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日本の心理療法 国際比較篇
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年9月
- 書店発売日
- 2017年9月5日
- 登録日
- 2017年8月8日
- 最終更新日
- 2017年9月20日
紹介
◆「日本の心理療法シリーズ」第4回配本
シリーズ第4回配本は「国際比較篇」と題しました。西洋人でありながら東洋的な価値観との精神的な融合を探求し続けたユングは、どんな経緯でこれらに関心を抱くようになったのか。ヨーロッパに長年在住した日本人の心理療法家、来日し仏門に入ったアメリカ人の心理療法家は、それぞれ異文化の中に深く身を浸した実体験からどんな洞察を得たのか。ほかにも、日本人からみた海外の心理療法家の印象、精神医療と関わる「日本的風土」など多種多様な視角から、日本の心理療法で考慮されるべき「ローカリティ」を明らかにしています。
目次
はじめに(各篇共通)
序
国際比較篇――風土・物語・局所性
第一章 分析心理学における東洋と西洋の出会い
――国際的な視点から ポール・クーグラー
●分析心理学初期の歴史 ●ブルクヘルツリ精神科クリニック ●ピエール・ジャネと心理分析
●実験精神病理学研究所 ●ジークムント・フロイトと国際精神分析学会 ●ユングの自己実験――赤の書
●アクティブ・イマジネーション――ポスト植民地時代的臨床解釈学 ●自己――心の宇宙の中心
●東洋思想との対話を開く ●エラノス――国際的視点
第二章 心理療法における「美的なもの」について 樋口和彦
はじめに
本論文の基本的な論点について
基本的に「東」とは何を意味するか?
箱庭療法(Sandspiel Therapie)のわが国への導入について
なぜ河合隼雄は箱庭療法と訳したか?
心理療法における美的基準について
エラノス会議のテーマについて再考する
絶対性・絶対的人格神の理解の重要性について
イメージの遊び
第三章 日英「暮らしの文化」比較――心理臨床家の一考察 佐山菫子
「ふるさと」の発見
文化とは何か
ロンドンでの暮らし
英国とは何か
英国の成り立ち
日本とは何か
ロンドンに暮らす日本人
おわりに
第四章 歎異抄、昔話、近代文学、そして分析 ウルスラ・ヴァイス
はじめに
導入について
●浄土真宗における教えの継承 ●分析心理学における教えの継承 ●導入段階の「長い眠り」
「門」が意味するもの
●移行と変容 ●自我からの解脱 ●門に入る葛藤 ●門を抜ける困難 ●門を見つけること
おわりに――漱石の『門』
第五章 日本体験の再発見
――海外の心理臨床家との出会いを通して 名取琢自
「信じる」ことの三つの層
西洋の心理療法家の印象
●「大人」―「子ども」バランスの安定性と融通性(やわらかく、厳しく生きている)
●率直さ・直接性(さほど裏を読まなくてよい) ●信念――芯の感触(「私」をもっている)
●理性(言語)への信頼(議論できる) ●「存在するもの」への視線(見えるものへのまなざし)
●東洋的なものや異文化の尊重
日本の心理療法での人間関係とコミュニケーション
●「大人」―「子ども」の振れ幅と堅さ ●婉曲・間接性(裏を察すること)
●「信念」への不信(「私」を通すことの不安) ●感情の影響(根に持ちやすさ)
●「見えないもの」への視線(イメージの奥へのまなざし) ●東洋的なものの当然視(「甘え」)
おわりに――シェリー・シェパード氏の論考を参照して
第六章 国際的に見た日本の心理療法
――二〇一一・九・二三会議によせて シェリー・蓮夢・シェパード
「縁」の感覚
繊細さ
守秘の「器」
スピリチュアル・タイプ
第七章 西洋のサイコセラピーと東洋の心性
――認知行動療法の歴史的変遷を通して考える 遊佐安一郎
はじめに――日本での心理療法
欧米のサイコセラピーの傾向
認知行動療法――その三つの波
●第一の波――行動療法 ●第二の波――認知療法・認知行動療法 ●第三の波――従来の認知行動療法を超える新しい波
西洋のサイコセラピーと日本の心理療法
第八章 日本的風土と精神科医療の出会い 吉村夕里
はじめに
風土との出会い
●政策転換と法整備の時代 ●運動体の葛藤と精神科リハビリテーションの隆盛 ●愛憎の風土
精神科医療をめぐる時代の地理や政治や文化
●格差の存在 ●共同体に生きる人々 ●医療中断者たちへのアプローチ ●共同体の新参者と共同体から出立する人たち
日本的風土に精神科医療が与えたもの
おわりに
おわりに
事項索引
人名索引
■装幀 虎尾 隆
前書きなど
日本の心理療法 国際比較篇 序
本書『日本の心理療法 国際比較篇』は二〇一一年九月二三日に京都文教大学で開催されたシンポジウムをもとに、各シンポジストが後日あらためて練り直し、執筆した論考を収録したものである。
ただし「国際比較」とは言っても、単に日本の心理療法を諸外国の現状とを横に並べて比較したものではなく、時間的、空間的、そして、主観的関与の深さにおいて、かなりの広がりを持った内容になっている。
比較のなかで登場する主な国は日本、スイス、アメリカ、イギリスであり、大きく見ると日本と西洋諸国に根ざした文化とその影響力の比較になっている。中国も、リヒャルト・ウィルヘルムを通してユングに影響を与えた国として、そしてクーグラーと樋口和彦が訪れ、新たな文化的展開の可能性を秘めた場所として登場している。
時間の広がりとして、一部を時系列順に挙げれば、一三世紀の親鸞と『歎異抄』、一六世紀以降の英国の歴史、一八七五年に始まるユングの生涯、夏目漱石の『門』(一九一〇)、一九二〇年代に始まる行動療法、一九五〇年代の認知行動療法、一九六〇年代以降の河合隼雄と箱庭療法、一九八四年の報徳会宇都宮病院事件から「精神保健法」(一九八七)、「精神保健福祉法」(一九九三)、PSW国家資格化(一九九七)への流れ、一九九〇年代からの認知行動療法「第三の波」、そして二一世紀初めの「現在」まで、優に八〇〇年にまたがっている。西洋的思考法の端緒たるギリシア・ローマ時代、キリスト教のはじまり、グリム童話の起源も含めれば、更に広がりは増すであろう。
そして、主観的関与の深さの点から見ても、一方ではユングの心理学と東洋との関係の歴史学的解説(クーグラー)や、認知行動療法の歴史を辿りつつ東洋文化との新しい関係の兆しの紹介(遊佐)といった、主観的体験からは少し距離を置いた広い視点からの論考があり、また一方では執筆者の生身の体験を振り返り、その実感を込めて綴られた、イギリス文化体験(佐山)、「風土」のリアリティとの取り組み(吉村)、日本という異文化に身を浸しての論考(シェパード)まで、幅広い内容になっている。ただし、こうした「関与の深さ」は文体や論考のスタイルを反映したものでもあり、一見して客観的な記述がなされているからといって、それが「浅い」ということにはならない。そのような、主観的色彩を抑えた記述の奥に、やはり体験に根ざした思いが込められていることが行間を通して伝わってくる。
このように、空間的、時間的な広がり、主観的関与のスタイルや深度に厚みがあることは、心理療法の「国際比較」において、いかに多くの要素が絡まり関係し合っているかを反映しているように思われる。そして、これら空間と時間と主観的関与を三本の柱とする鍵概念は、吉村氏が詳しく論じている「風土」であり、普遍性に対置されうる概念である「局所性」、ローカリティであろう。
ひとつの傑出した文明が地理的制約を越えて広がっていくとき、その文明を生み出し、発信元となる「中心」と、その文明を受け入れ、影響を受ける「辺境」という二つの場所が定位される。一九世紀後半から二〇世紀にかけて、西洋の機械文明や「合理的」思考法は、圧倒的な力となって「辺境」の文化に上塗りされていった。二一世紀の今日では、インターネットの普及と生活必需化に代表されるように、西洋先進国の価値観や方法論は良いもの、皆が倣うべきスタンダードとして、グローバル化が推進され、ローカルなものは価値の低い、遅れたもの、文化の「ガラパゴス」のようなイメージを押しつけられ、スタンダードに従うか、滅びるかの二者択一を突きつけられているかのようでもある。
心理臨床においても、フロイトが精神分析学を打ち立てた当初から、人類普遍の原理の追究と、生活し、悩み苦しむ個人の個別性との間の緊張関係が存在し続けている。スタンダードな理解方法に偏ると、個人の局所性はまるで植民地のように、外から植え付けられた価値観や方法論に席巻され、上書きされてしまうことになりかねない。樋口氏は文化の発展する場所という光の面から「コロニー」を取り上げているのだが、「コロニアリズム(植民地主義)」にはこうした影の側面も存在するのである。樋口氏が敬愛するジェイムズ・ヒルマンも日本文化に深い関心を寄せていて、日本語という詩的表現やイメージ表現に優れた言語が、近代西洋心理学の粗い専門用語に席巻され、日本語がこころの探究に用いられなくなってしまうような、魂のコロニアリズムとでも言うべき事態に陥ってしまうことを危惧していた(ヒルマン、二〇〇五)。
ヒルマンは「アメリカ」とは何かをテーマに対談を行っており、局所性を考える上で非常に興味深い指摘をしている(Hillman & Sells, 1998)。ヒルマンの見解を筆者なりに要約すると次のようになる。アメリカ人ほど自国(アメリカ)とは何かについて不確かな感覚を持った国民はいない。フランスや日本の人は、フランスとは何か、とか、日本とは何か、ということを根本的な問題とか未知で不確定の謎として取り上げたりしない。フランス人、日本人にとって、フランスや日本は自明の如く、過去から継続して存在し、いまも存在し続けている確かなものなのだ。それが果たして存在するのか、とか、本当は何なのか、というようなアイデンティティを問う必要などない。しかしアメリカは違う。アメリカは移民たちが「自らが耕したことのない土地」に移り住むことで開かれた、まだその土地に根ざしていない国なのだ。アメリカでは多くの人が、ローカルな土地に根ざすことなく、住みよい場所を求めて、つねに移動し続けている。自分が住んでいる地域の山の名前や地名をあまり知らないことも珍しくない。そして町には判で押したように、ショッピングモールやチェーン店が並んでいる。ローカルなもの、伝統的な土着のものにはあまり関心が持たれていない。
これに符合することと筆者も出会ったことがある。筆者は共同研究者とともに「心理療法家の職業環境の国際比較」というプロジェクトで、世界数カ国の心理臨床家にインタビューを行った。インタビュー項目には、局所性を意識した項目、「あなたが活動しているこの国・土地の伝統や文化はあなたの仕事に影響していますか」という項目を加えておいた。ヨーロッパやアジアでは、何らかの影響がある方向での言及がなされたのだが、アメリカの調査協力者(心理臨床家)の回答は筆者らの予想を裏切るものであった。そのような影響はあまりないし、考えたこともない、との回答なのだ。自分たちは転勤して活動の場所を変える機会も多く、ローカルな特性を自らのうちに育てることなく、どの場所に行っても通用する原理、方法論を体現する方向で仕事をしている。だから、どの場所で行おうが、変わりはない、というのである。
近代西洋心理学のかなりの研究は、量的にいえば、その多くがアメリカの大学で、アメリカ人によって行われている。そして、そのデータ供給源の大半は、手近な協力者、大学生であったりする。だとすると、土着の、伝統に根ざした生活感というよりも、定住生活に入る前の、自由な未来を指向するありようが、現代心理学の基本データとして採用されていて、人間観にも反映されているかもしれない。自由に移動でき、観察主体も交換可能である、というのが科学的心理学の基本モデルだとすれば、そのモデルが有効な心理療法だとみなす方法も、地域に根ざした土着のものというより、局所性や歴史的経緯に左右されない、普遍的で汎用性の高いものを志向することになろう。
ここで反対に思い出されるのが、ヒポクラテスの医学である。「ヒポクラテスの誓い」のことは臨床領域に携わる人にはよく知られている。彼らが実践していた医術の記述を読むと、病いと「土地」との関わりを重視していたことがわかる。乾いた土地、湿った土地といった、患者が生まれ育ち、生活している土地の様相によって、体質や気質、発生しやすい病気も違ってくる。これが医師がわきまえておくべき基本的事実として記されている。ローカリティ、局所性、その土地の質を知ることが、医学の出発点であり、実践のための教えでもあったのだ。とすれば、本シンポジウムの「日本の心理療法」という発想は、この古代ギリシアの医学と視点を共有しているとみなせなくもない。
日本にユング心理学とその深層心理学に根ざした心理療法を導入した第一人者であり、京都文教大学の学術顧問でもあった河合隼雄も、こころの文化の局所性を尊重していた。一九九五年、阪神淡路大震災のさい、
筆者はヨーロッパのある国の災害時のこころのケアの専門チームから、派遣要請をしてもらえれば、救援にかけつけることができる、との打診を受けて、学会の代表を務めていた河合隼雄に相談したことがある。氏は真摯にこれを受けとめ、対応してくださったのだが、留意すべき大事なポイントとして、こう言われた。「日本の文化をよくわかっている人に入ってもらわないと。西洋のものをそのまま持ってきてもうまくいかないかもしれない」と。これは西洋の知を学び、その価値と威力をよく知る氏の言葉であるがゆえに、格別の重さをもって筆者のこころに今も響いている。
本書を貫くもう一つのテーマは、異文化との葛藤である。日本という「局所」で育ち、そのローカルな文化を身に纏った人間が、異なる土地、異なる文化のなかに身を投じて、生活し、その場所に根ざした心理療法を学び、実践するとはどういうことなのか。異文化は、旅人として、お客として触れるときは、魅力的で、心地よい驚きに満ちたものになるかもしれない。しかし、その地、その文化のなかで「住む」ことになると、お客さん扱いでは見えてこなかった厳しく悩ましい面に遭遇することになる。日本の心理療法の進展に寄与した先人達の多くは、外国で当地の心理療法を学び、日本に持ち帰る経験をしている。その過程では、異文化との(必ずしも心地よくない)直面があり、そこからあらためて自分が属している文化を発見し、意味を問い直す作業が行われ、そこから心理療法を日本で行う上で考慮すべき点が見出されたことであろう。土井健郎の「甘え理論」も河合隼雄の「母性原理」「中空構造」「場の倫理」論なども、異文化との接触から生まれた着想とみなすことができよう。こうした理論は、その成果は論文や著作で触れることができるが、着想のもととなった経験そのものはあまり詳しく語られないものである。佐山氏のイギリス体験、シェパード氏の日本文化体験、そして、吉村氏の「風土」体験はそれぞれが生身のリアリティに根ざしており、追体験できるかのような迫力に満ちている。
ところで、「心理療法」という営みを「局所性」や「コロニアリズム」を鍵概念として捉え直すことも可能かもしれない。誕生の時、家族や土地を自分で選ぶことはできず、新生児として、その人間関係や環境の中に生まれてくるしかない。個人であるということには、「局所性」を引き受け、受け入れるということも内包されているのである。そしてたとえば、自らの局所性を無視したり、見失ったりしたまま、外から押し寄せてくるスタンダードなものに追従したり、侵入されたりすれば、どうなるであろうか。それはおそらく個人の魂にとって、危険な事態であろう。ユング心理学の「個性化」や「自己実現」は、個人の局所性と普遍的なものとの緊張関係が不可避であること、そしてそれらの妥協や相互理解に向かうことに生産的な価値があることを意味しているとも考えられる。
各論考は、日本文化や日本の心理療法を身をもって知っている心理臨床家が、それぞれの実体験をもとに、日本の心理療法とその「国際比較」を見つめながら言語化したものであり、一見すると「日本の心理療法」があまり直接表面に姿を見せていないように見受けられるものもあるかもしれないが、「局所性」あるいは「風土」をキーワードとして補助線を引いてお読みいただければ幸いである。
最後に、シンポジスト・執筆者の樋口和彦氏は二〇一三年八月二五日に逝去された。クーグラー氏の招聘にも尽力くださり、暖かくユーモラスな語り口で日本の心理療法と世界の行く末について、貴重な手がかりを含んだ論文を寄せてくださったことに心から感謝したい。
名取琢自
上記内容は本書刊行時のものです。