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平成音楽史
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2019年4月30日
- 書店発売日
- 2019年4月25日
- 登録日
- 2019年3月10日
- 最終更新日
- 2019年5月5日
紹介
クラシック音楽の30年をひもとき、
激動の時代を語り尽くす。
痛快無双のクラシック音楽談義!
カラヤン、バーンスタインが逝き、
アバド、クレーメルが新しい道を開拓。
そしてドゥダメル、クルレンツィス登場。
古楽運動にアメリカの没落を重ね合わせ、
マーラー・ブームを佐村河内事件の淵源と喝破する。
博覧強記の思想史家・片山杜秀と
演奏史の語り部・山崎浩太郎が
激動の平成時代をクラシック音楽という視点から語り尽くす!
片山──平成という時代に特徴的なことといえば、
やはり壮大なまがいものにこそ感動するというところじゃないでしょうか。
山崎──昭和まではクラシックをめぐる言説が男目線中心だったのが、
女性の力が増したからこそ、
テノール歌手の魅力が堂々と語られるようになった。
片山──森繁久彌と吉田秀和は同い年。これ重要(笑)。
山崎──宇野功芳の存在は、ある意味で司馬遼太郎と似てると思うんです。
※本書は衛星デジタル放送ミュージックバードで2018年8月に放送された
ウィークエンド・スペシャル「夏休み自由研究~平成音楽史」の内容に
大幅な加筆をほどこし、テーマごとにコラムを追加したものです。
ミュージックバードはTOKYO FMグループの衛星デジタルラジオ。
JCSAT-2A(スペースディーバ)から日本全国に向けて放送する
高音質“音楽専門”有料放送です。
クラシック、ジャズの専門チャンネルのほか、
スタンダードパックでは音楽ジャンル別に50チャンネルから楽しめます。
詳しくは以下のサイトをご覧ください。
http://musicbird.jp/
目次
「オレたちの音楽史」へようこそ!(片山杜秀)
平成の始まり、昭和の終わり
1989年の世界情勢
カラヤンとバーンスタイン
バブル期CD花盛り
冠コンサート・象の《アイーダ》・三大テノール
♯MeeToo運動──女性目線のクラシック
マーラー全曲演奏会
朝比奈隆のブルックナー
死せるカラヤン、『アダージョ・カラヤン』を流行らす
オウム真理教オーケストラ「キーレーン」
阪神・淡路大震災5日後、朝比奈隆、都響に降臨
米同時多発テロ後の世界
民族派&超ジャンル
昭和を代表するピアニスト中村紘子逝く
オイル・マネーとオーケストラ①──ドゥダメルとエル・システマ
オイル・マネーとオーケストラ②──クルレンツィスとムジカエテルナ
3.11──無力感と復興ソング
佐村河内事件とポストモダンの完成型・新垣隆
ハッタリ・キッチュ・まがいもの
グローバリズムに反撃するヨーロッパ古楽ブーム
ピリオド楽器による《春の祭典》
戦後日本の最高傑作──小澤征爾
本土決戦としての東京オリンピック
column❶ 平成の指揮者
column❷ 平成のレコード店
column❸ 平成の作曲家
column❹ 平成のオーケストラ
column❺ 平成の音楽書
column❻ 平成の演奏家
column❼ 平成の音楽祭
おわりに──群雄割拠の音楽史を振り返って(山崎浩太郎)
平成音楽史年表(作成:渡邊未帆)
前書きなど
「オレたちの音楽史」へようこそ!
片山杜秀
平成は元号です。元号は明治以来、一世一元。天皇が即位してから崩御するまでで、ひとつの元号。そして、天皇は生身。ということは、元号は記号の一種なのに、生身のようなものでもあると言えましょう。
新天皇の即位、つまり新元号の制定は、前天皇の崩御と連動するのが一世一元。ですから、元号の始まりと終わりは、歴代天皇の生身の死と結びついてきました。元号そのものが天皇の寿命であり、元号そのものが生身の命と同体であった。元号も死ぬものであった。そういうことです。しかし、平成の終わり方は、天皇自らの意向によって、この慣例を突き崩したものになる。とてつもない大事。青天の霹靂。近現代元号史の構造転換のときです。その意味は、ポスト平成の世に改めて問われるでしょう。
その問題はポスト平成史の領分にとりあえず任せるとして、明治から平成の始まりまでの元号は、死と結びついてきたと確認しました。生身の生き死には、人はいつ死ぬかわからないという意味で、偶然性に支配されています。ならば、偶然にもとづく時間の区切りとしての元号に依拠して音楽史(本書の場合はほぼクラシック音楽史に特化された内容ですが)を問うことに、どんな意味があるのか。そう問われる向きもあるでしょう。
たとえば一八世紀音楽史、一九世紀音楽史、二〇世紀音楽史と、よく言いますし、そういう講座や書物も現にあります。一八世紀は西暦一七〇一年から一八〇〇年まで。一八世紀が来ようが来まいが、西暦あるかぎり、端から決まっていた。遠い未来の、たとえば三七世紀も、三六〇一年から三七〇〇年までと、これまた当然、決まっている。が、その三七世紀に日本が続いていて天皇も存在し一世一元の制が続いているかどうかは神のみぞ知ることだし、何代の天皇と元号がその間に積み重ねられるかは、現時点ではまるで予測不能でしょう。元号とはかくも偶然的であやふやなものです。
では、西暦の世紀で語る音楽史は客観的で、元号で語る音楽史は主観的であるというような区別を、ことさら立てるべきなのでしょうか。そして、偶然で枠を作る元号の音楽史は、一〇〇年周期の世紀で語る音楽史よりも、説得力がないという話になってしまうのか。
いや、そうでもあるまいと思うのです。世紀にこだわったところで、一七〇一年に誰が何を作曲し、一八〇〇年に誰が何を演奏するかなんて、やはり偶然でしょう。古典派音楽史やロマン派音楽史や十二音音楽史というような概念や様式で切るならともかく、決まった時間で切る歴史は、いずれにせよ恣意的か偶然的です。決まった周期的単位(世紀)で切るか、それともたまさか天皇の意向(平成の場合ですが)で区切られる非周期的単位(元号)で切るかに、実はそれほど大きな差はないのではないでしょうか。
しかも元号が生身と連動していることには、その歴史を辿ろうとするとき、大きな意味があります。昭和天皇の六四年は長過ぎるかもしれませんが、明治の四五年、大正の一五年、平成の三一年なら、世代によっては、元号の最初から最後までを生き生きと体験し、振り返ることが可能です。二〇世紀音楽史とかですと、そうは行きません。一九〇一年から二〇〇〇年までコンサートやオペラに通って、世紀が終わってから改めて歴史を展望し纏めることは、個人の限られた人生では、常識的には不可能ですから。
そして不思議なことに平成は、明治と大正と昭和以上に世界史と切り結びやすい年に始まっている。元号を冠した音楽史では日本一国の音楽史を語ることにしか向いていないはずなのですが、昭和天皇崩御の年は「ベルリンの壁」が崩れ去った年と重なりました。冷戦構造が崩壊し、政治的にも経済的にも思想的にも大転換が起き、それが内外のクラシック音楽の世界にも大きな影響を与えて今日に至っている。一九八九年を起点とする平成音楽史は、そのまま冷戦構造崩壊後の音楽史になる。一九八九年こと平成元年は、世界と日本を共に語り始めてもおかしくない、数少ない年のひとつなのです。
山崎浩太郎さんと私は、そんな平成のクラシック音楽の推移をまるまる体験してきた年代に属していますし、司会を務めてくださった田中美登里さんは昭和と平成の転換期には、すでに第一線の放送人であられました。それぞれが限られた視野からでしかないのはむろんですけれど、とにかく「平成語り」がちょうどできる世代というわけです。
元号が生身による時間の区切りなら、それを語るのは生身で最初から最後までを体験した者の特権でしょう。かくして平成音楽史は、「オレの○○」みたいなものになるほかありません。
「オレたちの音楽史」にようこそ!
関連リンク
上記内容は本書刊行時のものです。