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シベリアに逝きし46300名を刻む
ソ連抑留死亡者名簿をつくる
- 初版年月日
- 2009年8月
- 書店発売日
- 2009年8月1日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2014年5月19日
書評掲載情報
2015-02-15 |
毎日新聞
評者: 有光健(シベリア抑留者支援・記録センター代表世話人) |
2009-08-30 | 毎日新聞 |
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紹介
ついに帰還できず、異国の丘に人知れず眠る、無名戦士の名前を掘り起こした、祈りと鎮魂の紙碑。一市井人が決意し、生涯を懸けて大事業を達成した。この壮大な生と死の記録は、今後も乗り越えられることはない。鎌田慧氏推薦!
目次
小序 歴史記録の金字塔 ──────鎌田 慧
はしがき
第1章 いま、なぜ抑留死亡者名簿か
1 シベリア抑留中死亡者名簿作成を発起
2 より正確な氏名表記を求めて
3 データベース作業で明らかになったこと
第2章 シベリア抑留死亡者問題
1 シベリア抑留とその違法性
2 日ソ共同宣言と問題の長期化
3 東西冷戦の終結とグラスノスチ
4 ゴルバチョフ大統領の来日と協定の締結
5 伝えられた抑留個人資料
6 エリツィン大統領の公式謝罪と「東京宣言」
7 急ぐべしシベリア戦後処理
第3章 シベリア抑留における大量死の実態
1 「サンガラドックの悲惨」考
2 シベリア抑留死亡者「37万人説」
3 第527労働大隊の「微細名簿」と平坂元中尉
あとがき──遥かな旅路の終章にて
資料編
1 ソ連抑留死亡者の地理的区分一覧表
表の構成と見方
地名とその変遷について
2 ソ連抑留中死亡者数の年月別推移
3 ソ連抑留中死亡者の年齢別構成
4 抑留者の個人台帳・『登録簿』
5 特別病院における入院記録・『カルテ』
6 現地より伝えられた主なソ連抑留中死亡者名簿一覧表
ソ連抑留日本人収容地区の所在と各地域ごと犠牲者数(見返し)
前書きなど
はしがき
加齢の功徳とでもいいましょうか、忘却の進む一方で、年老いてはじめてわかること、気づくことが多くあります。そのご利益の最大なものは、やはり自らの「来し方、行く末」についてしみじみと思いをめぐらす機会を授かることだと考えます。
そして、その半生の回顧と残りわずかな余生への展望から、つくづくと想念されるのは何といっても「命の尊さ」であり、「命のかけがえのなさ」です。
私は古稀ちかい齢になってはじめて、「命いとしみ、命のかぎり」との自作のフレーズで、自らを励まし生きて行きたいと思うようになりました。
ところが、そんなかけがえのない大事な命を、無残に中断された人々が、私の近くにも数多くいたことに改めて気づきました。さきの大戦の犠牲者のうち、戦争終結後シベリアなど旧ソ連とその支配地域に抑留され、苦役を強いられた60万余の同胞のうち、無念の涙とともに凍土に果てたとされる5万5000ないし6万名以上の方々がそれです。
シベリア抑留の「死者」に対する思いは、そこから生還した私にとって当然に重く、終生忘れられることではありません。しかし、シベリアでの屈辱と忍苦の傷がいかに深かろうと、そこから帰還しえた者はいくばくなりともそれを癒し、その空白を埋めるてだてを予後に持つことは可能であり、現に私はかたじけなくも天与の命を生かされています。
しかし死者たちはどうでしょうか。人間一人の長かるべき生身の生を無残に断ち切られ、人間一代の歴史を未完のままに抹殺された人々には、癒しややり直しなどの予後はありません。かてて加えてシベリアの死者たちは、その死後も久しく囚われ続けて、ついに弔われることがなかったのです。これを無念・無残といわず何というべきでしょうか。
「弔う」とは、まず「とぶらう(訪ぶらう)」ことであり、その場におもむき死者を見舞うことであるといいます。しかしシベリアの場合、そんな弔いを受けた死者は皆無です。
それは第一に抑留当事国ソ連が、日本人抑留死亡者の情報を意図的に封印して、相手国たる日本に伝えることを放棄したからです。けだしソ連の犯した罪業は、抑留の事実だけにはとどまらず、また死者を出したことだけにも終わりません。最も問題とすべきは、その大量死を欺瞞的言辞を弄して長年にわたり秘匿し隠蔽し、死者に関する情報の一切を相手国に通告すべき国際的義務を怠った点にあります。
この非道のゆえに、延々実に40数年、ほとんどすべての死者は祖国の誰一人に知られることなく、野ざらしの土饅頭のままシベリアの凍土に囚われ続けて浮かばれず、また遺族たちは肉親の生死のほども最期の地も、その死の状況など何一つ知るすべなく、悲嘆と疑心暗鬼の無期徒刑的な苦悩に泣かなければならなかったのです。この長期にわたる異常事態こそ、まさにシベリア悲劇の最悪の一面を物語るものにほかなりません。
こうしてシベリアの死者たちは、ついに弔われることがありませんでしたが、1991(平成3)年以降、ソ連ないしロシアよりの数次にわたる「日本人死亡者名簿」の伝達により、はじめて確認可能となり、日本政府による遺骨収集が開始されるに及び、ようやく遺族や関係者だけでなく、国民一般の間にも抑留死の事実が知られ、これら犠牲者に対する追悼・慰霊の機運の醸成をみたことは喜ばしいことでありました。
しかし爾来さらに10数年、私たちの祈りははたして死者に届いているでありましょうか。
「弔う」とは先に述べたように「とぶらう(訪ぶらう)」こと、すなわち「問う」こと、「問いたずねる」ことと解せますが、さらに言えば「死者の枕辺に寄り添い、親しくその人の名を呼び、その声を心に聴く」ことであると考えます。
死者は一人ひとりねんごろに、その固有の名を呼んで弔われるべきであり、この人たちを「名もなき兵士」や「無名戦士」と虚飾して、人類史の襞に埋めもどす非礼は決して許されることではありません。名を呼び、問いかけ、その声を聴く。そんな真心こめた祈りこそが、真の「弔問」であり「慰霊」となり、弔問者自身とそれを含む国と社会の再生を促す力ともなるのではないでしょうか。
そんな思いがシベリア墓参の旅を重ね、歳をとるごとに私の胸にとめどもなく大きくふくらんで、1996(平成8)年、70歳の私をついに「シベリア抑留中死亡者名簿(データベース)」の編成という無謀ともいえる作業に駆り立てました。
この作業の経過について述べたのが本書の、「第1章 いま、なぜ抑留死亡者名簿か」でありますが、幸い途中での挫折をまぬがれて、2005(平成17)年8月、着手以来10年半ぶりに4万5811名のデータベースの完成を見、これをネット上に総員の「氏名五十音順名簿」として公開するという幸運にめぐまれました。
そしてこのことが複数の新聞・テレビ等のメディアにより報道され、思いもかけず翌年4月、「第40回吉川英治文化賞」を受賞いたしましたが、その後さらに追加のデータを加えて吟味し、2007(平成19)年7月末、4万6300名の名簿に解説編および資料編を付し、『シベリアに逝きし人々を刻す』と題し、1巻の書籍として自費出版したのが前著であります。
これが同年秋、新潟県主催の「新潟文化祭」において、第5回新潟出版文化賞の「特別賞(新井満賞)」をいただき、また、昨年秋に応募いたしました「第12回日本自費出版文化賞」の大賞を授与される旨、先月はじめにご連絡をいただきました。
度重なる身に余る栄誉に、感激というより戸惑いと感謝の念を禁じえませんが、さらに加えて、日本自費出版文化賞の選考委員長・色川大吉先生、選考委員の鎌田慧先生が、拙著『シベリアに逝きし人々を刻す』の「第2部 解説編」、および「第3部 資料編」をまとめて、独立の1冊として刊行すべきことを勧奨され、これを受けた七つ森書館が早速にご決断、ご対応くださり、ここに本書『シベリアに逝きし46300名を刻む』の誕生を決定づけてくださいました。
前著『シベリアに逝きし人々を刻す』の「はしがき」の最後に、「本書は名簿のあとに、編者自身の何篇かの文章と若干の資料類を載せてあります。これらは本来、別冊とすべきものでありましょうが、編者の残り時間を考慮し蛇足のそしりを覚悟で付け加えさせていただきました。本名簿編纂作業の動機や途中経過、データベースに基づく論考例などでありますが、これらの拙文をもご一読いただけるなら光栄に存じます」とした私の繰り言めいた記述に、いち早く着眼され、温情をもってこのようなご対処をいただくなど、まったく私にとっては夢想だにかなわぬことであり、お三人のご厚意に心からの謝意を捧げるほかありません。
こうして姉妹編ともいうべき本書を上梓する運びとなりましたが、B5判、重さ2キロを超える前著に比し格段に親しみやすい形態で、皆さまの机上で、またお手元で、ご高覧いただけることをたいへん幸せに思います。ただし本書には、シベリア抑留死亡者名簿そのものは掲載されておりません。したがって名簿の全体を、あるいは名簿中の特定個人についてご覧になりたい方は、前著『シベリアに逝きし人々を刻す』を、最寄りの図書館またはそこを通してご覧くださいますようお願いを申し上げます。
前著は都道府県立図書館のすべて、主な市区町立図書館(約80館)および国公私立の主な大学図書館(約110館)に、大部分は当方からの寄贈の形でお届けしてあり、これ以外に手続きが遅れ未登録のものもありますが、おおかたは登録済みで、閲覧または貸し出しが可能となっております。また私のホームページ(http://yokuryu.huu.cc/index.htmlまたは「村山常雄」で検索)でも名簿をご覧いただけます。これは前述のとおり2005(平成17)年8月現在のデータ(総員4万5811名分)でありますが、本書の出版以後なるべく早い時期に、その後のデータを追加し全面更新いたしたく考えております。
本書の「第2章 シベリア抑留死亡者問題の端緒と経緯」は、旧ソ連の不法により大量死をもたらしたシベリア抑留問題がいまだ全容解明に程遠い現実について、その歴史的経過をとくに抑留死亡者に焦点づけて述べたものであり、また「第3章 シベリア抑留における大量死の実態」は、自身が作成したシベリア抑留死亡者データベースに基づく論考類6点のうち3点だけを掲載いたしましたが、第1章をも加えて、全体的な統一・整合性に難点があり、また用語や時制についても問題なしとしません。これらは私の浅学のいたすところと、何とぞご寛容を賜りたく存じます。
最後に「資料編」はもちろんご覧いただきたく思いますが、表紙見返しのマップ(ソ連抑留日本人収容地区の所在と各地域ごと犠牲者数)も是非つぶさにご覧いただきたくお願い申し上げます。大正生まれの独学我流・孤立無援の一老骨が、ドン・キホーテよろしくパソコンという怪物と格闘すること延べ250時間、ようやくものした生涯にただ1枚のグラフィック作品です。不出来なうえ縮小版で見にくくもございましょうが、この分身がいとおしくてならず、またこの1枚が私の全作業の総括とも象徴とも思えるからです。
今回の資料編には「地域ごと抑留死亡者数グラフ」を掲載いたしませんでしたので、それもこのマップにより代用いただければ幸いに存じます。
いささか、自己宣伝が過ぎました。お詫びを申し上げながら。
2009(平成21)年7月 村山常雄
上記内容は本書刊行時のものです。