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ブッダに学ぶ 聖者の世界
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2022年6月8日
- 書店発売日
- 2022年5月25日
- 登録日
- 2022年4月5日
- 最終更新日
- 2022年5月25日
紹介
悟った人のみが到達するという「聖(アリヤ)」の境地。ブッダが体現し、初めてこの世に示したこの「聖者の世界」は、俗世間の「ものさし」で測ることができない。本書は、現象への執着によって成り立つ世俗の価値では表現不可能な聖者の心のありかたを、多くの身近なたとえ話、そして原始仏典「スッタニパータ」の平易な解説などによって解き明かす。初期仏教の伝道者、アルボムッレ・スマナサーラ長老が、「すべての矛盾、束縛から解き放たれた世界」に読者を案内する画期的な仏教入門書。
目次
はじめに――聖の見方
第1章 聖と俗のボーダーライン――初期経典に学ぶ「聖なる世界」
1 聖と俗を分かつもの――知識から智慧へ
2 俗世間の「知識」を分析する
3 出世間の「智慧」を分析する
4 俗世間の「学び」と仏教の「学び」
5 「根本法門経」が説く聖者の「学び」
6 聖なる世界への入り方
7 聖なる道の歩み方
8 パーリ経典から読み解く「聖なる世界」
Q&A 法話後の参加者との対話から
第2章 聖者の生き方――『スッタニパータ』「牟尼経」を読む
1 「牟尼経」とは
2 聖者には「関係」がない
3 こころに煩悩を栽培しない
4 こころに生じるイベントを管理する
5 一切の「生まれ」に興味を抱かない
6 「すべて」を乗り越えている
7 こころはいつもサマーディ状態
8 怠ることなく独り歩む
9 煩悩を消し去った境地とは
Q&A 法話後の参加者との対話から
第3章 聖者への道――『スッタニパータ』「悪意についての八つの詩句」を読む
1 「悪意についての八つの詩句」とは
2 聖者は議論に参加しない
3 聖者には「好み」がない
4 聖者は自己アピールをしない
5 聖者に一人称はない
6 聖者の安穏は絶対に揺らがない
7 聖者はバイアスを乗り越える
8 聖者のこころは妄想を洗い流す
9 聖者はあらゆる見解を洗い流す
Q&A 法話後の参加者との対話から
祝福の偈
前書きなど
はじめに――聖の見方
「聖」という単語は、仏教の世界でとても重要視されています。仏教には「四諦」「八正道」と呼ばれる根本の教えがあります。その教えを原語から直訳すると「四聖諦」「聖なる八支の道」になるのです。日本語でも悟りに達した方々を「聖者」と呼びます。仏教宗派の中では偉大なる宗祖を「聖人」と称える場合もあります。大和言葉でも聖の字に「ひじり」の訓を当てていたりしますね。
仏教で使われる「聖」という単語は、古代インドの雅語であるサンスクリット語の「アーリヤ」を漢訳したものです。パーリ語(初期仏教の聖典語)の「アリヤ」も同系統です。紀元前一五〇〇年頃に中央アジアからインド亜大陸に侵入した民族が、自分たちをアーリヤ(高貴な人々)と称して、支配下に置いた先住民たちを差別したことに由来します。そのインドがイギリスなどの植民地になった時代、ちょうど比較言語学の発展によって「インド・アーリヤ語族」という概念が生まれました。ヨーロッパに暮らすさまざまな民族は中央アジアに由来するアーリヤ人の言語的なルーツを引き継いでいるとわかったのです。
そうした言語学の発見が特定の民族を高貴(アーリヤ)とする人種理論として曲解され、「アーリヤ人の子孫たる我々が他の劣った民族を支配すべき」という差別イデオロギーとなって世界中で猛威を振るった悲劇は、歴史の教訓としてよく知られています。
そのような背景を踏まえると、「なぜお釈迦さまはアーリヤ=アリヤという言葉を自らの教えの中心に据えたのか?」という問いが現れるのです。その謎解きは本文に譲りますが、ここでも概略を説明しておきたいと思います。
簡潔に述べるならば、ブッダ(目覚めた方)となられたお釈迦さまは、古代インドで人々を差別し抑圧する目的で使われていたアーリヤ=アリヤという言葉の意味を大胆に転換してみせたのです。この世界の矛盾から完全に解き放たれ、一切の束縛を離れ文字通りの自由・無執着を体得した人、そしてその人の精神的境地を表す言葉としてアーリヤ=アリヤを定義し直したのです。この「聖」に達するためには、その人がどんな家に生まれ、どんな血筋を持ち、どんな民族・宗教・文化・生活習慣を持っているか、あるいは男なのか女なのか、若者なのか年寄りなのか、いわゆる障害者なのか健常者なのか、といった肉体の違い、社会的なバックグラウンドの違いは一切無効化され、まったく問われません。ただ自分自身が良き人間になりたいと願い、人格を向上したいと願い、生きとし生けるものと調和して生きられる心を育てたいと願い、あらゆる束縛を離れた完全に自由な精神を体得したいと願うならば、その人に「聖」の道は開かれるのだと、釈迦牟尼仏陀は説いたのです。
ブッダが体現し、この世界に紹介した「聖」の境地は、俗世間の「ものさし」で測ることができないものです。現象への執着によって成り立つ世俗の価値によっては計測不能・表現不能なのが、聖者であり聖者の心だとされるのです。先ほど触れた四諦八正道に代表されるように、「聖」に達するための修行方法、「聖」に達するために理解すべきものの見方についてならば、お釈迦さまは繰り返しさまざまなアプローチで教えて下さっています。しかし、「聖」そのものについては、経典のなかでも「炎(煩悩)が吹き消されている」「〈わたし〉という実感が無くなっている」などと、否定形で語られるだけなのです。その計り知れない、語り得ないことがらについて、言語のぎりぎりのところで表現された仏説を理解するためのポイントを、この本の中で説明してみました。
この本には、私が日本テーラワーダ仏教協会の月刊機関誌『パティパダー』に連載した長編の法話が三編、収録されています。一般の方向けに開催していた初期仏教月例講演会、そしてヴィパッサナー瞑想を本格的に実践する方々向けに企画された宿泊瞑想会での原始仏典「スッタニパータ」に関する講話、それからコロナ禍で行動制限を余儀なくされている方々のために企画したYouTubeライブ配信で『スッタニパータ』の一節を取り上げた法話です。それぞれ異なる対象の方々に向けて話した内容ですが、それを協会の編集局長である佐藤哲朗さんと一緒に協会会員向けの法話記事としてまとめて発表してきました。
私は一回した法話については話し終えた時点でその内容をすべて忘れてしまいます。完全に脳を空っぽにして新しいアイデアが生まれるようにしているのです。ですから過去の法話について振り返って解説するという、他の著者であれば当たり前のことが私にとってはとても苦しく難しい行為になっています。佐藤哲朗さんがアルター・プレスの内田恵三さんたちと一緒に新刊企画を話し合うなかで、「この三編の法話を改めて読むと内容に一貫性があるので、ぜひ一冊にまとめてみたい」というリクエストを頂いたのです。
元々の法話は誰が聞いてもいいような形で語られています。仏教団体の機関誌での連載といっても、誰が読んでもいいものです。しかし、やはり内容には多少専門的で、よくよく仏教を学んでいないとわかりづらいところもあったのではないかと思います。そのような難点について、『パティパダー』の連載原稿をもとにして編集者の古川順弘さんがとても滑らかにわかりやすい形にまとめなおしてくださいました。
ご存知のように、出版はますますリスクが高く、献身的な気持ちなしには成り立たない、割に合わない事業になっています。特に「ちょっとしたいい話」というレベルを超えた仏教の本を一般書籍の形で出版することには、大変なご苦労があったのではないかと推察します。本書の刊行に尽力して下さった皆様に感謝いたします。
終わりの見えないコロナ禍で悩み苦しみを抱えて生きる皆様が、ブッダの「聖」なる世界、聖者の清らかな心の境地に触れることで、少しでも心の安らぎを感じてくださるならば、それは望外の幸せです。
皆様に三宝のご加護がありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
アルボムッレ・スマナサーラ
版元から一言
小社の既刊『ブッダに学ぶ ほんとうの禅語』に続く、スマナサーラ長老によるシリーズ続刊。今回も初期仏教のエッセンスを誰にでもわかりやすく解説する内容で、テーマは「聖人の世界」。「悟った者だけが至る境地」という、一般人には計り知れない、そして言葉では表現することが不可能な世界を、スマナサーラ長老ならではの現代的で身近なたとえ話、そして本来は難解な仏典の要点を押さえた解説によって解き明かします。仏教入門書として、また人生指南の書として、よりよい生き方を希求するすべての読者におすすめできる一冊です。
上記内容は本書刊行時のものです。