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展示される大和魂
国民精神の系譜
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年3月
- 書店発売日
- 2017年3月31日
- 登録日
- 2017年3月9日
- 最終更新日
- 2017年12月20日
書評掲載情報
2021-11-27 |
朝日新聞
朝刊 評者: 生井英考(立教大学アメリカ研究所所員) |
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紹介
◆大和魂は何に宿るのか
「日本人は勤勉で器用で献身的で……」などと国民性を強調する本や番組が増えています。とりわけ精神面を賛美する概念が「大和魂」でしょう。この言葉はときにナショナリズム批判の観点から否定されますが、モノやヒトをもって例示され、それが快楽として受容されることで広がりを持ったという歴史は無視できません。単純な否定ではなく、明治から現代までの偉人イメージ、展覧会、史跡、イベント、映画といった具体的な現れをつぶさに見ることで、国民精神がいかに語られ、提示され、そして楽しまれてきたかを追います。政治的立場にかかわらず重要となる、国民アイデンティティの再考の試みです。
目次
展示される大和魂 目次
はじめに
第一章 大和魂の近代性と言語
一 大和魂とは何ぞや
二 明治時代における「新」大和魂
三 自然・特性としての大和魂
四 渦巻く概念たち
五 戦争と大和魂
第二章 受肉する大和魂
一 偉人たちの近代
二 大和魂の権化―楠木正成
三 日本精神の体現者たち
第三章 国民精神の物質・視覚性
一 展示される大和魂と日本精神
二 大和魂の物質的土台
第四章 快楽としての大和魂
一 大和魂と体験
二 消費・地域・大和魂
三 大和魂の身体
第五章 大和魂の現代性
一 第一の戦後から第二の戦後まで
二 第三の戦後における大和魂
三 大和魂の物質性
四 人間あらざるものと日本的なるものの現在
おわりに
参考文献
装幀―はんぺんデザイン 吉名 昌
前書きなど
展示される大和魂 はじめに(一部抜粋)
国民精神という幽霊
一匹の幽霊が世界を徘徊している―ナショナリズムという幽霊が。
おおよそ世界中のあらゆる国民たちがこの幽霊の歓迎をそれぞれの国内で目撃している。ドナルド・トランプが熱狂的支持を獲得したアメリカで、EUからの脱退を決めたイギリスで、ISのテロに応じるフランスで、そして近隣諸国との政治的緊張関係と融和を演出する日本で。あるときには強まり、別のときには姿を隠す幽霊のごときものである。
一国の国民や民族を一つの文化的共同体と見なし、その統一発展や、他からの独立をめざす思想あるいは運動であるナショナリズムは、世界を標準化し平均化するグローバリゼーションにおいては縮小していくものと考えられてきた。しかし実際にはグローバリゼーションの進展にもかかわらず、いやだからこそ世界の各地でナショナリズムが勃興している。グローバリゼーションは世界の平衡化や標準化をもたらしていない。反対にグローバリゼーションはむしろ世界の標準化に抗するための国民アイデンティティの強化とその帰結としてのナショナリズムをもたらしている。
ナショナリズムは官製ばかりではない。むしろ日常生活における人びとの誇りや他国への嫌悪をとおして喚起され続けている。日本の技、日本人の海外での貢献ぶりを伝える近年のテレビ番組、「侍」「魂」「なでしこ」を冠したスポーツの日本代表チーム名、オリンピックで個人の成績を日本のそれに置き換える傾向はナショナリズムの日常的な光景であり、そうした強さや誇りへの渇望こそがこの国のナショナリズムを支えている。そして日常的なナショナリズムは、排外ナショナリズムと呼ばれる中国や韓国、北朝鮮や在日朝鮮人への激しい憎悪と表裏をなしている。私たちはこのようなナショナリズムを今、まさに経験している。
ナショナリズムは国民が一つの共同体であるという前提を持っている。この共同性は、ある国の人びとがその場所に古来住み着いてきた、その人びとが国家に愛着を持っている、その気持ちが広く共有されている、という考えによって担保されている。たとえば日本の安倍晋三内閣総理大臣は自著において「自分の帰属する場所とは、自らの国をおいてほかにはない。自らが帰属する国が紡いできた歴史や伝統、また文化に誇りをもちたいと思うのは、だれがなんといおうと、本来、ごく自然の感情なのである」(安倍 二〇〇六:九一頁)と語っている。国家と個人の帰属が「自然」で自明のものとされている。日本に生まれたなら、日本に対して帰属意識を持つのが当然というわけである。
この論法には、いくつかの問題が含まれている。「日本」という国が近代にできたものであること、それにともない日本人という存在が画定されたことが語られない。また、「日本人」というカテゴリーだけが自明のものとして強調され、より小さなコミュニティ、性別といったそれ以外の帰属意識の在り方が隠されている。日本に生まれたなら、日本人として日本とその伝統文化を誇りにするのは当然だというわけだ。
歴史、伝統、文化という言葉は、人びとの美的な感性に訴えかける言葉である。しかしそうした言葉は、日本における政治的かつ経済的な不平等とそれによる「ひとしなみの国民」という観念が抱える諸矛盾を覆い隠してはいないだろうか。いったいどのようにしてそうした美的な言葉が国民の誇りやアイデンティティを醸成したり強化したりするだろうか。それを理解するために必要なことの一つは、そのようなアイデンティティの基礎をなすと信じられている国民性が作られていく過程をつまびらかにすることである。
国民性の幻想は国民の精神という前提によって裏打ちされる。本書が考えたいのは、日本人の国民精神が明治時代から現代までどのように語られ、提示され、それが国民によって楽しまれてきたのかという問題である。大和魂や日本人の精神性が存在するかということではない。大和魂や日本精神といったものは日本古来の精神性だと信じる人たちもいるだろうが、この本の中で提示するように、「大和魂」という考えが記され始めるのは江戸時代末期であり、強調されるのは戦時中である。大和魂、日本精神などの言葉を手がかりにして、日本国民のアイデンティティが持ってきた言語性、物質性、愉楽性、そして身体性を考えてみたい。
ここまで読み進めた人のなかには、本書を「サヨク」の腐臭がすると断じる向きもあろう。しかし私はウヨク、サヨク、あるいはそのどちらでもない人たち全員にとって、日本国民のアイデンティティとはいったいどのように語られ、提示されてきたのかを考えることが重要だと考えている。日本人には独自の精神性や精神構造が存在するのだと主張する人たち、あるいはそれは単なるイデオロギーだと主張する人たちともに、その精神性が語られ提示されてきたその歴史性を知ることでこの国の来し方と有り様をより豊かな言葉で表現することができるのではないか。近年の政治や文化に関する言葉の語彙は非常に単純化してしまっており、サヨクや革新と自称する人たちにもその傾向は著しい。愛国心に燃える日本国民をイデオロギーに踊る愚かな大衆と捉えるのではなく、彼らがいったい何に惹かれているのかを見定める努力が必要だろう。
上記内容は本書刊行時のものです。