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アイデンティティ エリク・H・エリクソン(著/文) - 新曜社
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アイデンティティ (アイデンティティ) 青年と危機 (セイネントキキ)

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発行:新曜社
四六判
464ページ
並製
価格 3,300円+税
ISBN
978-4-7885-1549-9   COPY
ISBN 13
9784788515499   COPY
ISBN 10h
4-7885-1549-0   COPY
ISBN 10
4788515490   COPY
出版者記号
7885   COPY
Cコード
C1011  
1:教養 0:単行本 11:心理(学)
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2017年11月
書店発売日
登録日
2017年10月30日
最終更新日
2017年11月20日
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紹介

◆読み継がれる名著の完全新訳!
 本書は一九六八年に出版され、最初の邦訳が一九六九年に刊行されました。以来、世界で、日本で読み継がれ、アイデンティティの概念は心理学の世界を超えて、私たちの人間理解に深く、大きな影響を与えてきました。その影響が今日でも大きいことは、他社からも近年、エリクソンの本の新訳が刊行されていることからもわかります。その背景には、エリクソンの概念が普及するにつれてあまりに単純化され、本来のエリクソンの思考の複雑さ、深さが失われてしまっていることがあります。しかし原典を読むと、エリクソンが古びるどころか、今日の私たちにとっても本質的な問いを提示しており、正に人間探求の古典の一冊であることがよくわかります。今回の新訳は、原著に忠実に一から訳し直し、かつ読みやすい日本語になっています。初めてエリクソンを読む人にも、改めて読み直したい人にも、まず手にとっていただきたい、エリクソンの思想の神髄に触れる一冊です。

目次

アイデンティティ 目次
まえがき
第1章 プロローグ

第2章 観察の基礎
    1 一臨床家のノート
      Ⅰ 集団アイデンティティと自我アイデンティティ
      Ⅱ 自我の病理学と歴史的変化
      Ⅲ 自我理論と社会的プロセス

    2 全体主義について

第3章 ライフサイクル―― アイデンティティのエピジェネシス
    1 乳児期と承認の相互性

    2 幼児期初期と自分自身であろうとする意志

    3 幼児期と役割への期待

    4 学齢期と仕事との同一化

    5 青年期

    6 アイデンティティの彼方

第4章 個人史と症例史に見られるアイデンティティ混乱
    1 伝記的研究1 ―― 創造的な混乱
      Ⅰ G・B・S(七〇歳)が語る若きショウ(二〇歳)
      Ⅱ ウィリアム・ジェームズ、自分自身の鑑定医

    2 発生論的な研究―― 同一化とアイデンティティ

    3 病理誌的な研究―― 深刻なアイデンティティ混乱の臨床像

    4 社会的―― 個人の混乱から社会秩序へ

    5 伝記的な研究Ⅱ 混乱の再来―― 夜ごとの精神病理学
      Ⅰ フロイトの「イルマの夢」
      Ⅱ ウィリアム・ジェームズの最後の夢

第5章 理論的間奏
    1 自我と環境

    2 混乱、転移、そして抵抗

    3 私、私の自己、そして私の自我

    4 自我の共有性

    5 理論とイデオロギー

第6章 現代の問題に向けて―― 青年期

第7章 女性と内的空間

第8章 民族、そしてより広いアイデンティティ


訳者あとがき
本書が依拠した原著論文

索引

                                   装幀=新曜社デザイン室

前書きなど

アイデンティティ まえがき
 ポール・フェダーン博士は、私が一九二〇年代後半にウィーン精神分析研究所で学んでいたときの教師の一人であったが、新しい概念を作ることにも失言にも同じく独創的な、魅力ある人物であった。当時、彼の「自我境界」の概念は、重要ではあるが曖昧であるとして、大いに論議された。われわれ学生は、その概念を説明するのに必要だと思われるだけ、セミナーを連続して開いてくれるよう先生に嘆願した。セミナーは三日間、夕方から長時間にわたって開催された。最終回を終えるにあたり、彼はようやく自分を理解してもらった、という面もちで、書類を収めながら、次のように問うたのだった。「さて、私自身、わかったのかな。」

 アイデンティティについて書いてきたことを読み返して、私は一度ならずこの質問を自らに問いかけたが、急いで付け加えなければならないのは、本書は、アイデンティティについて決定的な説明を与えるものではない、ということである。この主題について書けば書くほど、この言葉はあらゆるところに広がってゆき、計り知れない深みをもつものになってしまう。できることはただ、多様な文脈の中でこの概念が不可欠であるということを立証してゆきながら、探究することなのである。

 そういう次第で本書の各章は、過去二十年間の主要論文を改訂したものに、同じ頃書いた論文からの抜粋を加えて構成されている。これらの論文のうちのいくつかは、精神分析モノグラフのシリーズとして発表したものだが、それにはデイヴィッド・ラパポートの序文が付されていて、その中では彼が十年前に見なしたように、私をあくまで精神分析学理論の中に位置づけている。私は、臨床観察を証拠の一部として公表せねばならない、人間発達についての著者という役割を心地よく思ったことは一度もない。しかしこの問題は、学生と読者によって、われわれの手から離れて、というより、ほとんどもぎとられてしまっている。本来は専門家に向けて書かれた著作が教室や書店に出てしまっているからだ。それゆえ、それらが本書のように改訂した上で論文集の中に収録されるのは適切なことかもしれない。また、これらを読みたいという好奇心が不健全ということはない。現代の学生は、より包括的な自己定義を求めて、人間の多様性のみならず逸脱をも知りたいと強く願っており、本書によって、十分詳細に何であるかを見きわめたり、共感したり、あるいは距離をとることができるのである。

 また、今日、私と同じ専門分野の研究者には、通常の貯め込み本能を超えて、以前には本に含められなかった散在する論文を集め、再刊行する新しい理由が生まれつつある。一つには、単独の評論や論文は、豊富な示唆を含んでいる点では優れているが、その基盤の確かさという点では一歩譲るからである。多くの論文を一冊の本にまとめてはじめて、各論文が何を問題として取り上げ、全体として何を意味するようになったのかを真に知ることができるのである。何年か後にそれらの論文を改訂するとき、当時とは異なる話し方で異なる聴衆に話している自分の言葉を聞くのは、不安なことではある。特に、当時どんな聴衆

に向かって、そして誰に反駁して話していたのかを忘れてしまっている場合には、なおさらそうである。しかし私は、論点の強調は「各時代の論文」に、記録の性格づけは本全体に委ねた。それらの記録は、私が、数少ない観察を長く心の中で反芻するタイプの臨床家であることを示している。そのような観察はいつでも、初めて行ったときに、予想もしなかったことへの驚きと、長い間待ちわびていたものが確認できたことへの喜びとが一体となって、強く印象づけられたものであった。そのため私は、同じ観察をよく種々の文脈の中で異なった読者に紹介して、そのたびごとに理解を深めていただきたいと願うのである。

 そして最後に、アイデンティティについて書く、またはこれまで書いてきたということは、人間発達について記してきた者に、特別な客観的課題を課す、ということを述べておきたい。著者は、自分自身の思索を激しい歴史的変動の光に照らして再評価する必要を、逃れられないのである。実際、私は、プロローグにおいて過去を振り返り、本書の元となった論文が書かれた二十年の間に、「アイデンティティ」および「アイデンティティの危機」という概念のもつ並外れた、しばしば奇妙でさえある魅力に、多少とも光を当ててみたい。それに対して読者には、その歴史感覚を動員して、本書に収載した長期間にわたる多くの論文が、現代の諸発展によってどれだけ確認されたか、また、どの観察が、その一時的な推移状況の中でのみ説得力をもつものであったと考えられるかを、判断していただきたい。読者がそうするにあたっての一助として、本書の末尾に、もとの掲載雑誌と日付とを載せた。現代の一部の大いに騒ぎ立てるが非暴力的な青年たちのいくつかの新形態の表現と、(ある種化学的に引き起こされた)内的冒険を考えると、最後に挙げた論文がかなり古いことに注意してほしい。これはそれでよいのである。というのも、一時的な流行や気まぐれを通り過ぎて、長い目で見ることだけが、年月を経たメッセージがわれわれの関心を引こうとしたものを読み取る助けとなるからである。また、街頭の暴力が、この論文が書かれたときに最高潮に達したというのでもない。しかしこれもまた、青年および若い成人指導者の役割に関心を向けるよう求めているのである。

 もしも本書が少しでも読むに堪えるものであるとするならば、それは妻ジョアン・エリクソンとパメラ・ダニエルスさんの準備作業によるものである。
 パメラ・ダニエルスさんは、ハーヴァード大学で私が受け持つライフサイクルについての講座の主任助手である。原論文を読み、繰り返しが必要最小限となるよう巧みに削除し、学生を当惑させると知っている部分を丁寧に明確なものにしてくれた。

 ジョアン・エリクソンは、私が書くものにいつも手を入れてくれている。私が何を言いたいのかを彼女以上によく知っている者はいないし、また、彼女以上に私が自分の流儀で、必要とあれば長すぎる文章であっても言いたいことを言うよう気づかってくれる者はいない。しかし本書は、オースティン・リッグズ・センターにおける数年間にわたる彼女との協同研究の成果でもある。彼女はそこで、患者のための新しい「活動プログラム」を立ち上げた。このプログラムは精神療法と並んで必要不可欠なものとなり、重大な危機にある青年の内面的資質をテストし、促進させるのに効果的であることが立証されたのである。

 各章でも少しばかり謝辞を述べたが、二十年以上にわたる実践と教授、カウンセリング、旅行などでお世話になった方々のお名前は、参照文献に圧縮できるものではない。私は本書を今は亡き二人の友人に献呈したい。それは、彼らを失ったことがとても惜しまれるというだけではなく、彼らが、本書にも、他の人々の著作の中にも、生きているからである。バークシャーズのオースティン・リッグズ・センターで、ロバート・P・ナイトは医科の主任を務め、デイヴィッド・ラパポートは研究主任だった。二人は驚くべき好一対で、背景も容貌も気質や精神の働き方までまったく違っていたが、個人としてそれぞれ傑出した著作をものしたのみならず、類い希な治療的・理論的なセンターを共に設立したのである。それはいつか必ずや、歴史家によって書かれるだろう。そこで私も、本書に記されているように、二十年間という最も長い期間にわたる親密な研究上の交友を経験したのである。

 フィールド財団がアイデンティティ問題の研究に最初の助成をしてくれたのは、オースティン・リッグズ・センターに対してであった。私はこのまえがきを、最初のフィールド財団研究員として、壮年期のガンディーについて一冊の本を書くという仕事の傍ら、記している。後にフォード財団が、リッグズへの一般助成の一部として、旅行と研究のためのさらなる機会を提供してくれた。もう少し小さな研究に対しては、シェルター・ロック財団が援助を続けてくれた。最後に、同財団の「精神医学研究のための基金」が『青年ルター』執筆を援助してくれたが、これは本書と対をなす著作である。というのも、本書が数多くの人生と時代をあれこれと探究しているのに対して、『青年ルター』は、一人の人生を扱っているからである。

 しかし、題名から言えば、本書は『幼児期と社会』に続くものである。これら三冊の本は、すべて、互いに親密な関係にあるので、類似しているところや繰り返しがある。友人同士が家族のように似てくるのを許すように、それを許していただければと願う。

 多くの人がここに収録された手稿をタイプしてくれたが、サンチューのアン・バートほど巧みに、しかも気持よく行ってくださった方はいない。

                   一九六七年マサチューセッツ州コッチュイにて
                                     E・H・E

上記内容は本書刊行時のものです。