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社会秩序の起源 桜井 洋(著/文) - 新曜社
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社会秩序の起源 (シャカイチツジョノキゲン) 「なる」ことの論理 (ナルコトノロンリ)

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発行:新曜社
A5判
558ページ
上製
価格 6,500円+税
ISBN
978-4-7885-1547-5   COPY
ISBN 13
9784788515475   COPY
ISBN 10h
4-7885-1547-4   COPY
ISBN 10
4788515474   COPY
出版者記号
7885   COPY
Cコード
C3036  
3:専門 0:単行本 36:社会
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2017年11月
書店発売日
登録日
2017年10月16日
最終更新日
2017年11月8日
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紹介

◆複雑系で解く心と社会
 社会秩序はどのように発生し、維持され、ゆらぐのか。個人と社会の関係をどのように理解するのか。本書は現象学と複雑性科学を援用してこの普遍的な問いを探求します。本書の特徴は、欧米の「する」論理=主体概念を脱して、日本語ではなじみ深い「なる」ことの論理を定式化し、心と社会の成り立ちを他言語・多領域から理解可能な形に読み解くことにあります。エルゴード、アトラクタなど力学系の諸概念を大胆に社会系に応用し、場・思いのダイナミクス・「好き」・カオス的遍歴などの魅力的なキーワードから心と社会の秩序原理を探求するにとどまらず、アイヒマン裁判など戦争責任の追及を題材に責任の論理、倫理への問いに迫ります。破格でエキサイティングな理論社会学の野心作といえます。著者は早稲田大学国際教養学部教授。

目次

社会秩序の起源 目次
序 論

第Ⅰ編 「なる」ことの論理

第1章 主体と真理

 第1節 「する」論理と「なる」論理
 第2節 個人と主体
 第3節 社会システムの文法
 第4節 真理と合理性
 第5節 記述と説明
 第6節 存在・過程・運動

第2章 「なる」ことの論理

 第1節 場と秩序
 第2節 モーフォジェネシス
 第3節 自律性と共生
 第4節 臨界と相転移
 第5節 合理性と歴史性


第Ⅱ編 心と場

第3章 心的秩序への問い

 第1節 思考と自我
 第2節 論理と知覚
 第3節 心の起源
 第4節 思考と世界

第4章 心と場

 第1節 心的秩序の原理
 第2節 心的場と思い
 第3節 思いのダイナミクス

第5章 心と自我

 第1節 心と自我
 第2節 作者と作品
 第3節 「好き」の力学
 第4節 心的秩序の形成
 第5節 アイデンティティとカオス的遍歴


第Ⅲ編 社会秩序の原理

第6章 社会秩序と場

 第1節 社会場の概念
 第2節 社会場の運動
 第3節 自己と他者

第7章 社会秩序のダイナミクス

 第1節 社会場と権力
 第2節 社会秩序と進化
 第3節 言葉と意味
 第4節 アイデンティティのダイナミクス

第8章 責任の論理

 第1節 責任の観念
 第2節 責任と因果性
 第3節 責任とは何か

第9章 倫理への問い

 第1節 社会秩序と倫理
 第2節 運動としての倫理
 第3節 結び

あとがき

参考文献

事項索引・人名索引


   装幀 鈴木敬子(pagnigh-magnigh)
   組版 武 秀樹

前書きなど

社会秩序の起源 あとがき
  本書は、心と社会を「なる」という観点から理解する一般理論の試みである。「なる」という思考法は、日本の文化だけに限られるものではないが、日本では馴染み深いものである。丸山真男は論文「歴史意識の『古層』」の中で、世界の諸神話に見られる宇宙創成論の発想を「つくる」「うむ」「なる」の三つにまとめ、これらのうち、「つくる」と「なる」が対極をなし、「うむ」はその中間に位置づけられると言う。「つくる」型の神話の代表は「神が世界を作った」とするユダヤ=キリスト教の世界創造神話であり、日本神話は「なる」発想の磁力が強い(丸山 1992: 299-300)。「つくる」と「なる」は本書の概念では言うまでもなく、「する」と「なる」に相当する。丸山はこの「なる」という考え方が、日本人の思惟の古層であると考える。この「なる」という思考法は、彼によれば「永遠不変なものが『在』る世界でもなければ、『無』へと運命づけられた世界でもなく、まさに不断に『成り成』る世界にほかなら」(同: 309)ない。

 「なる」ことが不断に「成り成る」ことであるなら、その論理はダイナミクスとしてのみ定式化できるだろう。それが本書の課題であった。さらに、丸山は「なる」ことの、今様に言えば反本質主義的な面について次のように述べる。

「漢語の『自然』が人為や作為を俟たぬ存在だという意味では、それは “nature” と同様に、『おのずから』の意に通じている。けれども『自然』にも、 “nature” にも、ものごとの本質、あるべき秩序というもう一つの重大な含意があるのに対して、和語の『おのずから』はどこまでもおのずからなる、という自然的生成の観念を中核とした言葉であって、事物の固有の本質という定義には、どこかなじまぬものがある」(同: 338)。

 「おのずから」の論理が本質の概念に馴染まないなら、それは科学の概念として好都合である。つまりそこから「なる」ことの論理を考えることができる。さらに丸山は、この「古層」の「なる」論理の重要な特質を次のように指摘する。

「規範としての『復古主義』をなじみにくくする『古層』の構造は、他面で、言葉の厳密な意味での『進歩史観』とも摩擦をおこす。なぜなら、十八世紀の古典的な進歩の観念は、いわば世俗化された摂理史観であって、その発展段階論は、ある未来の理想社会を目標として、それから逆算されるという性格を多少とも帯びている。進歩史観がどんなに人類の『限りない』進歩を雄弁に語っても、歴史の論理としてはそれは一つの完結した体系として現われるのは、そのためである。ところが『つぎつぎになりゆくいきほひ』の歴史的オプティミズムはどこまでも(生成増殖の)線型な継起であって、ここにはおよそ究極目標などというものはない。まさにそれゆえに、この古層は、進歩とではなくて生物学をモデルとした無限の適応過程としての――しかも個体の目的意識的行動の産物でない――進化(evolution)の表象とは、奇妙にも相性があうことになる」(同: 342 ルビは省略)。

 確かに彼が述べるように、「なる」論理は進化の概念と「相性があう」が、それは「奇妙」ではないことは、本文で述べた通りである。彼は「なる」という考え方をオプティミズムと評しているが、それは偏見というものだ。「進歩史観」と切り離されているという意味では、ニヒリズムとも言えるだろう。しかし学術的な探求ではより中立的な表現が望ましい。それが「なる」ことの論理である。本書はこの「なる」ことを非エルゴード世界における運動の論理として定式化した。それはサルトル風に言えば、即自と対自、すなわち自己と自由へと同時に呪われた世界である。
 非エルゴード空間における経路依存性、不可逆性、カオス的遍歴などの概念はすべて原理的な決定の不可能性を指示し、さらに原理を歴史性によって代替することを意味している。それゆえに本書の理論は、原理的決定の不可能性という点をポスト構造主義と共有するが、それに対置する歴史性はむしろ実存主義的と言えるだろう。ともあれ、複雑性科学という物理学理論の諸概念は、きわめて社会科学的なのである。この思考法に日本語以外のいかなる言語でも理解可能な普遍性を与えるためには、理論的な概念による抽象化が不可欠である。私の勤務する学部はほとんどの授業を英語で行っており、本書の内容も英語で4単位の授業として行っている。本書では「なる」過程を抽象化された概念で記述しているので、日本語でも英語でも同様に話すことができると実感している。この授業には多くの留学生が参加しているが、提出されたエッセイを読む限りでは「なる」ことの論理は十分に理解されているようだ。それはその内容が抽象概念で記述されているからだろう。
 本書の主タイトルは『社会秩序の起源』だが、これは私が大いに影響を受けたカウフマンの『秩序の起源―進化における自己組織性と選択』(Kauffman 1993)に示唆されている。カウフマンのこの本のタイトルは、ダーウィンの『種の起源』を意識したものだろう。ダーウィンが考える「起源」は、突然変異と自然淘汰である。だがランダム性から秩序がなりたつことは、不可能ではないが現実的ではない。それゆえに、高度のパタンが存在するなら、形態形成の力を考えるべきである、というのがカウフマンの『秩序の起源』の思想であり、本書の前提でもある。したがって『社会秩序の起源』の「起源」とは、モーフォジェネシスの力を意味している。
 この考え方は、自然を受動的な機械ではなく形態形成的な場として理解するものであり、社会秩序、たとえば文化も広い意味における自然現象であると考えることになる。通常、われわれは自然と文化あるいは社会をまったく別のカテゴリーで考えており、文化を自然現象であると考えることはない。だがそのような考え方は単なる常識的な憶断にすぎない。文化は脳の産物である。脳の機能はすべて自然の秩序に従っているのであり、その産物である文化や社会も自然現象と考えるのが唯一の整合的な見方であるはずだ。別の表現をすれば、この広大な全宇宙がすべて自然であるのに、その中で人間とその文化だけが自然の秩序を免れているというのは、信じがたい自己中心主義だろう。複雑性科学からすれば、モーフォジェネシスという自然法則が文化も生み出したのだ、と考えられるだろう。本書『社会秩序の起源』の草稿は、以上のような考えを展開する自然哲学の部分を含んでいたが、分量の関係からそれを割愛し、機会があれば別の書物として世に問うことにした。また、本書の英語版も準備中である。
 さらに、本書の草稿では事例として「明治維新の理解社会学」と題する節がつけられていた。その後、この部分は独立の書物として刊行されることになり、重複を避けるために削除された。その論理をここで述べておこう。通常の明治維新の物語は、方法論的個人主義にもとづいている。すなわちそれは吉田松陰や坂本龍馬などの諸個人が行ったものである、という個人レベルの「する」論理によっている。そうなると明治維新は一個の権力闘争として描かれる。そして最終的には明治政権の政治家が、近代的な制度を輸入して近代化を果たしたということになる。この物語の欠点は二つある。第一に、明治維新の意義が、歴史上無数に存在する権力闘争の一つでしかないことになる。だが私は明治維新は日本における近代化であると考える。近代化とは歴史における最大の社会変動である。いま示した通俗的な観点は、最大の社会変動を維新の志士たちが意図して行ったと見るが、近代化のような巨大な社会変動は、意図して行うことなど不可能である。それが二番目の欠点である。

近代化としての維新はモダニティの思いのダイナミクスが長期間にわたって受胎し、発酵して成長した結果であると解釈するのが妥当だろう。本書に続く『明治維新の歴史社会学』(仮題)と題する書物では、一八世紀初頭の江戸期の社会に誕生した近代的なエートスを明治維新の真の主役として描き出す。思いのダイナミクスは個人主義ではないのである。

 本書は全編が書き下ろしである。通常はその一部を論文として発表すると思うが、本書の場合はそれぞれの部分が緊密に関係しているので、一部を抜き出して論文とすることは困難だった。このような長大な著作を書き上げるためには、ずいぶんと長い年月が必要であった。おおむね二〇年弱くらいだろうか。その間、研究条件が保証されていたのは大いにありがたいことだった。だがそれも最近の競争重視の風潮からすれば、古き良き日の話となるのかもしれない。長期的に見れば、本書の探求の出発点はもっと遡ることができる。私がまだ高校一年生だった一九六九年のある日に、いつものように登校すると、私の高校は全共闘という集団によって封鎖されていた。高校は休校となり、連日のように全学集会が続き、まだ準備がなかった私は思想的な討議へといきなり放り込まれたのである。その中で圧倒的な思いの重力をもっていたのは言うまでもなくマルクス主義であり、それ以来、マルクス主義が提示する世界観に対して私自身の考えをどのようにして獲得するかということが、私にとってもっとも重要な課題となった。本書はその最終的な答えである。

 当然のことだが、本書は多くの思想や理論の恩恵と影響のもとに形成された。直接的には複雑性科学と現象学に多くを負っているのは言うまでもない。しかし内容というよりは思考のスタイルにもっとも深い影響を与えたのは、故大森荘蔵氏による「大森哲学」だろう。本書は論理的な思考を重視しているが、それは大森荘蔵とヴィトゲンシュタインに学んだものである。とりわけ本書における思考の核心となっている存在論的背理の概念は、彼らの思考に触発された。私はかつて、大森先生が教鞭を執っておられた東大駒場の学生だったが、その頃は大森哲学には興味がなく、先生の授業を受講したことはない。だから私は書物で大森哲学を学んだのである。それも悪くはないだろう。本書で大森荘蔵に言及することは多くなく、ヴィトゲンシュタインにはほとんど言及していないが、それは彼らの思想が私の考えの一番の基層をなしているためだろう。だが、大森哲学とは言ってもそれは私が勝手に学んだものだから、大森先生がご存命だとしても、本書の理論に納得されるかどうかはわからない。
 本書にいたるまでの思考の経路は、まさにカオス的遍歴の過程だった。ある時は社会学をほとんど放棄して舞踏の世界に投じたこともあった。その時は麿赤兒の大駱駝艦や土方巽のアスベスト館を文字通りカオス的に遍歴していた。とりわけ大駱駝艦の本拠地であった豊玉伽藍の魑魅魍魎の徘徊する怪しくも美しいディオニュソス世界のイメージは、本書のバックボーンとなっているかもしれない。

 かつて私がすごした東京大学大学院の社会学研究科は、非常に恵まれた場所だった。学問の世界では往々にして権力的な関係によって研究が制限されたりするという話を聞くが、私が在籍した大学院はまったく自由な雰囲気であり、ほとんど理想的な環境だったと言えるだろう。指導教官の吉田民人先生をはじめとする授業における議論も、教授と学生の区別のない真剣勝負であった。私が一時社会学を放棄して素人の舞踏家となった時も、そんな馬鹿なことはやめろと言われたことはない。それは単に無視されていただけかもしれないが、私の希望的な想像ではあらゆる試行錯誤を許容する雰囲気のせいだろう。そのような場所にいなければ、私はこのような本を書くことはなかっただろう。私は授業のほかに橋爪大三郎氏の率いる言語研究会や小室直樹先生の小室ゼミにも参加し、また慶應義塾大学の山岸健先生のゼミにも参加させていただいた。山岸ゼミ以来の畏友であり現在早稲田大学文学部の草柳千早氏には、本書の草稿をお読みいただき、貴重なコメントと激励をいただいただけでなく、マイケル・ジャクソンの文献もご教示いただいた。これらの方々に感謝したい。
 本書や関連する書物に関係する情報は、私のウェブサイト(www.sakurai.jp)に記載する予定である。関心のある方は参照されたい。
                                            著 者

上記内容は本書刊行時のものです。