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北朝鮮で兄は死んだ
- 初版年月日
- 2009年11月
- 書店発売日
- 2009年11月20日
- 登録日
- 2010年2月18日
- 最終更新日
- 2018年8月30日
紹介
帰還事業で北朝鮮に息子3人が渡った朝鮮総連幹部の家庭を描き、世界の映画祭で受賞したドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン」。その監督梁英姫に対談の名手佐高信が聴く、「地上の楽園」と謳われた北朝鮮の知られざる内実。なぜ長兄は若くして死んだか、家族はいかに暮らしているか。
目次
はじめに
第1章 ピョンヤンに生きる
第2章 そして人々は「楽園」に渡った
第3章 コリアン・メイド・イン・ジャパン
おわりに
前書きなど
おわりに
二〇〇九年一〇月釜山映画祭。ピョンヤンで暮らす姪っ子を主人公にしたドキュメンタリー「ソナ、もうひとりの私」のワールドプレミア上映が終わった日の夜、韓国の制作スタッフたちと海辺にある食堂で波音を聞きながらの打ち上げ会で盛り上がっていた。どの映画祭に申請をしてみようかと話し合いながら、魚介類の炭焼きと焼酎という釜山らしいメニューを堪能していた。
そのとき、釜山映画祭に来ていたベルリン国際映画祭フォーラム部門の方から、会いたいという電話があった。世界中の映画祭のなかでも、ベルリンのフォーラム部門は挑戦したいトップであった。私の作品の上映を観に来ていた彼らからの電話とあって、どんな感想を聞かされるのかと緊張しながら待ち合わせの場所に向かった。
しかし、着いてみると、彼らはお酒を用意して、二〇一〇年二月のベルリン映画祭への正式招待を伝えてくれた。そんなことは夢にも思わなかった私は嬉しさで泣き出しそうになり、彼らに抱きつきながら「オーマイゴット!」と叫んでいた。(無宗教の私だが英語で話しているとなぜかこうなってしまう。)
ビールで乾杯をしたあと、私の家族の話になったとき、ディレクターのクリストフ・テルヘヒテ氏が何気なくいった。「それにしても六歳の女の子から三人の兄たちを取り上げるなんて残酷だよね」──私の頭のなかはまっ白になった。
生まれてはじめて私の気持ちを汲んでもらえたようでありがたく、また、そのときから私の成長が止まっていたのを見透かされたようで気恥ずかしかった。「そう、そのトラウマと向き合うためこんなに時間がかかったのかも知れない……」と思わず素直に答えていた。
兄たちと離ればなれになってから四〇年近くのあいだ、私はずっと誰かがこういってくれるのを待っていたのかも知れないと気がついた。
私の頭のなかでは、兄たちと一緒に遊ぶ六歳までの私と、兄たちがいなくなってひとりっ子の鍵っ子になった七歳以後の私の姿が走馬灯のように蘇った──。
三人の兄たちは、年が離れた妹の私の手をつないで駄菓子屋に連れて行ってくれ、おウマさんになってくれ、私がチャンバラごっこで襖を破ったときには、怒る父の前で自分たちがやったと私をかばってくれた。私が夜ベッドで一緒に寝ていた子犬の面倒も兄たちがみていた。
しかし、兄たちがいなくなってから、夜遅く親が帰るまでひとりで留守番をしながら、私はちょっとした音や暗がりに怯えるようになった。犯人の顔が出るニュース番組さえひとりで見られず、トイレでは大きな声でうたいながらおしっこをした。いつの間にか、子犬や子猫も触れられないくらいすべての動物を怖がるようになり、それは四五歳になるいまもつづいている。
そしていつも私の頭のなかで繰り返される疑問があった。「お兄ちゃんたちは何であんな遠い所に行ったんだろう? そこはどんな国なんだろう?」
周囲の大人たちはいつも「ご両親も辛かっただろうね、ヨンヒちゃんだけ残ったのね」と私にいった。幼い私は大人たちにつくり笑いを返しながら、「私が残ったんじゃない、いつの間にかお兄ちゃんたちがいなくなっただけなのに」と心のなかで呟いていた。急にひとりになって寂しかった、兄たちに遠くへ行ってほしくなかったと、誰にも一度もいえないまま時間が過ぎていった。
一七歳のころから数年おきにピョンヤンを訪ねながら、兄たちとの空白の時間を埋めるように再会を重ねた。限られた「面会時間」のなかで、まるで遠距離恋愛の恋人と会ったときのように夜通しおしゃべりをした。次男のコナ兄、三男のコンミン兄とは日に日に距離が近くなるのを感じた。ただ長男のコノ兄と私のあいだには、兄の躁鬱病を知るほどにお互い「ワレモノ」に触るような遠慮が生まれた。そしてその遠慮を埋められないままコノ兄は死んでしまった。
人はどこかで生まれてどこかで死ぬ。生まれる場所は選べなくても、生まれたあと生きて行く場所を選び、その人生の最後の舞台となった場所で死ぬ。大阪で生まれたコノ兄はピョンヤンで死んだ。家族と暮らしていたピョンヤン市内のアパートから郊外の墓地に引っ越した。
でも私にはコノ兄がオトナシクその墓で眠っているように思えない。やっと自由になれたコノ兄は、雲に乗って世界中のコンサートホールを巡りながら、愛するクラシック音楽を楽しんでいるはずだ。数日前にサントリーホールの前を通った私は、思わず空を見上げまっ白な雲に向かって微笑みかけてしまった。ベルリンに行ったら、映画祭会場から近いベルリン・フィルのコンサートホールを覗いてみよう。コノ兄がカフェでコーヒーを飲みながら私を迎えてくれそうな気がする。奮発してS席のチケットを買って、コノ兄の写真をもって音楽を聴こう。コノ兄はいうだろう、「ヨンヒ、やっぱりカラヤンが生きてたときに来たかったな~」。音楽のあとはコノ兄と、ベルリンの壁の跡をスキップしよう。
北朝鮮への入国が禁止されている私は、コノ兄の墓参りにも行けない。腹立たしさも越えて無念としかいいようがない。近い将来、「あのときさ、家族の話を映画にしたからって入国禁止になったりしたよね。謝罪文なんか書けっていわれたんだよね」と、笑って語れるときがくるだろう。もしかするとそのとき、兄たちと私は白髪の爺さん婆さんになっているのだろうか。何歳であっても、そんな「過去」は元気に笑い飛ばしたいものだ。
そろそろ私は、六歳の私から脱皮できるのだろうか。大人になるにはまだまだ時間がかかりそうだが、表現者として少し成長できたのなら幸いだ。
最後に、この本を企画プロデュースし、私の話を引き出してくださった佐高信さん、何度となく御馳走してくださり、原稿が遅い私をいつもあたたかく見守ってくださった七つ森書館さんに心からの感謝を捧げます。
二〇〇九年一〇月二〇日 梁 英姫
上記内容は本書刊行時のものです。