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一つの太陽――オールウエイズ
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2013年4月
- 書店発売日
- 2013年5月20日
- 登録日
- 2013年5月16日
- 最終更新日
- 2013年5月16日
紹介
日本の東南アジア学45年の歩みを綴るエッセイ。
昨年12月に急逝したベトナム研究の第一人者の最後の著作です。
目次
1
私は天丼にせよ、オムライスにせよ、最初にいつどこで食べたかを覚えている。そんな世代だ
2
官、財、学界が賠償を転機に大きく東南アジア進出に舵を切り、一方、バンドン・民族運動への共感を持つ若い潮流がアカデミズムの中に胎動していた。
3
きなくさく、そして相当に胡散臭い東南アジア知識とは別に、時代の「要請」とは没交渉の東南アジア研究の流れが日本にあった。
4
六〇年代~七〇年代の東南アジア現代史はまるで走馬燈だ。瞬間の影絵を見ているだけでは走馬燈の思想は理解できない。
5
膨大なベトナム漢文史料のマイクロフィルム。この史料を読むのは間違いなく、世界で私が最初である。身震いするような思いで立ち向かった。
6
妻と当歳の娘を横浜に残し、書籍を積んだトラックの助手席に積まれて、京都に旅立った。それは真剣な遊歴時代の開始だ。
7
三三歳の私は希望に胸をいっぱいにふくらませながら、タイの悪路を蹴散らしていった。それが最初の幸福すぎるくらいに幸福なフィールドの始まりだった。
8
高谷先生は答えた。五万分の一地形図にトレーシングペーパーをかけて、すべての情報を手写してごらんなさい、それが一〇〇くらいたまったらわかります。
9
確かに東南アジアには一つの文明がないが、代わりに東西六〇〇〇キロ、南北四〇〇〇キロにわたって文化的統一帯、「東南アジア文化」が連なる。
10
庶民と同じ目線から歴史を構成しなおしてみる。海と島、海とデルタ、森と水田、貴族と商人・農民がともにシェアしたはずの「歴史空間」を書きたかった。
11
私を第二次大戦後最初に会った日本人研究者だと言い、私が語る世界の学界状況を、まるで舌でなめまわすように聞き取る。世界に飢えたベトナム人と、ベトナムに飢えた日本人との幸福な邂逅だった。
12
バブルとは過去の成功に幻惑されて、未来の資本が投資されて発生する。その意味で東南アジア研究バブルの次代だった。
13
地域研究の世界でも、理論やら真理が出現し、ほとんどは瞬時にして掃き捨てられる。しかし「事実」を捨て去ることはできない。
14
東南アジアで文明が生まれなかったのは、あまりに豊かな自然のおかげだ。その共通の文化は、豊かな自然に同化して生まれた。
15
ところが先生は一言、そうして、みんな東南アジアの農民のことを忘れていくんだよな、とほっつりと言った。酔いが一時に冷めた。
16
ドイモイ後は経済面での自由化が標榜されるが、実は学問の自由化も著しかった。科学にもっとも重要なものはデータであると、初めて公然ということができた。
17
一目見て好きになるかどうか。「一目見て」とは、感性で一瞬のうちに全体を理解することだ。地域把握の第一歩は一目惚れだ。
18
ベトナムの社会主義とは、狭い土地、過剰な人口、長い村落の歴史と経験が生み出した農民文化だと考えている。それが勤勉で安定的なベトナム社会の基礎だ。
19
私は重大なミスをしてしまった。現在は瞬間的に過去になる。その「かって
の現在」の積み重ねが「新しい現在」を作っていることを無視した。
20
二〇〇二年八月末、ライデン大学の古式豊かな階段教室で四日間にわたるバックコックシンポジウムが始まった。 盛大な議論が噴出した。
21
一五年を費やしてバックコックから学んだ「食べるための経済」と「稼ぐための経済」の二重構造は、自給経済から市場経済に至るまでの過渡期の経済にすぎなかったのか。
22
「地域情報学」。地を嘗めるように調査し、微細で具体的な記録を身上とする地域学と、スマートで計量ばかりの情報学が統合されるものなのか。
23
この四四年間の私の研究の結論は、以下のとおりです。私はこよなくベトナムの大地を敬愛しています、私はこのうえなくベトナム人が好きです。
24
人生は人々の恩愛で、満ちあふれている。そして私自身の上空には、いつも「地域学」という一つの太陽があった。
『一つの太陽――オールウエイズ』を読んで 高谷好一
桜井由躬雄先生とベトナム史・東南アジア史 桃木至朗
桜井由躬雄先生のベトナム学 古田元夫
桜井由躬雄先生から学んだ地域情報学 柴山 守
桜井先生とバックコック研究 柳澤雅之
村に帰った冒険ダン吉:桜井由躬雄君 レヌカー・ムシカシントーン
桜井由躬雄【略歴】
【博士号】
【受賞暦歴】
【研究業績】
【海外調査・研究歴】
前書きなど
【はじめに】
二〇一〇年二月一二日の石井先生の死は、戦後の日本で生まれ育った東南アジア研究の、太陽の早すぎる落日であった。そのとき、この落日が東南アジア研究の死に至らないかという不安を持った。このエッセイは、結局、その不安の分析にあてられるかもしれない。それは先生がもっとも悲しむことである。先生の死を乗り越えて、世界一を誇る日本の東南アジア研究をさらに輝かせる。それが私たちの、若い世代への新たなマニフェストのはずだ。
そのために、ここで石井先生の死に至るまでの日本の東南アジア研究が歩んだ道について語ることにした。
幸運なことに私が東南アジア研究を開始したのは一九六五年、今から四五年も昔のことだ。私の人生と日本の東南アジア研究の歴史はほとんど重なっている。だから私の経た道の多くはそのまま日本の東南アジア研究の歴史に重なる。本誌編集部の好意により、この私の思いが企画化された。うれしく思っている。
東南アジアという言葉
「東南アジア」という言葉、実は古い言葉ではない。アメリカ英語のSoutheast Asiaの訳語だ。冷戦期アメリカの国際政策の中に生まれた言葉だ。
東南アジアを初めて学問的な意味で定義したのは、アジア民族学の父、ウイーン大学のハイネ・ゲルデルンだ。ゲルデルンは後インドと南中国の間の広大な「混合と転移」の地域を東南アジアと呼ぶことを提唱した。一九二三年のことだ。ところがまもなくユダヤ人のゲルデルンはアメリカに亡命した。その頃アジア・太平洋についての知識をほとんど持たなかったアメリカに大歓迎された。ここでゲルデルンはさかんに東南アジアという言葉を宣伝する。折も折、日本が南方に進出し、南中国からインドまでのほとんどの地を占領する。この日本の占領地域が東南アジアと呼ばれるようになった。
戦後、それも一九五〇年代、アメリカの世界戦略の中に、共産化された中国と反米中立を叫ぶインドの間の地、東南アジアの比重が高まった。世界地理の中に東南アジアという言葉が普通に語られるようになり、それがそのまま日本の小学校地理教科書に直訳された。私が世界地理を習ったのは小学校六年生、一九五六年のことだ。東南アジアという言葉が市民権を得たそのもっとも初期に、私は東南アジアにふれあったことになる。
上記内容は本書刊行時のものです。