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愛の永遠を信じたく候
啄木の妻節子
- 初版年月日
- 2013年1月
- 書店発売日
- 2013年1月25日
- 登録日
- 2013年2月15日
- 最終更新日
- 2013年2月22日
紹介
石川啄木に愛され、啄木を愛し、そしてその才能をだれよりも早く、だれよりもつよく信じた妻・節子。その節子を描くことで、叙情詩人としてだけではなく、明治の政治の本質と真向かった文学者として、啄木を現在に生き返らせた伝記文学の傑作。
目次
雪の跫音
処女詩集『あこがれ』
つかの間の平安
北海漂泊
〝半独身者〟
女教師 節子
「喜之床」二階
跳梁をはじめるもの
義絶
節子の節操
あいつぐ死
遺された命
文春文庫版のためのあとがき
本シリーズにあたってのあとがき
解説 佐高 信
前書きなど
本シリーズにあたってのあとがき
二〇一二年は、啄木が去って百年の年だった。とくに記念行事がいとなまれた話をきかない。しかし、啄木の短歌を、なつかしく心にきざんでいる日本人は多いはずである。
わずか百年前の日々である。若い文学者の生活の貧しさ、とくに夫におきざりにされた家族の貧窮ぶりは言語に絶する。貧しさの理由に、運命的なるものと、啄木の放恣な暮しぶりがある。だが、筆一本でカネを得ることの困難さは、時代を問わないものとしてある。
衣類は最後の一本の帯まで貭草になった。夫婦二人に幼い娘一人、さらに母のカツがいて、父の一?がいっしょの日もある。十代で詩人として世にたつことを願った啄木の肩に、妹をふくめて五人の生活がかかることになる。
新詩社は新しい文学の息吹を世間にもたらし、注目されていても、中心の与謝野鉄幹・晶子夫妻さえ経済的には恵まれていない。
啄木一人どうあがいても答のない生活にあって、父の宝徳寺放逐、函館の大火がつとめさきを焼きつくす不幸も見舞う。悪い条件はそろいすぎ、嫁姑の確執もあった。
予想しのぞんだものすべてを微塵に粉砕してゆくような現実のもと、ついに啄木は現実から逃走した。妻子を見捨て、落ちるところまで落ち、絶望のどん底で「大逆事件」に出合っている。
しかも病いは深刻であった。啄木は現に生きている社会の暗黒を書かずにはいられない。
明治の最後の年、啄木のいのちは消えた。「時代閉塞」の社会の明日を、希望あるものにしたいという意思を抱いて、憤死といいたい死である。
啄木より一年一ヵ月のち、おなじく結核で死んだ妻の節子は、文学への志向は遠い日に手ばなし、夫の才能ひとつを頼りに、夫以上に峻烈な貧しさを生きた。七年余の結婚生活にあって、しばしばその日食べる米を買うカネがないという生活。しかし、この人は耐えること、信じることによって勁かったと思う。
近づく夫の死、生れてくる三人目の子、自分をむしばんでいる「肺病」という業病。
最後の最後には、きちんと挨拶をして去ってゆきたいとかねて心に期し、そのように死んでいった石川節子。
節子に手本を見ようなどという気持はまったくない。忍耐と爆発は表裏のものとしてあるのではないか。節子は初恋の日に、愛とひきかえに、そのキバを自分から抜き去ったひとのようである。
それにしても、こういう妻はほかに例がない。夫が死んだ年の末、明治は大正にかわり、啄木は大正を知らない。節子は実質的に、大正のさいしょの年に、函館で死んだ。
貧困の苛烈さとともに、石川節子の人生をたどることは、家族感染といわれる結核菌の跳梁のすさまじさをたどることでもあった。
からだの不調は、つとめを怠ける啄木のいつもの理由だったが、病勢がすすむ結核特有のだるさや、気力の喪失を反映していたのかもしれない。カツも節子も同様であった。
貧しさと肺病。
どちらひとつであっても、人生の重大事というべきことを、ふたつもあわせもち、病人だらけの家庭で、啄木は「時代と社会」をしっかり見届け、生前活字になることはない原稿を書きついでいった。
節子はどのように生きたのか。
のこされている「節子資料」断片を時代別にすべてつなぎあわせ、わたしは「わたしの石川節子」を書いた。
節子が感じたに違いないと思われることは、思いきって書いた。書くうちに、わたしは自分が自由になってゆくと感じた。
啄木をおとしめる意志などまったくない。啄木を知るべく、彼の手紙と日記(とくにローマ字日記)に赤裸々に書かれた私行は省略できない。節子は啄木の死後にそれを読んでいる。
七十年へてみつかった一枚の写真は、「こういう女がいたことをおぼえていてください」という節子の願いかもしれない。
文春文庫から二十年。ずっと絶版つづきのこの本に、また機会がめぐってきたことを、嬉しく思っている。(本文は原則として数え年に統一した)。
二〇一二年 初冬 澤地久枝
上記内容は本書刊行時のものです。