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バルカン幻影
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2020年7月31日
- 書店発売日
- 2020年8月10日
- 登録日
- 2020年7月7日
- 最終更新日
- 2020年7月27日
紹介
私には旅が効く――スケッチブックとリュックひとつで、強烈な光のなか、ちょっと陰りのある街を旅してきた。おんな一人の異境の旅は、大胆でスリリングな世界との出会い。ロシア、チェコ、オーストリア、ボスニア、モンテネグロ、北マケドニア、スペイン。7カ国を訪れ、スケッチを描き、様々な人、物、風景との出会いを綴った画文集。
目次
バルカンの国々へ
白夜の国
サンクトペテルブルグ
ボヘミアにて
モスタルの橋
コトル散策
マッケドーニャ! マダム!
モーツァルト詣で
アンダルシアへ
ミハスにて
ビューティールーム
サン・セバスチャン通り
旅とスケッチ――あとがきにかえて
前書きなど
旅とスケッチ――あとがきにかえて
(略)
海外をスケッチしながら自由な旅をするようになったきっかけは、二人の子どもがそれぞれ就職と大学に巣立った事だった。
ひとまず、ポルトガル縦断四十日。細長く小さな国だし、北のヴィアナ・ド・カステロには兄が住んでいて、拠点にもでき、なにかと心強く、気持ちを楽にしていた。
荷物はリュック一つで動きやすいようにした。
ヨーロッパの道路は石畳が多く、スーツケースではガタゴトとして動きにくく、バスや列車に乗る時も、乗り場やプラットホームなどがない所も多いので、道路や線路から直接、入口の取っ手を両手で握ってタラップを上がり乗り込まなければならない。そんな時はリュックが便利で、旅のスタイルは、この後もずっとバックパッカーだった。
ポルトガルは、静かで美しい国、悪い人など一人もいないと感じられる、そんな国を一人旅のはじめに選んだのはツイていたと思う。
数年後に旅したのは、その隣の国スペインで、ポルトガルとの風土、明るさも違いがなく、言葉もよく似ている。訪れた「サンチャゴ(聖ヤコブ)巡礼」の地は、千年の歴史が今も続いていて、フランスやスペイン各地からサンチャゴ詣でに来る人々のための宿、病院、教会、橋などロマネスクの建築や絵画を見たり描いたりするのは、一人、至福の時間だった。
また、数年後にはイタリアへと、ポルトガルの縁でラテン系の国が続いた。ラテン語系の言葉は、歯切れの良い巻き舌がリズミカルで心地よく、私には親しみがある。
イタリアを三ヶ月で巡った時は、絵描きの友だちと二人旅だった。二人もいい。
イタリアは観光大国だから、どんな町にも公共の案内所があり、そこでその町の観光地図をもらい、ホテル予約もしてもらえるが、ホテルについては見てから決める事にしていて、リュックを案内所に預かってもらい、手ぶらで観光しながらホテルを探した。
(略)
ちなみに、いつの旅行も一日の経費を大まかに決めていた。ホテルは必要経費だから、例えばポルトガル一泊二千円、スペイン二千五百円、イタリア三千五百円と決めていて、ホテル代がそれより安くついたら、何かおいしいものを食べようと決めていた。食費の方が宿泊代より高くついた時もあるが、食費を押さえたい時は、中華料理店の「焼きそば」にした。
二十年前、ローマでスパゲティは七百円したが、近くの中華料理店で食べた焼きそばは六百円で、麺はパスタを使っていた。
北スペインのピレネー山脈の麓の小さな村でも、ハバナでも、ブエノスアイレスでも「焼きそば」を食べた。味に当たりはずれがなく、美味しいのだ。
旅に出る度に華僑の凄さを感じる。中国人はどこにでもいて、その国の文化を取り入れながら、しっかりと自分たち民族の場所を確保し広げ、一族を増やしていく。
ハバナの中華街で食事をしている時、映画でしか見た事がない、弁髪姿のおじいさんが横を通って行った。
小さくて痩せた体で背すじを伸ばし、白く長いあごひげ、頭のてっぺんを剃り、後頭部の髪を切らずに伸ばしたまま三つ編みにして、それも髪の量がないのでひも状に見えたが、背中あたりまでふらふらゆれていた。
中華民国のころに弁髪禁止令が出て百年は経つが、遠いキューバの地では、独自の中国文化が残っているのだろうか。
二〇〇一年に、トルコのイスタンブールからギリシャ一周のビザンティンの旅をしようと、一緒に行く中学の時の友だちと行き方を考えた。
このころは大手の旅行会社が扱う正規の航空チケットに対して、かなり安く手に入る格安チケットがあった。
日本は、海に囲まれている弱みで、飛行機代が高い。例えばイスタンブールからギリシャに行く場合、陸続きだから歩いても国境を通過出来るし、バスでも行けるし、飛行機でも行けるから飛行機代は安い。
格安チケットの仕組みはよく分からないが、外国の飛行機を使い、その空席や予約キャンセルの席を探して手に入れるようなものだと思うから、まず、日本から目的地への直行便はあり得ない。なのに、一回だけ直行便を利用した事がある。
そのころ運良く、トルコ航空の東京⇄イスタンブール直行便が就航、記念キャンペーンとしてツーフライト無料というのを見つけた。ツーフライトというのはトルコ国内だけかと思っていたら、世界中どこでもいいというので、イスタンブール発クロアチア往復をタダで行ってきた。
付け足しのクロアチア二週間は大当たりだった。
紛争終結後十年は経っていたが、細長い国の東側内陸部はまだ地雷除去が終わっておらず、あちこちに入場禁止の立て札や国連の「UN」と書かれた迷彩色の車が停まっているのを見た。一方、西側のアドリア海沿いの町々は、太陽がいっぱいで、自然や歴史的な建築物がそのままの形で残っていて、美しく輝いていた。
二人旅といっても、日中はほとんど別行動。スケッチしたり、どこかへ行ったり、ケータイのない時代だったから、約束の夕食の時にはお互い今日の出来事を報告し合い、よくしゃべった。
本来の目的であるギリシャ一周だが、イスタンブールからバスでギリシャに入った最初の町は、ここが中学の世界史で習う筆頭の「ギリシャ」とはとても思えない、権威も誇りも感じない、ただのヨーロッパの田舎だった。だが、次の町テッサロニキに着いた時には、今まで見た事もない都市の姿に混乱した。
過去と現在とが平然と同居している。
テッサロニキは大きな都市だが、旧市街の中心に、ちょうど隕石でも落ちた跡のように、その土地だけ三メートル程低く平らになっていて、古い赤レンガの教会が道路から見下ろす中央の位置にあった。信者が道路の階段を降りて祈りに行く姿を見た。
ルーマニアの首都ブカレストでも同じような教会を見た事がある。教会の大きさも形も似ていたが、まるで深い穴の中に使われていない教会がはまっている感じだった。
土の下から遺跡が発見されるように、人は道を作ったり、都市を整えたりする度に、土を盛り上げ、地面を高く高く変えていく。
この教会も数百年前には道路よりも高かったのではないだろうか。
かと思えば何の壁か分からない幅一メートルはある石の壁が両端が崩れたまま、お店などの間に残されていたり、昔は公共の建物だったと思われる円形のビザンティン様式の建造物が道路を塞いで置き去りにされていた。それは遺跡として残されているようでもなく、町作りに除去するようでもない。
この町には、アリストテレス大学など有名大学が多い。オープンカフェで本を読んでいる学生たちは皆、利口そうに見え、過去の中で平然と生きているように見えた。
びっくりしたのは、町外れの林の中にある「ビザンティン博物館」で、入館者は数人しかいなかったのに、内容はビザンティン文化の宝の山だった事だ。
町の形にまとまりはないが、面白い所だった。
*
旅に出る前に知人からよく尋ねられる事は「治安はどうなの?」だ。
知らない国に行くので治安のことも分からないのだが、いつも思うことは、国の形や顔つきが違っても人は皆、私と同じように食べたり眠ったり、何かを考えたりして生きている普通の人が大半だろう、という事だ。
確かに日本にも外国にもスリやひったくりはいる。
六年前に行ったアルゼンチンでは、道を歩いていて、私を追い越しながら「肩に鳥のフンが付いてるよ」と男に言われた。「この公園の奥に水道があるから汚れを取ったら?」と教えてくれたので、私は樹木の多い公園の奥に入って行ったが、男が後ろからついてきたので、急いで通りに戻った事がある。
ホテルに戻って旅行雑誌を見ると、マヨネーズをかけておいて上着の汚れを拭き取ってくれながらお金を盗む手口が横行している、と書いてあった。読んだ時は怖かったが、同時に、あの男は失敗したのか、と思った。
もともと悪いコトをする人は生活がかかっている(と思う)から、観光客の少ない田舎の町などでカモを探す事はなく、空港や美術館、王宮、寺院などの入口や店が続いているような、観光客がぞろぞろとしている所が狙い目で、グループや団体を相手にした方が稼ぎになる。
私は一つの旅毎に一度はそんな悪い人に遭ってきたが、記憶に残るような被害は受けなかった。
そういう運の良さに対して、出発前には、いつも「調子に乗るんじゃないよ」と自分に言い聞かせている。
*
ずっと旅を続けていて、アメリカ大陸には一歩も足を踏み入れていなかったが、キューバ音楽の映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』を観たのがきっかけで、すんなりと旅を決めた。
キューバを訪れる事については、家族などから相当反対されたが、私は以前から、ジャズやソウル、ゴスペルなどのブラックミュージックが好きで、このドキュメンタリー映画に出てくる、街の通りのベンチや港の近くの空き地や線路ぎわでギターの練習をしたり、数人で一緒にハモって曲作りに盛り上がっている人々の姿を見ると、もう、そのような国に全面的に信頼を置くし、悪い人などいないと思ってしまう。
それはハバナの空港に着いてすぐに証明された。
空港ロビーは総ガラスという事もあって、目がくらむ程に眩しい光に溢れていた。全館を流れるラテン音楽のリズムに合わせて近づいてきたホテルの客引きから話を聞き、その中から一つのホテルを選んだ時には、ふられた客引きたちが、どちらかと言えば皆「決まって良かった」という顔をしている。その中の一人は、外のタクシー乗り場まで私の荷物を運んでくれ、ドアを開け、荷物を乗せてくれた。
ホテルの玄関に着いた時、運転手が「タクシー代は払い済みですか」と私に尋ねてきたのには驚いた。空港ではホテル代しか払っていないので、その場でタクシー代を払った。そういえばこの国は、国民全員が公務員だから一律に給料が出るのだ。
私は明るい空や温暖な気候をバックボーンに音楽、美術、スポーツなどを愛するラテン系社会主義の国を充分に楽しんだ。
その時にはメキシコにも足を伸ばして、中央アメリカの感覚も経験したが、六年後にジャカランダの花を求めて南アメリカ大陸を訪れる時には、家族の強い反対はなかった。
メキシコやアルゼンチンを訪れたころから旅のスタイルが変わっていった。
飛行機がメキシコに着くのもブエノスアイレスに着くのも夕方だったし、入国審査などを終えて国に入るころには暗くなっている事が分かっていたので、到着日のホテルは出発前に予約していた。
また、どの旅も到着した都市から帰国するので、その都市を拠点にして、大きめのスーツケースを持参し、その中にいつものリュックを入れていた。スーツケースは拠点のホテルに預かってもらい、メキシコではリュックでモレーリアやグアナフアト一週間の旅をした。
チリに行った時に絶対に壊れないものと思っていたリュックが壊れた。機内預けの時、投げられようが蹴られようが落とされようが、なんともなかった樹脂系の生地で作られた頑丈なリュックが。
チリ行きの飛行機に乗る前、ふと、背中の感触が何か違うのでリュックを降ろしてみると、ファスナーを縫い付けたミシン目が十センチばかり裂けて、中の荷物が隙間から見えていた。
長年使うとこんな壊れ方をするんだ、とそれ以上荷物をつめ込まないよう気をつけていたが、チリのラセレナのホテルに着いた時にはミシン目の破れが大きく開き、手で引っぱってみると全開した。
街に出て飛行機の手荷物サイズに当たるスーツケースを購入し、ホテルに持ち帰った。ファスナーがしっかり閉まったままのリュックの表面の裂け目をひらりと開けて中の荷物を移し替えた。使えなくなったリュックに「ごくろうさま」とお礼を言って、宿の人に捨ててもらうよう渡し、食事に出て、ラセレナの初日が終わった。
この日で私のバックパッカーは終わり、一週間程の旅行でもスーツケースを利用する拠点方式は今も続けている。
*
「写真を撮って、その写真を見て絵を描いたらどうか」と言われることがある。
私には写真を見て描くという発想はない。時間をかけてやって来たあこがれの風景の中に、自分を沈めるのが好きなのだ。
一時間から三時間、そこにいれば風景は自分のものになり、その町の人々との思い出は一生残り、三十年前に描いた絵でも、それが北九州のスケッチだろうと、ポルトガルのスケッチだろうと、今でも同じ場所に立つ事は出来る。
描いてる間に「いくらか」と聞いてくる人がいたり、ケーキ、コーヒーをご馳走してくれる人もいる。話しかけて来た人を通行人として絵の中に描き入れたりもする。
一枚一枚の絵に私だけのドラマがあるので決して忘れることはない。
ただ一度失敗した事がある。三十年前、訪れたスペインの千年前の石橋を描いた絵が気に入らず、帰国してから手を加えた。自宅だから時間は充分あるので、筆を加え過ぎた。出来上がった絵にはスペインのカラッとした空気がなくなり、まるで日本の落ち着いた風景画になってしまった。
この時以来、スケッチはその日仕上げと決め、帰国しても絶対に手を加えない事にしている。だから仕上がってない多くの絵は、思い出を抱いたままずっとスケッチブックの中で眠っている。
二〇二〇年四月
上記内容は本書刊行時のものです。