねてどんどん観念的、体系的になってしまうが、トークは一言で認識を地べたに引きずり落とすことがあるのだ。若輩者の私にとってストックが足りないのはもちろんのことだが、トークの解体力というのはとてつもなく私自身の「学ぶ」姿勢を揺さぶり続けたと言える。
ところで、この本の諸々の記事は2001年以来書き続けてきたブログと式辞・講演録からなっている。「ブログ」と言っても半分以上は仕事関連の記事だ。だからブログ本という趣とは少し異なる。それには理由がある。
もともとブログを始めたのは、1995年に私が学内にロータスノーツを入れたことが機縁になった。学生すべて+教職員すべてをノーツクライアントにしたのが1995年だから、全国の(大学を含めた)学校の中ではグループウェア導入の最初の組織的事例だったと思う。まだ高速LAN規格も決まっておらず、「イントラネット」という言葉がやっと出回り始めた頃の話だ(当時ITOKI などは「内部インターネット」という言い方をしていた)。1995年に全教室定員数の「情報コンセント」(懐かしい言葉!)が存在しているというのも日本で最初の校舎設計だったと思う。サーバーですべての授業のシラバス・コマシラバス、および教材テキストを管理したかったのだが、当時テキストデータベースとしてはノーツが最良のものだった(全記事、全文フルテキスト検索ができるものは当時ノーツしかなかった)。
そのノーツの全学掲示板に、グループウェア活性化の演出も含めて日々書き込んでいたが、まだグループウェア掲示板に何を書き込めばいいのかわからない教職員から、「芦田さんの書き込みは管理職のくせに私事が多すぎて公私混同している」という風評が出回り始めた(いまなら笑い事で済ませられるが)。その風評は大学時代の恩師の追悼記事を書き込んだときに頂点に達した。ネット時代の"公私"とはなかなか難しいものだというのがそのときの私の印象だった。それはいまでも何も解決していない。
ツイッターのように秒刻みで私事を"公表"するメディアが登場しているいま、その問題はもっと複雑なものになっている。論文にも教育にも関心のない暇な大学教授や仕事の少ない小企業の社長が空虚な"オフィスアワー"で"公"を交えてツイートするのもいまでは慣例に近いものとなりつつある。現代の掲示板とも言えるツイッターでは公私共々偽装する傾向があるが、それは意識的なものばかりではない。旧来の公私の概念が崩壊しつつあるということだ。
そういった事態の萌芽とも言える掲示板騒動を10年以上前に経験して、私は学内掲示板への記事アップを当分差し控えることにした。その結果が私のブログ『芦田の毎日』だった。それもあって、私のブログはほとんどすべてのものが仕事場の諸問題に関わって形成されたものとも言える。単なる学内掲示にとどまらなかったという意味では、内閉的になりがちな「学内」文章も少しはまともなものになったのかもしれない。
ブログで私が確かめようとしたのは、トークと書き言葉、私的な文体と公的な文体との接点だった。「公的な」とここで私が言うのは、20代~40代前半までの〈哲学〉学究時代の「論文」、ストックの文体のことだ(一部は拙著『書物の時間』にまとめられている)。私の仕事をいまでも支えているのはほとんどすべてこの時期に形成された思考だが、哲学論文の概念思考ばかりでは40代、50代以降の組織の思考を形成することはなかなか難しい。それは会社組織はもちろんのこと、大学を含めた〈学校〉組織でも同じことだった。
学究上の論文は長い溜めを待ってくれるが(最近ではそうとも言えず一年単位で論文業績を求められる即
席ラーメンのような論文が増えているが)、組織文書では日常的に巻き起こる案件に引きずられた文体を
強いられる。孤高を保つか、疲弊し続けるか。それとも両者の限界を同時に乗り越えることができるような文体を形成するか、そんなことが本当にできるのか、それが、私がブログに込めた思いだった。
昨年亡くなった吉本隆明は、中期以前の太宰治の文体を評して〈構成的な話体〉と言ったことがある。「太宰のばあい自己の〈私〉意識の解体が意識されればされるほど話体表現は風化や横すべりに走らずにかえって構成的になるという逆説がはじめて成立した」(『言語にとって美とはなにか』)というものだ。あと一歩外れると通俗に堕してしまう太宰の文体の彩をこんなふうにえぐった評論に当時高校生の私は衝撃を受けたが、その本来の意味については長い間わからないままだった。
インプットとアウトプットとが同時に生じるネットの文章を書き続けていると、吉本が〈表現転移論〉でやろうとしたことの意味がよくわかる。フロー(話体)に文体がずーっと晒され続けるからだ。これは読者の多少を問わない。書き手の質も問題ではない。まさに話体を構成的に形成できるかどうかに関わっている。ネットの書き手はいつでも「風化や横すべり」に晒されている。
特にブログは制限のない長文というフローを出現させたし、ツイッターでは開き直った短文が大手を振って公共化された。「3・11では大いに役立った」「無名の者が一気に多数を獲得できるまったく新しいメディア」というように。吉本が(太宰を)芥川よりも重要だとまで言って、守ろうとした文体の質 ― 「話体表出の方法」と吉本は言っていたが ― はどこへ行ったのだろう。
この本の文体が、概念展開でもない、講演・講義録でもない、そしてブログの文体でもないとすれば、「話体表出の方法」に私が少しはこだわったからかもしれない。
もちろん「話体表出の方法」というのは、吉本が言語の〈像〉、「大衆の原像」(を知識の課題の中に「繰り込む」)と呼んだものに関わっており、彼のキー概念である指示表出と自己表出との交点の課題でもある。私が少しくらいこだわったところで思いが叶うものではないことは私自身が一番わかっている。
一方で「話体表出の方法」にこだわった吉本がいる。一方で秒刻みに根こそぎ「話体表出の方法」を解体するツイッター現象 ― 一つ一つの秒刻みの「つぶやき」にまでアドレスが存在するという情報化 ― が存在している。私の試み自体はどんなに脆弱でも、この事情がどうなっているのかに関心を持たないわけにはいかない。
私がこの本をまとめる気になった動機はそんなところだが、ヘーゲルは、前書き(Vorrede)はもともと余分なものだと何度も繰り返していた。動機は〈本文〉の中にこそあるからだ。本文から離れた動機など存在しない。前書きなどはほとんどウソかもしれない。確かにそうだが、しかし、ヘーゲルほど序文が好きな哲学者はいなかった。ドイツ本国では『ヘーゲル序文集』という本まで出ているくらいだ。
前書きは、出版社や編集者から言えば読者と本文とをつなぐ架け橋なのだろうが、自分で架け橋を作る著者というのもおかしなものだ。架け橋自体も〈本文〉の役目だろうからである。それに前書きだけで、前書きを読んだからこそ、そこで〈本文〉へと進むのを止める読者も多いに違いない。そうなると架け橋もまた、単なる本の体裁にすぎない。結局、どんなに理屈をつけても前書きが存在する理由などない。
「でもねぇ」と言う著者がそこにいる。終わったときにこそ、人は何か一言言いたくなるものだ。
終えたいという気持ちと続けたいという気持ちの表れが、前書きへと人を浮力のように誘う。生きることの余分、生死の余分のように前書きが存在している。ヘーゲルのように体系的な美を求めた哲学者でさえそうだった。よーく考えてみれば、吉本の言った「話体表出の方法」とは〈体系〉に出入りする過剰 ― ハイデガーの言う「傍ら」(an)にあるものとしての予感(Ahnen) ― を組織することだったのかもしれない。そのことにこの本が成功しているかどうかは、私よりほとんどの人が若いであろうこの本の読者たちに委ねるしかない。
2013年3月18日 東京品川・桜芽吹く御殿山にて 芦田宏直
版元から一言
ツイッター界のジャイアン(jai_an)こと芦田宏直先生の待望の新刊。「努力してはいけない?」「自立してはいけない?」「キャリア教育は有害?」「個性重視の教育は間違い?」本書の中には思わず反発したくなるような言葉がずらり。でも、中身を読めば、その深い意味に、常識に凝り固まった頭がほぐれていきます。
東京・中日新聞・北海道新聞、中国新聞、日経エンタテインメント、クーリエジャポン、週刊読書人、月刊ジェイ・ノベルなどでも紹介してもらいました。
上記内容は本書刊行時のものです。