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琉球王国は誰がつくったのか
倭寇と交易の時代
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 書店発売日
- 2020年2月1日
- 登録日
- 2019年12月20日
- 最終更新日
- 2020年5月11日
書評掲載情報
2020-03-01 |
読売新聞
朝刊 評者: 加藤聖文(歴史学者・国文学研究資料館准教授) |
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重版情報
2刷 | 出来予定日: 2020-05-11 |
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「読売新聞」での書評、「毎日新聞」の記事などの影響もあり、重版することが出来ました。琉球史の見取り図を大きく変える一冊で、長く参照される本になるはずです。 |
紹介
首里城の王たちは、いったいどこからきたのか?
首里城は、15世紀初頭、尚巴志にはじまる琉球国の王城だった。
農業を基盤とし沖縄島内部で力を蓄えた豪族が、抗争の末に王国を樹立したというのが通説だが、これは真実だろうか? 政情不安定な東アジアの海では、倭寇をはじめ、まつろわぬ者たちがしのぎを削っていた。王国の成立に彼らが深く関わっていたことを多角的なアプローチから立証し、通説を突き崩す新しい琉球史を編み上げる。
目次
はじめに
第一章 グスク時代開始期から琉球国形成へ──通説の批判的検討
一 グスク時代開始期
二 農耕の開始は農耕社会の成立を意味するか
三 グスク時代初期の交易ネットワーク
四 十三世紀後半以降の中国産陶磁器の受容
五 沖縄島社会の変化と交易の活発化
六 琉球の貿易システムの転換──中国との交易の開始
七 琉球を舞台とする私貿易
八 「三山」の実体と覇権争い
九 倭寇の拠点としての「三山」
十 琉球国の形成
第二章 「琉球王国論」とその内面化──『琉球の時代』とその後
一 「琉球王国論」を読む
二 『琉球の時代』が描く歴史像と特徴
三 『琉球の時代』の意図するもの
四 その後の「琉球王国論」の展開
五 「琉球王国論」の内面化
六 仲松・高良論争──琉球王国は存在したか
結びにかえて
【補論①】三山の描写の枠組み
【補論②】『おもろさうし』にみる「日本」の位置づけ
注
引用・参考文献
あとがき
索引
前書きなど
結びにかえて
本書で論じた内容を簡単に振り返ることによって結びとしたい。
第一章では、グスク時代開始期から琉球国の形成にいたる過程について新たな歴史像を提示することに努めてきた。換言すれば、従来の議論の大前提であった「農耕の開始は農耕社会の成立を意味する」という「農耕社会論」を検討し、そこには多くの難点があることを確認したうえで、視点を「交易社会論」に移せばどのような新たな歴史像が見えてくるかを考える試みを行った。
従来から琉球国の形成にいたる過程において、外部からの移住を含む影響がきわめて低く見積もられており、そうした内的発展論による見方では限界があることについて、これまでもしばしば論じてきたが(吉成、二〇一一/二〇一五/二〇一八、吉成・高梨・池田、二〇一五)、それに加えて本書執筆の決定的な後押しになったのは佐敷上グスクの位置づけの問題であった。第一尚氏を樹立し、三山の統一を成し遂げた思紹、尚巴志が当初、拠点としていた佐敷上グスクが本土地域にみられる中世城郭の構造を持ち、かれらの出自が本土地域であると推定されるのである。十四世紀後半以降に、中世城郭をつくった「新参者」が、なぜまたたく間に統一国家を樹立することができたかを考えると、軍事的、政治的な拠点とされる大型グスクの構造化(大規模工事による城壁の造営や基壇建物の建造など)の過程にあったとはいえ、三山と呼ばれる勢力の社会の内部は決して十分な内実をともなったものではなく、その社会の戴く「王」もまた同様の存在だったのではないかという結論に行きつくのである。実際、中山の行政機構は中国の行政府を模倣したもので、王相(国相)などの官僚も中国の皇帝が任命しており、また明による多くの優遇策というテコ入れがなければ、三山の各「王」たちは朝貢主体とはなりえなかったのである。こうした事実は、グスク時代開始期以降、農耕社会が着実に内的発展を遂げ、三山が形成され、やがて国家が成立するという定説を根本的に覆すものであると考えられる。
沖縄島は、農耕のゆるやかな進展はあったとしても、一貫して交易を中心にした社会であった。特に十四世紀半ば以降の沖縄島社会では、在地の交易者はもちろんのこと、倭寇的勢力を含む多くの交易者たちの拠点として、私貿易や朝貢貿易の覇権をめぐる利権争いが繰り広げられていたと考えられるのである。そのように考えれば、朝貢主体が山南から同時にふたり現れたり、中山や山南などで朝貢主体があっけなく交代する「王位簒奪」がたびたびみられることの理由も容易に理解できるように思われる。
明が琉球に対して多くの優遇策をもって対応したのは、元末明初の混乱期に中国沿岸で猖獗をきわめた倭寇勢力を、沖縄島に囲い込むことによって朝貢体制の中に位置づけ、正常な交易者として転化させようとしたためであった。その点を踏まえれば、海禁政策によって渡航できなくなった中国商人の穴埋めとして琉球に肩代わりさせたのは確かだとしても、交易国家としての性格は明の琉球を舞台とする倭寇対策の副産物であったと考えられる。
琉球の倭寇勢力として最も重要な人物は、思紹、尚巴志である。本土出身であり、なおかつ朝貢主体になることもなく、中山王武寧、山北王攀安知を滅ぼすことができたのは、彼らが倭寇的な存在であったからであろう。第一章で論じたように、中山王と山北王を思紹、尚巴志が滅ぼしたのは一四〇六年のことであり、実質的に三山が統一されたのはこの時であったと考えられる。その後も、山南王汪応祖や他魯毎が朝貢を続けていたのは、これらの王たちが、思紹、尚巴志と「身内」(主従の関係など)だったからではないかというのが、本書での考えである。また、攀安知の冊封の時期についても再検討したが、三山の各王の中で、詔書という形式であったものの、最も早く冊封されたのは攀安知であったことはほぼ間違いない。
第二章では、「琉球王国論」がどのようにして成立し、どのように沖縄の人びとの間で受容され、内面化されたかについて検討した。「琉球王国論」とは、古琉球時代の「琉球王国」の存在を必要以上に高く評価する歴史観であり、この歴史観のもとでは多様な史資料が「琉球王国」にいたる直線的な過程に位置づけられてしまい、無効化されてしまう危険がある。佐敷上グスクが本土地域の中世城郭の構造を持つにもかかわらず、琉球型のグスクとの違いが系譜の違いとしてではなく、時代差などに置き換えられて理解されてきたのは、その典型的な例である。また、「琉球王国論」は、琉球の人びとの主体性を過度に重視するために、歴史叙述を内的発展論に強く傾斜させる弊害がある。
本書では「琉球王国論」の画期をなす著作である高良倉吉の『琉球の時代──大いなる歴史像を求めて』を批判的に検討し、ここで描かれている歴史像の大枠が現在にいたるまで継承されている理由を、沖縄海洋博の展示構想、海洋博後の反動不況の対策として電通が打ち出した、沖縄県民を巻き込んだ観光戦略(観光キャンペーン)、『琉球の時代』刊行後にメディアと一体になって展開された「琉球プロジェクト」など、一連の過程を追うことによって明らかにしようとした。
高良倉吉の『琉球の時代』が、沖縄の人びとに、活気に満ち、生き生きとした古琉球の歴史を提示し、かれらを強く勇気づけたことは、疑いもなく確かであろう。しかし、『琉球の時代』の刊行からおよそ四十年が経過し、人びとに憑依した「物語」の呪縛を解放する史資料が準備されているにもかかわらず、十分に生かされていないように思われるのである。
版元から一言
2019年の火災で焼失してしまった首里城は1992年に再建されたものですが、この再建の契機となったのが「琉球王国論」と呼ばれる一連の歴史研究の成果でした。首里城の姿がそうであったように、「琉球王国論」も、研究上だけでなく、沖縄のアイデンティティーの基部となり、今なお大きな存在感をもち続けています。本書では、その「琉球王国論」を近年の考古学の成果などから再検証し、「琉球王国論」のくびきをはずすと、どのような歴史像(王国成立の前段階)が描けるかを試みたものです。首里城の再建は沖縄文化の復興でもあると思います。迂遠な方法ですが、琉球王国の成立を考える本書が、その文化的な一助になることを祈っています。
上記内容は本書刊行時のものです。