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日本の心理療法 身体篇
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年2月
- 書店発売日
- 2017年2月10日
- 登録日
- 2017年1月13日
- 最終更新日
- 2017年2月16日
紹介
◆「日本の心理療法シリーズ」第3回配本
「日本の心理療法シリーズ」第3回配本は「身体篇」と題し、心の癒しに関わる身体接触に焦点を当てました。西洋では挨拶場面での握手やハグなど身体接触は日常的ですが、日本人にはあまり馴染みなく、一般的なカウンセリング場面においてはむしろ禁忌ともいえる扱いです。本篇は、そのような文化的背景を持つ日本において実践され受け入れられている、身体性と深く関わるセラピーを四つ取り上げました。動作法、和太鼓演奏、歩き遍路、気功が登場し、それらが癒しをもたらす仕組みと理由が解説・考察されます。
目次
日本の心理療法 身体篇 目次
はじめに(各篇共通)
序
身体篇――わたしの自然をもとめて
第一章 臨床動作法と日本的心理療法 鶴 光代
日本で生まれた臨床動作法、その誕生と展開
●催眠法による脳性まひのひとの動きの改善 ●「動作」の概念と動作訓練
●自閉や多動の子どもへの動作訓練法の適用 ●「動作法」という概念の創出
●心理療法としての動作法 ●臨床動作法適用の広がりにみる日本的心理療法
●心理リハビリテイションとしての展開 ●心理リハビリテイションと日本人の心性
臨床動作法の技法――型から入り型から出る
●体験治療論と課題努力法 ●臨床動作法の考え方 ●動作療法の実際
●援助過程にみる型
日本文化にみる型と臨床動作法の型
●型について ●世阿弥にみる型 ●「守・破・離」について ●臨床動作法における型
第二章 和太鼓演奏における身体の体験
――皮膚感覚・運動感覚・深部感覚の心理臨床学的有用性 清源友香奈
はじめに
和太鼓演奏における身体の体験
●皮膚感覚の体験と体験の心理臨床学的有用性 ●運動感覚の体験と体験の心理臨床学的有用性
能動的でない運動感覚の体験について
●体性感覚の体験
自分で演奏するということの意味
体性感覚の体験の心理臨床学的有用性
●深部感覚の体験
身体の捉え方と身体感覚の位置づけ
深部感覚の体験の心理臨床学的有用性
語りとバウム
実存的身体心像――バウムの重さという視点
まとめ――身体感覚の心理臨床学的有用性
おわりに
第三章 歩き遍路の身体性――心理臨床への道程 北村香織
はじめに
遍路とはなにか
遍路の今昔
●癒しの時代
昨今のお遍路事情
歩き遍路の心理療法性
●日本的心理療法の特徴について ●身体とのつながり ●歩き遍路の身体性
●自然(しぜん/じねん)とのつながり ●人とのつながり
身体を生きる心理臨床
おわりに
第四章 気と身体――気のせいか、気のおかげか 濱野清志
はじめに
臨床心理学とは何か――一人称の科学の視点
イメージ体験としての気
私の身体について
気功からみた私の身体――鬆静自然
内丹における気――イメージ領域の身体を生む
この宇宙の座標軸の原点を創造する
王として立つこと …… 163
身体感覚体験の重視――気のせいと気のおかげ
音としての気――カキクケコの意味
身体篇――ディスカッション
おわりに
事項索引
人名索引
■装幀 虎尾 隆
前書きなど
日本の心理療法 身体篇 序
本書は二〇一二年三月二四日、京都文教大学で行われた公開シンポジウム『日本の心理療法 身体篇』が元となっている。それから本書出版までに思わぬ歳月を要してしまった。シンポジウムをまず文字起こしし、それを各先生方に加筆・修正していただくというプロセスのなかで――これは長文執筆の経験がある方ならご理解いただけると思うが――思わぬ行き詰まり・障壁に阻まれることがある。この「壁」は、真っ向から乗り越えようとさえしなければ意外にすんなり迂回できたりもする。しかしそれをしてしまうと、論文完成後の満足感・納得感が、言うまでもなく、低下してしまう。
本書の執筆者のうち、お二人はごく早期に論文を提出してくださった。あとお二人におかれては数年もの時を要した。この遅れはひとえに編者たる秋田の怠慢に帰されるべきであるが、それにもまして執筆遅延のお二人が、論文記述途上に立ち現れる様々な困難を正面から受け止め、乗り越える作業をしてくださった賜物でもまたある。このことは、本書に目を通していただければ即座に了解していただけるであろう。
と言って、早期提出のお二人の論文がいい加減なものであるはずもない。「立ち現れる壁」に猛スピードでぶつかり突破。あるいは、時に、迂回ということではなく、ハードルを、才能とエネルギーで軽やかにクリアし、一気に仕上げてくださった。
小説や音楽、さらにはすべての芸術作品がそうであるように、一気に仕上げてしまうほうが良いものができる、というわけでは必ずしもない。逆に、時間をかけて練り上げたほうがレベルの高いものができる、というわけでもまた必ずしもない。その時々の自分の状況に従って作品が完成されていく。
この度、奇くしくも「遅・速」が二対二に分かれてしまった。答えは記さぬが、どの論文が……と想像しつつ読んでいただくのもまた一興かと。ともあれ、でき上がった本書は若干の自負をもって読み直すことができる。先ほど編者の「怠慢」と書いたが、長年心理療法に携わっている私が身につけた「時を待つ能力」が発揮されたという言い方をしても、あながち言い過ぎにはならないであろう。
ところで、本書は『身体篇』であるが、心理療法における身体の問題はかなりの難問である。
医学においては、精神科を除き、身体そのものが研究対象となる。医学の一領域として組み込まれた精神医学もおのずと身体を抜きにしては語り得ない(注1)。ごく一例を挙げれば、器質性精神病の問題があるし、脳内物質と精神症状を関連づけずして、もはや何事も語れない。
私は精神科医としてキャリアを始め、今は精神療法家を名のれる身でもある。当初、神経精神医学教室に所属していたため、神経学も修めた。筋萎縮性側索硬化症など、さまざまな神経難病の患者さんを担当させていただいたゆえ、患者さんへの触診、つまり身体への接触は日常的行為であった。が、神経精神科医から精神科医へと特化していく途上において次第に身体接触は減じていった。今では、たとえば、すごく不安の高い患者さんの不安を少しでも和らげるために脈をとる、といった行為を試みる以外にはほとんど患者さんの身体に触れることはなくなった。精神科医としての私の精神療法家性が高まるにつれ、それは、不必要ないし有害な転移を避けるため、治療を安定させることを念頭においてのことである。
ましてや、医者という立場を離れ、カウンセラーつまり心理療法家としてクライエントさんに一回五〇分と時間を区切りお会いする際、身体接触は、まず、ない。西洋においては、握手で始まり握手で終わる。日本では、礼に始まり礼で終わる。
私は九三年から九六年まで、スイスで訓練を受けた。ある時、分析家に「日本人は本当に身体に触れ合わないのね。こんなことがあったわ。ある日本人女性と初めて会ったとき握手をしたの。そしたら、その日本人女性は突然泣き始めた。驚き、理由を尋ねると、人に触れるのが久しぶりなので感情がつい……とおっしゃったの。本当にびっくりしたわ」と言われた。
これは治療論を超えて、日本文化の持つ負の側面の一つであろう。握手をしたり、ハグをしたり、あるいはキスさえもごく一般的な風景である西洋は身体接触豊かな文化である。彼らにとっては当たり前のこと過ぎて、そのプラス面に気づいていないかもしれない。
ある高名なユング派分析家が「日本人の孤独は谷底の孤独である。つまり、土や木や川に包まれている。それに対し、西洋人の孤独は山の頂に立っている孤独である。個が確立されすぎているがゆえに、それを包むものがない」と述べていたが、前記、身体接触のことを考慮に入れると、必ずしもそうとは言えない。「山頂の孤独」という言い方をするならば、西洋においては心理的「山頂の孤独」を身体接触で補償している、という見方も可能であろう。
ともあれ、日本の一般的カウンセリング場面において、身体接触は禁忌とさえ呼べる扱いである。西洋で訓練を受けたセラピストのなかには、クライエントと握手する人がいる。どういう認識でそれを為しているかは、それぞれであろうが、単なる西洋かぶれ、つまり西洋で学んだ心理療法を、日本のそれよりも上位に位置づけるような認識では話にならぬ。が、たとえば、先ほど述べたような身体接触のプラス面を考えてのことであれば許されてしかるべきである。
ただ、握手と言えども日本文化になじみ切ってはいない所作であり、それの持つ意味についてはケースごとに丹念な「考察」が必要である。
さて、本書では身体性が深く関わる日本ないしは東洋生まれのセラピーが四つも(!)深く論ぜられている。
「臨床動作法」は、身体接触抜きには語れない。本書においては、ありがたすぎることに、その第一人者にご執筆いただくことができた。氏ならではの洞察をご堪能いただきたい。
続く「和太鼓」はまだ「療法」としての確立をみてはいない。おそらく、遠くない将来(と言っても数十年は必要か)確立されるであろう「和太鼓療法」のそのごく初期段階での報告を聞けることは大きな喜びである。
「遍路」もまた療法と呼べる段階ではない。そして、それを目指す必要もないのかもしれない。遍路は遍路のままで、変に療法性に引っ張られすぎることなく、深く静かに四国はその場を与えればよいであろう。北村は遍路を自らの心理療法に用いることはもちろんしていないが、北村自身の心理療法のなかに遍路はしっかりと根づいている。その様子を垣間見る機会を与えてくださったことに感謝する。
最後の「気功」論文は同僚の濱野によって書かれたものである。同僚ゆえ学内で毎日のようにお見掛けするのだが、氏自身の存在が気功的と言おうか東洋医学的と呼ぶべきか、マジカルあるいは神秘性を漂わせた御仁でありつつ、いわゆる現実・社会的なところにもきちんと根を張っている稀有な存在。そのあたりをお知りおきいただいた上でお読みいただくと一層、氏の言わんとするところが伝わってくるのではないか。
それでは、そろそろ本題へと。
秋田 巌
注1 この点に関しては、拙著『さまよえる狂気』(二〇一二年 創元社)で詳述した。ご興味おありの向きにはお目通しいただければと思う。
上記内容は本書刊行時のものです。