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石原時計店物語
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2013年11月
- 書店発売日
- 2015年7月27日
- 登録日
- 2015年7月8日
- 最終更新日
- 2015年7月8日
紹介
江戸時代末期、大阪の地に時計司(時計店の意)を開いてから一六〇有余年の歴史を刻んできた石原時計店。
初代石原萬助が文明開化とともに洋時計(従来の和時計に対してこう言われていた)をいち早く扱ったことに始まる創業から今日に至る大阪の一商店の歴史は商家石原家の推移、取り扱った商品、明治大正昭和にかけての時計店の人々の動き、それぞれの時代背景や著者の思い出などをいろいろと取り混ぜてまとめられている
目次を見ていただくと業界のあゆみ、大阪の商工業の歴史が当時の貴重な資料と共に読んでいただけることがわかる。
ポスターなどは当時の雰囲気を感じられるように一部カラーにしている。
目次
はじめに 2
第一章 時計商 事始め 8
創業1846年 11
船場商家の話 17
二代目久之助は京都の村田煙管店から 19
明治初期のキリスト教 21
石原家とキリスト教 23
石原、浅田、村田のつながり 25
コラム 一七〇年前の「天保の改革」と七〇年前の「七(しち)・七禁令(しちきんれい)」 27
和時計から洋時計へ 29
不定時法の時代 29
和時計 30
改暦 31
時計が急速に普及 33
大阪の居留地と文明開化 33
当時、時計などの仕入れは商館から 36
時計が急速に普及する 37
明治10年頃の大阪経済 40
当時の大阪~京都間の交通 42
久之助の南久宝寺店 45
商品録(カタログ)販売の時代 49
資料 南久宝寺店の商品録(カタログ)57
自転車部 225
第二章 心斎橋南詰へ移転 249
商業資本の本場 251
船場 251
島之内と心斎橋 254
コラム 政造の洋行 257
心斎橋石原時計店ビル 260
欧米との時計取引 263
心斎橋店の思い出(昭和の初め頃)269
昭和10年 後半の心斎橋店 272
石原楽器部 273
楽器部の思い出 282
石原写真機部 283
御堂筋拡幅と地下鉄の開通 286
淀屋橋中央ビル 296
時代は戦争へと傾斜 302
ダイヤモンド、宝石の関税は100% 302
物価統制令、いわゆる「七(しち)・七(しち)禁令(きんれい)」 305
戦争始まる 306
クレセント時計工場 308
第三章 ものづくり 掛時計と懐中時計 311
時計商仲間で掛・置時計の製造に乗り出す 313
掛・置時計の生産始まる 316
掛時計生産継続の問題点 317
日本初の懐中時計製造は日米合弁でスタート 大阪財界の決断 320
国産初の懐中時計が誕生 329
重役陣の人脈で積極的に営業活動 330
懐中時計小型化の流行 332
大阪時計製造株式会社の抱えた問題点 335
大阪時計製造株式会社 解散 石原家の個人事業体となる 338
日本初の民間アルミニウム器物工場が発足 340
砲兵工廠との価格差が著しく操業を中止 342
第四章 戦後 販売に重点をおいて展開 345
戦後347
石原家の戦後 石原時計精機工場 348
石原時計店の復活を目指す350
接収解除のそごう百貨店に出店運動 350
新阪神ビル店 352
卸部門開設「アルテミス」30日巻掛時計 354
淀屋橋石原ビル地下一階店舗 355
時計小売店の黄金期はいつまで 356
日本初のオメガ専門店誕生358
シイベル・ヘグナー大阪支店長との出会い 358
オメガ店の営業実態を視察 359
日本初のオメガ専門小売店が誕生 363
日本のデパートは最大、強力な小売店 368
腕時計などの輸入自由化 369
輸入自由化にともなうオメガ社の動き 371
宝飾品取扱いを開始 379
ビルマから宝石を直輸入 国営宝石オークションに参加 379
スイス時計産業の浮沈 386
スイス時計産業の凋落 スイス・フランの高騰 386
セイコー、世界初のクオーツ腕時計を発売 387
オメガとロンジン合併へ 391
日本では、激震は歪んで伝播395
石原時計店 セイコー専門店に 397
心斎橋パルコと石原 勉 399
年譜 401
あとがき 405
前書きなど
あとがき
私が中学生の頃、父から石原で懐中時計をつくっていたというのを聞いたことがある。それは今どこにあるのかと聞いたが、「どこにあるのか知らないし、残っていない」と言われた。その父との会話がいつまでも記憶に残っていた。
戦後、昭和35年(1960)頃だろうか、たまたま山口隆二氏の論文「大阪時計製造株式会社」(国際時計通信 vol.1-6)を読んでいると、曽祖父石原久之助の名前が後半に出てくるので、18年程前の父の話の確証を得た思いをした。しかし、現物の時計があるわけでなく、「歴史」の一齣として記憶にとどまっただけであった。
しかし、その後、戦災に遭わなかった倉庫から、時計と部品それから仕掛商品などが発見された。現金なもので時計の現物を目にすると、時計そのものに対して猛然と興味が沸いてきた。さっそく発見された時計について、個々の時計・製造番号の分類などに取りかかった。
この時計発見よりも以前に、大阪時計製造株式会社の決算報告書、役員会議事録など公的書類が、石原時計精機株式会社(石原進三社長)で発見されている。これは多分、明治35年(1902)解散に際し、会社関係書類を長柄工場から石原家の下へ移管したため、大正4年(1915)の工場火災を免れ、戦災にも遭わず奇跡的に助かったものと思われる。これらの関係書類は、時計産業史の研究において貴重な研究資料といわれ、昭和35年(1960)に山口隆二氏、昭和54年(1979)に内田星美氏が後述の論文の一部としてまとめられている。私が読んだのは、この山口氏の論文だったのである。
なお、資料調査に先がけ、日本経営史研究所の河上増雄氏、セイコー時計資料館の大倉耕治氏が来阪され、研究のために嵩高な資料を東京へ移送するなどお世話になったと聞いている。資料はその後、セイコー時計資料館に寄託された。そして、大阪時計製造株式会社の製品、ムーブメントの調査研究結果は、全米時計収集家協会(National Association of Watch & Clock Collectors,Inc.) の機関誌(pp.134-145 Bulletin,April 1988)に登載された。
私は製造された時計を目の当たりにし、時を刻む音を耳にするたびに、120年前に米人技術者が懐中時計製造機械と共に遥々太平洋を渡り、この地大阪で時計を製造するにあたり、微力とはいえ、青年期の二代目久之助の果たした役割が彷彿と目に浮かぶのである。
久之助のアルミ業界との関わりについては、小寺純雄氏がご提供くださった貴重な資料をもとに記述させていただいた(本文26ページ、340ページ参照)。それは、私たちも詳しく知らなかったアルミニウム事業のことについてであり、短命に終わったとはいえ、洋白会社のアルミ地金でコップやミルク沸しなど、日本初の民間によるアルミ器物製造を大阪時計製造所で始めたことである。
このように、当社の歴史をひも解いていくうちに、新たな発見が多々あった。それは、先輩諸氏に負うところ大である。多くの著書及び資料を参考・引用させていただいた。ここに厚くお礼申し上げます。
版元から一言
これは一企業の社史というスタイルをとりながら、商材であった時計の進化と文化的価値、業界のあゆみ、大阪の商工業の歴史、当時の人々の暮らしぶりまでも伝えている歴史的にも貴重な資料でもある。
上記内容は本書刊行時のものです。