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越境する一九六〇年代
米国・日本・西欧の国際比較
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2012年5月
- 書店発売日
- 2012年5月23日
- 登録日
- 2012年3月22日
- 最終更新日
- 2022年1月25日
紹介
近年、1960年代研究は極めて活発で、論争的な様相を呈している。また、60年代の
社会運動は、国際的な「同時性」が顕著であり、“global sixties”として把握する視点
も登場している。
本書は、米国を中心として日・西欧との国際比較を試みた初めての実証研究。
1960年代の様々な社会運動には運動グループ間の「越境」とともに、メディアの影響
も加わって、「国際的越境」も見られた。本書ではこの二重の「越境」に焦点を当てる
とともに、社会運動とその「越境」が各国の文化変容に与えた影響にも注目。
それは、1960年代の社会運動が政治運動としては挫折したケースが多かったにも
かかわらず、「文化革命」としては大きな影響を残した点を浮き彫りにする。
目次
目 次
序章 一九六〇年代研究の国際比較――証言と歴史研究の間………………………………………………油井大三郎 11
はじめに 12
一 創生期の新左翼とその多様性 14
二 新左翼運動の急進化とその原因 18
三 一九六〇年代学生運動の時期区分とその思想 23
四 新左翼の衰退原因 28
結びにかえて 29
第Ⅰ部 米国ニューレフトとヴェトナム反戦運動
1 民主的文化、社会変革運動、そして国際的六〇年代…………………………………デーヴィッド・ファーバー 35
一 民主的文化の国際的な探求 36
二 文化における反乱 42
三 ラディカルたちの新しい方向 45
2 「三つの世界」のなかのアメリカ「六〇年代」
――ニューヨーク自由大学とニューレフトの「革命」………………………………梅崎 透 51
はじめに 52
一 アメリカ知識人と「第三世界」 54
二 ニューヨーク自由大学(FUNY)の誕生 57
三 FUNYのあたらしい教育と政治 62
四 ポスト六八年 67
おわりに 69
3 アメリカにおけるヴェトナム反戦運動とその遺産
――ヴェトナム帰還兵・「アメリカの戦争犯罪」、国際的連関……………………藤本 博 71
はじめに 72
一 「ラッセル法廷」(一九六七年)とヴェトナム帰還兵の証言 74
二 VVAWの結成(一九六七年)から「ソンミ虐殺」の露見(一九六九年)へ
――米国内における「戦争犯罪」告発の開始 76
三 VVAWによる 「冬の兵士」調査会の開催と「戦争犯罪」告発の国際的展開 83
四 ヴェトナム戦争期における米国内の「戦争犯罪」告発の今日的遺産 88
結びにかえて 90
4 米国環境運動をめぐる二つの越境
――アーノルド・バインダー、ムレイ・ブクチン、ジョセフ・サックス…………小塩和人 93
はじめに 94
一 環境問題の気づき――六〇年代との関連 95
二 問題解決への対応――一つの越境 98
三 もう一つのソーシャル・エコロジー 101
四 日米環境法の関係――もう一つの越境 104
おわりに 108
第Ⅱ部 越境するマイノリティ運動
5 ガーナにおけるアフリカ系アメリカ人亡命者と一九六〇年代の「長く暑い夏」……ケヴィン・ゲインズ 111
はじめに 112
一 アフリカの年とパトリス・ルムンバの死 113
二 新しいアフロ・アメリカン・ナショナリズム 116
三 マルコムXとガーナのアフリカ系アメリカ人亡命者たち 118
四 トランスナショナルなシティズンシップとアフリカ系アメリカ人亡命者たちの遺産 120
6 「公民権物語」の限界と長い公民権運動論
――ウィリアムス、キング、デトロイト・グラスルーツの急進主義に関する一考察……………藤永康政 123
はじめに 124
一 長い公民権運動論――「公民権物語」と二元論の功罪 126
二 ロバート・F・ウィリアムス──南部と北部、アメリカと第三世界、非暴力と暴力の出会う場 128
三 デトロイト・グラスルーツとキング 133
おわりに 140
7 一九六〇年代の先住民運動――レッド・パワーと越境…………………………………内田綾子 143
はじめに 144
一 先住民運動と国内越境 145
二 レッド・パワーと越境の諸相 151
三 先住民運動と国際越境 156
おわりに 158
8 アメリカの福祉権運動と人種、階級、ジェンダー――「ワークフェア」との闘……土屋和代 161
はじめに 162
一 全米福祉権団体(NWRO)設立の背景 165
二 「就労奨励プログラム」と(再)貧困化 170
三 福祉権をもとめて 173
おわりに 182
第Ⅲ部 越境する女性運動
9 リスペクタビリティという問題
――一九六〇年代のアメリカにおける性とジェンダーをめぐる闘い………ベス・ベイリー 187
はじめに 188
一 リスペクタビリティの重要性 191
二 リベラル・フェミニズムの論理 194
三 根本的な対立 195
おわりに 199
10 ニューヨークの女性解放運動とラディカル・フェミニズムの理論形成…………………栗原涼子 201
はじめに 202
一 女性解放運動の原点としてのニューヨークラディカルウイメン 205
二 レッドストッキングズとフェミニズム理論構築 214
三 ラディカルフェミニズムの越境――家事労働有償化論争とレズビアンフェミニズムに見る国境、人種の越境 216
おわりに 219
11 日本のウーマンリブと「女のからだ」………………………………………………………豊田真穂 223
はじめに 224
一「女のからだ」とは 226
二 中絶は女性の権利か 232
三 ピル解禁をめぐる論争 236
おわりにかえて――「女のからだ」を通した経験とその越境 243
第Ⅳ部 一九六〇年代ヨーロッパの越境
12 ヨーロッパにおける「一九六八年」………………………………………ヨアヒム・シャルロート 251
一 遂行性の発見──ヨーロッパからアメリカへ、そして再びヨーロッパへ 252
二 一、二、三……ヨーロッパにおける沢山の一九六八年 255
三 一九六八年のポップ・カルチャーの次元 258
四 抗議運動の遂行的形式 259
おわりに 261
13 西ドイツ新左翼における「アメリカ」の受容………………………………………………井関正久 263
はじめに 264
一 アメリカ抗議文化の導入 267
二 ブラックパワー運動への傾倒 271
三 学生運動衰退後の「アメリカ」受容 276
おわりに 280
14 一九六〇年代フランスにおける政治文化の形成
――社会的アクターとしての『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』…………中村 督 283
はじめに 284
一 「政治」から「政治的なるもの」へ 287
二 脱政治化から政治意識の覚醒へ 292
三 六八年「五月」と『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』 297
おわりに 292
15 イタリア・カトリックの「六八年」――ミラーノの学生、聖職者の抗議運動を中心に…八十田博人 305
はじめに 306
一 「不同意のカトリック教徒」たち 310
二 運動の舞台としてのミラーノ 314
三 ミラーノの学生運動――カトリック大学を中心に 317
四 教会から社会へ 323
おわりに 328
あとがき………………………………………………………………………………………………………… 331
註……………………………………………………………………………………………………………… 21
索引……………………………………………………………………………………………………………… 1
前書きなど
あとがき
本書は、一九六〇年代を経験した世代と経験していない若い世代の研究者による共同研究の成果である。経験した世代にとっては自分の青春時代を再訪する懐かしさと苦しさがあった。ヴェトナム反戦運動や大学闘争に参加する中で変わっていった「自己」の確認は、一九六〇年代を体験した世代なら誰もが実感することであり、自己変革過程の再訪には「懐かしさ」が伴う。しかし、その体験の中には党派対立の「苦い体験」や運動に挫折し、大学を去っていった仲間の思い出なども重なるのであり、そこには「苦しさ」も伴うのである。
しかし、経験のない若い世代が一九六〇年代に学問的、思想的関心を持ってくれることは経験者にとってうれしいことであった。すっかり学生運動が影を潜めた時代に育った若い世代の研究者からすれば、書籍から学ぶだけでなく、体験者の証言から学ぶことも貴重なことであったのだろう。
勿論、本書は、一九六〇年代の社会運動に関する学術的、実証的研究をめざしたものであり、運動の政治性や党派性に対しては極力、批判的な姿勢を貫いて執筆したつもりである。その点で、直接運動に関わった指導者などの「証言」にみられる「熱さ」や「生々しさ」とは異なる基調にあると思うが、個々の貴重な「証言」を「全体史」のなかに組み入れることの重要さは多くのメンバーが自覚してきたと思われる。
本書は、二〇〇七年から二〇一〇年までの四年間、科学研究費・基盤研究Aの助成を受けて続けられた「一九六〇年代の米国における社会運動の越境と文化変容に関する総合的研究」(代表・油井大三郎)の成果である。米国に重点を置いたが、当初から西欧や日本の専門家も加わり、国際比較を追及してきた。二〇一〇年一二月一一日には上智大学アメリカ・カナダ研究所と共催で「一九六〇年代の「脱神話化」──国境と社会集団の差異を超えて──」と題した国際シンポジウムを開催し、米国、ドイツ、日本の国際比較をおこなった。
そのプログラムは次のようなものであった。
第一部 国際的越境のなかの一九六〇年代
司会 井関正久(中央大学)
報告 デヴィッド・ファーバー(テンプル大学)「民主的文化、社会変革運動と国際的一九六〇年代」
ヨアヒム・シャルロート(獨協大学)「『プラハの春』と『フランスの五月』の間──ヨーロッパにおける
一九六〇―七〇年代抗議運動の国際的次元──」
油井大三郎(東京女子大学)「一九六〇年代解釈の日米比較──証言と歴史研究の間──」
コメント 大嶽秀夫(同志社女子大学)
第二部 一九六〇年代の米国における社会運動の相互連関と文化変容
司会 小塩和人(上智大学)
報告 ケヴィン・K・ゲインズ(ミシガン大学)「ガーナにおけるアフリカ系アメリカ人亡命者と一九六〇年代
の『長く暑い夏』」
梅崎 透(フェリス女学院大学)「『三つの世界』の時代におけるアメリカ一九六〇年代──国境を越える
想像力と『連帯』」
藤本 博(南山大学)「アメリカにおけるヴェトナム反戦運動とその遺産―ヴェトナム帰還兵・『アメリカ
の戦争犯罪』、国際的連関──」
ベス・ベイリー(テンプル大学)「女性を定義する──一九六〇年代のアメリカにおける性とジェンダー
をめぐる闘争」
コメント 有賀夏紀(埼玉大学)
本書には、この国際シンポジウムに提出された米国三名、ドイツ一名のペーパーを翻訳の上、収録した他、日本側の論文は、国際シンポジウムでの報告者とそれ以外の研究会メンバー全員が新たに書き下したものである。
また、本研究プロジェクトでは、今後、一九六〇年代の社会運動に関する実証的な研究が着実に進展するためには一次史料の収集と公開が重要と考え、米国の関連史料に集中してマイクロフィルムによる収集に努力してきた。その結果、ケネディ・ジョンソン政権期の公民権政策関係、ヴェトナム反戦運動、左翼系地方誌、女性解放運動、先住民運動、環境保護運動などに関するマイクロフィルムを収集し、東京大学大学院総合文化研究科附属アメリカ太平洋地域研究センター図書館に寄贈した。同時に、このコレクションの内容と西欧における社会運動関係史料の保存・公開状況を説明したパンフレットも刊行し、上記図書館に寄贈したので、関心のある人に大いに利用していただきたい。
最後に、本書の作成についてであるが、四年間に渡り年四~五回のペースで研究会を開催するとともに、海外調査にも従事した。また、合宿を開催して、各論文の相互連関をつける努力をした上で、国際シンポジウムででた論点を意識して最終的な構成を決定した。その上で執筆作業に入ったが、研究会専用のメーリング・リストで意見交換を進めながら、原稿の調整もおこなった。特に、全体の総論的な位置を占める序章の執筆にあたっては、第一次稿に対して西欧関係や環境保護運動関係のメンバーから貴重なコメントをいただき、内容を充実させることができた。勿論、最終的な文責は油井にあるが、記して感謝する次第である。
また、学術書の刊行がますます困難になっているにも拘わらず、あえて出版に協力してくださった彩流社の竹内淳夫社長に感謝を表明したい。彩流社では一九六〇年代に関する多くの出版を進めてこられただけに本書も彩流社から出版できたことを喜んでいる。
今後は、本書が多くの読者をえて、一九六〇年代研究の進展に少しでも貢献できることを願っている。
二〇一二年三月
編者 油井大三郎
版元から一言
序 章 一九六〇年代研究の国際比較――証言と歴史研究の間
油井大三郎
はじめに
証言と研究の活発化
一九九〇年代以降、日本では、一九六〇年代の社会運動体験者の証言や研究者による歴史研究が続々と刊行されている。それは体験者がほぼ六〇歳前後の定年期を迎え、自分の青年期を振り返えりたい心境になったことなどに由来する。また、米国の場合は、一九八〇年代以降に保守的論調が強まる中で、一九六〇年代を「伝統的価値の破壊」や「大きな政府」形成の起源として否定的に評価する研究が出始めたことに対して、一九六〇年代の社会運動に関わり、その後研究者になった人々からの反論的研究も多数出版されてきたことによる。さらに、ドイツでは一九九八年に成立した社会民主党と緑の党の連立政権のシュレーダー首相やフィッシャー外相が「一九六八年世代」に属すると考えられたため、マスコミも含めて、一九六八年の評価をめぐり激しい論争が展開された。また、フランスでは、一九八一年六月にミッテラン社共連立政権が成立し、「一九六八年五月」に関係した知識人がブレーンとして加わったが、各種の改良が実践される中でかえって「一九六八年五月」は忘却された。むしろ、「六八年」から四〇年が経過し、保守のサルコジ大統領が「六八年五月の清算」を提唱したため、論争が浮上したという皮肉な展開がみられたという。また、東欧では一九八〇年代末の「東欧革命」との関連で、一九六八年の「プラハの春」の見直しが進んできた。
つまり、二一世紀初頭の現在では一九六〇年代研究は極めて活発で、論争的な様相を呈している。それだけに個々の体験者の貴重な証言をどう全体的な歴史研究に統合してゆくか、また、テーマが極めて論争的であるだけに、まずは基礎的な史料を収集し、実証的に史実を確定してゆく地道な努力が重要になっている。また、一九六〇年代の社会運動は国際的な「同時性」が顕著であり、近年の研究では “global sixties”として把握する視点も登場しているだけに、国際的な比較研究が重要になっている。その際、日・米・西欧などの「先進国」間比較とともに、キューバ革命からヴェトナム戦争に至る「第三世界革命」との連関も興味深い論点となる。
本書は、まさに米国を中心として日・西欧との国際比較を試みた日本では初めての実証研究となるだろう。一九六〇年代の様々な社会運動の間には運動グループ間の「越境」とともに、テレビなどのメディアの影響も加わって、「国際的越境」も見られた。それ故、本研究ではこの二重の「越境」に注目するとともに、社会運動とその「越境」が各国の文化変容に与えた影響にも注目した。それは、一九六〇年代の社会運動が政治運動としては挫折したケースが多かったが、「文化革命」としては大きな影響を残した点に注目するためである。
新左翼の国際比較
次に、この序章では、一九六〇年代の各国で展開された社会運動のすべてを比較する紙幅の余裕はないので、学生運動を主導した「新左翼(New Left)」の運動と思想に比較対象を限定して、米・日・西欧間の国際比較上の論点整理をおこないたい。その際、新左翼系の学生運動の多くが、一九六〇年代末になると急進化し、警察との衝突を繰り返えすとともに、党派対立も激化した結果、一九七〇年代に入ると急速に影響力を失っていった経緯にも注意する必要がある。その際、日本における新左翼運動関係者の証言は、当事者しか知らない貴重な証言である一方、極めて党派的な性格も強い。そのため、歴史研究に活かすには、当時の政治運動を社会や文化の広い文脈に位置づけなおす政治社会史や政治文化史的なアプローチの開拓が必要になる。
その点で米国の研究から学ぶべきところは多い。近年の米国では急進的運動への反動として保守化の動きが一九六〇年代から芽生えていたことを個別の都市における人種・エスニシティ・階級関係の変化に注目して考察する実証研究がみられるからである。日本の場合も、一九六〇年代は池田・佐藤政権のもとで高度経済成長が進み、自民党の長期安定化が進んだ時代ともいわれるだけに、新左翼諸党派が呼号した「社会主義革命」が果たして現実性をもっていたのかどうか、全体的な「政治社会史」や「政治文化史」の文脈で再考する必要がある。
一 創生期の新左翼とその多様性
「ニューレフト」の多様性
「ニューレフト」という言葉を共有していても、各国の運動はそれぞれの国の政党関係や政治文化の影響を受けて、極めて多様であった。この言葉を組織として最初に使用したのは、イギリスで一九六〇年一月に刊行されたNew Left Review誌であった。この雑誌は、一九五六年にフルシチョフが行ったスターリン批判やハンガリー事件の衝撃を受けて、イギリス共産党を離党した知識人グループによって一九五七年に創刊されたThe New Reasoner誌(エドワード・トムスン、ジョン・サヴィルなどが中心)と、大学を中心に同様の方向をめざしたUniversities and Left Review誌(スチュアート・ホールなどが中心)が合体して刊行されたものであった。その政治的立場は、スターリン主義と労働党などの正統的社会民主主義の両方を拒否して、「社会主義ヒューマニズム」の追求をめざすものであった。この雑誌の背後には、一九五八年に結成された「核武装反対キャンペーン」などの高揚があったが、基本的に知識人中心の運動であり、大衆的基盤は弱かった。
一方、西ドイツの新左翼(Neue Linke)の場合は、社会民主党寄りの学生組織として一九四六年に結成された社会主義ドイツ学生同盟(SDS)の動向が中心的意味をもった。このSDSは、一九五九年にナチ時代の司法関係者の継続性を告発する展示会を実施して、親組織である社会民主党との関係が悪化した上、同党が一九五九年のバート・ゴーデスベルク綱領でマルクス主義と決別し、階級政党から国民政党への転進を宣言したのを不満として、独自色を強めていった。一九六一年には機関紙であるneue kritik紙上でイギリスにおけるニューレフトの動向に関心を表明し、結局、社会民主党からの分離を余儀なくされた。その後、フランクフルト学派の「権威体制批判」、米国のC・ライト・ミルズやハーバート・マルクーゼなどの影響を受け、旧左翼の特徴である労働運動中心主義から離れ、学生・知識人の主導性を主張するようになった。
この西ドイツSDSの動向は、米国で一九六〇年六月に発足する「民主社会をめざす学生組織」(Students for a Democratic Society)の動きと極めて類似したものであった。勿論、米国SDSは、略称こそ同じSDSであったが、当初はドイツSDSのように明確に社会主義をめざすというより、「参加民主主義」を推進し、民主党左派などと連携して、民主党政権の政策改善をめざすものであった。それは、米国の場合、一九五〇年代にマッカーシズムという「赤狩り旋風」が吹き荒れた結果、左翼運動全般が窒息状態に追い込まれていたため、一九六〇年代になってSDSなどの新左翼が登場したことは左翼一般の復活を意味するものであった。
米国SDSの場合は、「産業民主主義連盟」(League for Industrial Democracy)という社会民主主義的な団体の学生組織として発足したが、米国の冷戦政策を批判する中で親組織の反共的立場と決別し、リベラル左派も含めた幅広い革新団体になっていった。一九六二年に発表した「ポート・ヒューロン宣言」では、民衆の直接行動などの「参加民主主義」によって民主党政権の革新をめざす方向を鮮明にした。また、各大学のSDS支部のゆるやかな連合体であり、旧左翼にみられるような中央集権的な党組織をもっていなかった。
一方、日本における新左翼の誕生として注目されたのは、一九五八年に発足する「共産主義者同盟」(通称ブント)であるが、この組織は、スターリン主義を批判して共産党から離れ、「真のマルクス・レーニン主義的前衛党」の建設をめざすものであった。ただし、体系的理論の構築や組織建設よりも大衆の直接行動を重視する特徴をもち、一九六〇年の日米安全保障条約改訂反対闘争においては国会突入などの直接行動戦術を実践して注目を浴びながら、多くの指導者が逮捕され、安保条約の批准成立とともに分裂していった。
つまり、ブントの誕生は、ロシア革命をモデルとしたマルクス・レーニン主義政党が共産党以外にも誕生したという意味で、共産主義運動の「複数化」を象徴するとともに、学生運動の「先駆性」を主張して、一九六〇年の反安保運動の高揚に貢献した意味がある。しかし、綱領や組織論の面では「最後の旧左翼」との評価もあるように、マルクス・レーニン主義の流れをくむものであり、その後に分裂していった新左翼諸党派の場合も、トロツキズムへの傾斜の強弱などの差を含んでいたものの、多くがマルクス・レーニン主義の系譜に属していたと評価できるだろう。
旧左翼と新左翼
他方、フランスやイタリアの場合は、共産党や社会民主主義政党などの旧左翼の影響が強く、新左翼は当初、雑誌などに結集する知識人や少数政党(フランスの場合は統一社会党など)の運動であったが、一九六八年の学生運動や労働運動の高揚を背景に注目されるようになったという特徴をもっている。
まず、フランスの場合は、第二次世界大戦中の「レジスタンス運動神話」を通じて影響力を拡大していた共産党が、スターリン批判後も親ソ的姿勢を堅持しながら、多方面に支持を集めていた。また、社会民主主義政党は、社会党、急進社会党などに多党化してはいたが、議会内で有力な野党としての影響力をもっていた。そのため、「新左翼(Nouvelles Gauches)」は、当初から、東西両陣営のどちらかに与することのない平和擁護、共産党や社会党とも異なる路線の模索、また、植民地戦争に強く反対する点に特徴があった。この拠点となったのは、クロード・ブールデやジル・マルチネらによって創刊された『フランス・オプセルヴァトゥール』(一九五一―六四)であり、新左翼は単純な対立の図式化を避け、独自の左翼運動を展開しようとしたことで知識人の支持を集めていった。他方、コルネリウス・カストリアディスとクロード・ルフォールが率いた『社会主義か野蛮か』(一九四九―六六)やミニュイ社が創刊した『論争』(一九五六―六二)は、初期マルクスの疎外論に注目し、実存主義や精神分析学を取り入れて、若い知識層や周辺グループを革命主体とみなす路線をとり、左翼の理論的刷新をはかった。ここでは第三世界との連帯を重視し、組織よりも直接行動を重視する主張を展開する知識人運動が求められた。こうした運動の上に、一九六八年五月の学生運動を主導した「議会外新左翼」が加わり、議会内の統一社会党などと結びついて大衆運動の高揚に貢献した。
イタリアの新左翼(Nuova Sinista)の場合も、強力な旧左翼に対抗して、まず一九六〇年代初めに知識人を中心とした雑誌の刊行から始まり、六〇年代末に学生運動や労働運動の高揚と結びついて一定の大衆的基盤を獲得していった。まず、旧左翼の動向では、第二次世界大戦中のパルチザン運動などを通じて共産党が大きな影響力をもっていた上、スターリン批判後にはソ連とは異なり、議会を通じた平和的な革命をめざす「社会主義へのイタリアの道」を推進していた。また、社会党はスターリン批判を契機に中道色を強め、一九六三年末にはキリスト教民主党との中道左派連立政権に参加したが、それに反発した左派グループがプロレタリア統一社会党を結成した。また、一九六六年秋には中国の文化大革命の影響を受け、共産党から中国派が離脱し、マルクス・レーニン主義党を結成し、一九六九年には構造改革路線を批判した知識人グループが共産党から離れ「マニフェスト派」を結成した。これらの政党は新左翼の学生運動に協力的であったが、知識人レベルでは、『社会主義の諸問題(Problemi del socialism)』(一九五八~)や『クワデルニ・ロッシ(赤いノート)』(一九六一~)、「クラッセ・オペライア』などの雑誌が思想的な影響力をもった。その思想は、旧左翼の官僚主義を批判し、労働組織の自立と民主化を要求し、新しい市民社会の台頭に対応した革命戦略を探求する特徴をもっていた。また、中国や中南米などの第三世界の動向に関心を示すとともに、米国のMonthly Review誌などとも提携して、米国のニューレフト運動にも強い関心を示した。
以上のように、一九五〇年代末から始まった「新左翼」の思想や運動は、ソ連のスターリン批判を契機とする旧左翼の官僚主義や労働運動至上主義への批判、学生や知識人が主導する直接行動の重視などの共通性をもって発展していった。その背景には、当時の先進国で一様に高度の経済成長がみられ、大衆消費社会化が進行した結果、ホワイトカラー層や大学生の急増がみられたことがあった。その点で、新左翼運動は極めて「先進国的現象」という特徴をもっていたといえるだろう。しかし、同時に、その展開には各国の歴史や文化、さらには旧左翼政党との力関係などに規定されて多様性もみられた。
例えば、西ドイツや米国の場合は、根強い反共主義の伝統の影響で共産党系の運動が弱体であり、むしろ社会民主主義的組織から分離する形で結成されたので、当初は直接行動を通じての社会改良を重視する運動であった。それに対して、共産党などの旧左翼が強力であった仏・伊の場合は、まずホワイトカラー層の台頭に対応した労働疎外の克服など新しい革命理論を模索する知識人運動的な性格で始まり、一九六八年の学生運動の高揚を受けて大衆的基盤を獲得していった。また、日本の場合は、大衆消費社会化や大学生の急増など「先進国的特徴」を共有しながらも、マルクス・レーニン主義志向が強かったのは、敗戦後の荒廃や貧しさ、戦前の軍国主義体制への復帰の恐れなど「途上国的意識」が持続していた面とともに、中国革命や日米安保条約による米軍基地の存在などの影響を受けて、第三世界との強い「共同意識」をもっていた反映でもあった。
勿論、新左翼運動は、欧米の場合も、一九五九年のキューバ革命や一九六一年のアルジェリア独立など「第三世界革命」の影響を強く受けて発生していたが、一九六〇年代前半まではむしろそれぞれの国の社会改革や反核平和運動に主たる関心を寄せており、「第三世界」との連帯を強く意識して、急進化してゆくのは一九六四年からのヴェトナム戦争の激化や一九六六年の中国文化大革命の影響が強まって以降のことであった。いずれにせよ、新左翼運動における「先進国性」と「第三世界連帯」との関連は重要な検討課題となる。
二 新左翼運動の急進化とその原因
一九六〇年代後半の急進化
同じ新左翼運動でも一九六〇年代前半と後半ではかなり性格を異にするケースが目立つ。米国の場合でいえば、前半は、アフリカ系の公民権運動などの影響を受け、非暴力主義に基づく市民的抵抗により民主党政権に政策の変更を迫ることに重点があった。法的な人種平等を規定した一九六四年の公民権法はその成果であったし、反核平和運動は一九六三年の部分的核実験停止条約の成立で一定の役割を終えた。しかし、法的な差別が除去されても、貧困や失業など経済的、社会的差別は存続し、ジョンソン民主党政権が「偉大な社会」プログラムの中で「貧困との闘い」を標榜したが、その解決が遅れる中で、一九六六年には「ブラック・パワー」のスローガンが提唱されると、SDSでも「スチューデント・パワー」が標榜されていった。
この場合の「パワー」とは、民主党政権のリベラル派への依存をやめ、運動の自立やコミュニティの自治確立を求めるものであったが、社会主義志向や運動形態の急進化も生む結果となった。その上に、一九六四年八月のトンキン湾事件以降、米国による北ヴェトナム爆撃や南ヴェトナムへの地上軍派遣が増加してゆくにつれて、ヴェトナム反戦運動が高揚していった。また、徴兵拒否行動などによって政府や警察との衝突が激化するにつれて、南ヴェトナムで武装闘争を展開する南ヴェトナム解放民族戦線への連帯意識の強まりから「都市ゲリラ」論の台頭など運動形態の急進化も進行した。とくに、アフリカ系の運動では、一九六六年一〇月に結成されたブラック・パンサー党が、度重なる警察の弾圧に抵抗するためコミュニティの自治とともに、武装自衛を主張し始めると、警察との衝突が激しくなっていった。SDSでも、一九六九年六月には武装闘争を公言したウェザーマン派が主導権を握るようになり、以後、警察の規制が強化される中で、爆弾闘争など非合法的な「都市ゲリラ」的活動に傾斜してゆき、一九七〇年代初めには政治運動としての影響力を失っていった。
日本の場合は、一九六〇年代前半でも後半でも新左翼運動では同じ名称の党派が指導権を握っていた面があるが、運動の戦術や形態には大きな変化が見られた。前半の最大の山場であった一九六〇年の日米安保条約改定反対闘争の場合、ブントなどが国会突入戦術などを実行し、世論喚起に貢献したが、それらの戦術を採用する場合でも各大学自治会での討議を重視し、党派間の論争が激化しても、のちに発生する「内ゲバ」のような現象は見られなかったという。そして六〇年の安保条約改定が強行された後にはブントが解散に追い込まれたように、運動の後退期が訪れるが、六〇年代半ばごろから各大学で学費値上げ反対運動が活発となるとともに、ヴェトナム反戦運動の高揚にも助けられて後半期には再び運動の高揚がみられるようになった。大学の建物占拠の戦術は一九六五年の慶応大学における授業料値上げ反対闘争でみられるようになったが、新左翼系の街頭デモに「ゲバ棒」やヘルメットが登場するのは一九六七年一〇月に羽田で行われた佐藤首相の南ヴェトナム訪問阻止闘争の中でであった。
一九六八―九年に大学において高揚した「全共闘」運動は、学生の処分問題、不正経理、大学運営の民主化など大学固有の問題から始まったが、建物占拠の拡大に際して、占拠に参加する学生たちは「エリート養成過程」にいる自己を否定する意図から「自己否定」や「大学解体」などを提唱し、闘争は新左翼諸党派の連合体が指導するだけでなく、「ノンセクト・ラディカル」も加わって、拡大していった。その際、それまでの学生運動ではみられた自治会での決定尊重の気風は薄れ、「戦う意思のある有志連合」としての「全共闘」が運動を主導することになった。また、運動は一九七〇年の安保条約延長阻止と結合するようになり、個別大学での解決は不可能となった結果、一九六九年一月に占拠中の安田講堂が警察の介入で落城したことが象徴するように、全共闘運動は終息していった。その後、一九七〇年の安保条約反対運動も警察の規制強化の結果、十分な効果を上げられず、条約は自動延長になった。そのため、新左翼諸党派の間では闘争戦術の「急進化」を主張するグループが台頭し、一九六九年秋には銃や爆弾による武装闘争を公言する赤軍派が結成された。しかし、一九七二年に発生した連合赤軍事件が象徴するように、武装闘争戦術は、指導者の逮捕や警察による武力鎮圧をうけて敗北しただけでなく、「内ゲバ」といわれた凄惨な粛清やテロの発覚によって新左翼運動全体の衰退を招くことになった。
西ドイツとフランスの場合
西ドイツの場合は、一九六五年ごろからヴェトナム反戦運動が始まり、米国の運動との交流が進む中で、西ドイツSDSでも「ティーチイン」や「シットイン」など米国流の運動戦術が採用されてゆき、一九六七年一〇月以降には西ドイツ駐留の米軍基地の米兵に脱走を働きかける運動も進められた。また、一九六六年一二月キリスト教民主同盟と社会民主党の大連立政権が発足し、非常事態法案の審議が始まると、西ドイツSDSは言論や集会の自由の危機としてさらなる反対運動を展開した。また、一九六七年六月にはイラン国王の西ベルリン訪問に反対するデモ中の学生が警官に射殺される事件が発生し、西ドイツSDSは一層政府との対決姿勢を強めてゆき、ルディ・ドゥチュケなど直接行動主義を唱える急進派が主導権を握っていった。一九六八年二月には国際ヴェトナム会議を開催し、各国の反戦運動の国際連帯を進めるとともに、ヴェトナムの「第二戦線」を西独に構築する急進的な議論が登場した。その上、五月に非常事態法が制定されると、政府への対決姿勢を一層強めていった。
一方、フランスでは一九六八年に入って急に学生運動の高揚が見られた。文学部や社会学部などからなるパリ大学ナンテール分校では、大学生の選抜方式や寮の男女分離への不満が高まっていたが、三月二二日のヴェトナム反戦運動家の逮捕をきっかけとして、学生によるストライキや建物占拠が発生した。ナンテール分校には党派学生は少なく、主導したのは、ダニエル・コーン=ベンディットなどごく少数のアナーキスト、毛沢東主義者、トロツキストなどからなる「三月二二日運動」であったが、多くの学生がそれに同調した結果、ナンテール分校が閉鎖された。そのため、五月三日にはソルボンヌ校で抗議集会が三月二二日運動によって開催されたが、大学当局は警官を導入して、学生を排除したため、一挙に抗議運動が拡大した。当時、統一社会党系の指導部が指導していたフランス全学連や高等教員組合は無期限ストライキへの突入を決定し、共産党や労働総同盟(CGT)の積極的支持はないままに、五月一〇日以降には大学近くの一角であるカルチェラタンがバリケード封鎖された。また、五月一三日には労組が二四時間の抗議ストを決行し、パリでは五〇~六〇万人の抗議集会が開催された。また、ソルボンヌ校では学生が建物を占拠し、「学生コミューン」の構築を宣言したが、党派間の「内ゲバ」は見られなかったという。コーン=ベンディットも当時、「相手の立場を認めながら、マスとして共通の線を見出してゆくことに意義がある」と主張していた。
このようにフランスにおける「五月闘争」は学生運動に広範な労働運動が同調したところに特徴があったが、同時に労働者の間では低賃金への不満だけでなく、工場の「自主管理」など直接民主主義的改革を求める声が高まっており、労組による統一スト以外にも各地で「山猫スト」が発生した。他方、ドゴール政権が警察による占拠学生の排除を強行する一方、五月末には雇用者代表と労組代表の交渉により賃上げや社会保障の改善を約束するグルネル協定が成立し、ストは終息にむかった。また、ドゴール政権は、六月末には国民に信を問うとして議会を解散し、選挙運動中には「共産主義の脅威」や「共和制の防衛」を宣伝したが、左翼政党は「五月闘争」の評価で分裂し、選挙はドゴール派の圧勝に終わった。ただし、ドゴールが主導した翌年四月の大学や地方自治への参加を促進する国民投票では賛成が過半数に至らず、ドゴールは大統領を辞任することとなった。
このようにフランスの「五月闘争」は短期で終息したが、世界に大きな衝撃を与え、一九六八年を世界の社会運動史に残る象徴的な年にした。イタリアでは、一九六七年末ごろのトレントやミラーノの大学占拠から学生運動が高揚し始め、極右学生との衝突で死者がでる事態も発生し、大学の権威主義的体質が暴露されるようになった。また、六八年三月ごろからは街頭で警察との衝突が繰り返されるとともに、学生と労働者の連携がみられるようになり、五月に入ると、フランスの「五月闘争」の影響を受けて、労働運動が活発化し始めた。秋には多くの大学で占拠は解除されたが、労働運動が賃上げや年金問題などをめぐって活発化し、ゼネストも計画された。翌六九年二月にニクソン大統領がローマを訪問した折には、警察がローマ大に介入し、学生に死者がでたし、後に「赤い旅団」と呼ばれる極左集団が発生する遠因となった。また秋にはストライキが長期化したり、極右グループや警察との衝突がめだつようになり、「熱い秋」と呼ばれるほどとなった。
このようにフランスとイタリアでは一九六八―六九年の運動において、学生と労働者の連携が見られたが、この点は西独やアメリカ、イギリス、日本ではあまり見られない特徴であり、この点はフランスやイタリアで労働運動の主導権をもっていた旧左翼の新左翼系学生運動に対する対応の差にも由来しているのだろう。
三 一九六〇年代学生運動の時期区分とその思想
一九六〇年代前半と後半の対比
一九六〇年代の新左翼系学生運動は、多くの場合、一九六〇年代末ごろから急進化し、「武装闘争」を肯定した結果、警察との衝突を繰り返す中で、一九七〇年代初めには消滅していった。そのため、初期の運動に関わった世代からは前半の運動を肯定し、急進化した後半の運動を否定する評価がでるようになった。例えば、米国SDSの初期の指導者であったトッド・ギトリンはこう評価している。「……二〇代の若者が世界の変革に乗り出したのだ。かかる動機から出発して、運動は自己を変革の主体と思いこむ自己陶酔と、にもかかわらず真の変革の主体たり得ぬ自己譴責の間で揺れ動いた。究極的にはレーニン主義の誤った解釈に走ったが、それは自己陶酔に姿を変えた自己譴責に他ならなかった」、「ニューレフト世代全般にわたって反戦と第三世界の革命が最も魅力あるものに見えてきた。戦争そのものの質が変わったこともあるが、ニューレフトの基盤がそれだけ崩れ始めていた」。
つまり、ギトリンによれば、ヴェトナム反戦運動や第三世界革命への連帯活動を通じて、アメリカの新左翼はレーニン主義に傾斜し、初期の基盤を喪失したということになる。しかし、このギトリンの解釈に従う場合でも、「基盤の崩壊」が何時から始まったとみるかについては評価が分かれるだろう。ヴェトナム反戦運動一般であれば、一九六五年ごろから活発化したから、ギトリンが評価するのは米国SDSが非暴力的な運動形態で主として国内問題に集中していた時期に限定されるだろう。また、ヴェトナム反戦運動が「暴力的色彩」を強めた時期ということになれば、SDSから「武装闘争」を肯定したウェザーマンが分離していった一九六九年六月ごろからになる。
他方、日本の学生運動を膨大な資料を駆使して分析した小熊英二の大著『一九六八』でも、一九六八―六九年の全共闘運動とそれ以前を区別する次のような解釈が示されている。「日本が高度成長によって発展途上国から先進国に変貌してゆく状況のなかで、当時の若者たちは、戦争・貧困・飢餓といった『近代的不幸』とは次元が異なる、いわば『現代的不幸』――アイデンティティの不安・未来への閉塞感・生の実感の欠落・リアリティの稀薄さなど――に直面していた」。つまり、小熊の場合は、高度経済成長による日本社会の構造変化とその矛盾に直面した学生の世代差に注目して、戦中生まれが中心であった一九六〇年安保世代はまだ貧困や戦前社会への復帰の危機という「近代的不幸」に直面していたのに対して、戦後のベビーブーム世代が中心で、大衆消費社会化の渦中に育った全共闘世代はアイデンティティの危機といった「現代的不幸」に直面していたと解釈しているのである。この解釈は、運動を支持した一般学生の心理面の差への注目としては興味深いが、新左翼運動を指導した党派面でみられる連続性を考えると、「近代」と「現代」の断絶を強調しすぎているようにも思われる。
また、大嶽秀夫『新左翼の遺産』の場合は、Arthur Marvickの「長い六〇年代(long Sixties)論」を参考に、新左翼運動を一九五八―七四年という幅で理解した上で、一九五八―六五年を「前期新左翼」、一九六五―七四年を「後期新左翼」と区分している。具体的には、前期の特徴としてアメリカの公民権運動やイギリスの核武装反対運動、日本の六〇年安保闘争をあげ、後期の特徴としてヴェトナム反戦や一九六八―六九年の大学闘争をあげている。つまり、大嶽の場合は、前後期の区分を日本だけでなく、世界史的区分として提起しているのであるが、同時に、新左翼が「近代民主主義」を批判し、「ポストモダニズム」の創生につながったと解釈している。
確かに日本でも一九六〇年代前半の学生運動は反安保や反日韓条約などの全国的課題に集中し、そこでは「戦前型軍国主義国家」への回帰の危機が叫ばれていたのに対して、後半になると、学費値上げ反対や大学民主化などの大学闘争とヴェトナム反戦などが結合されるようになった。その上、東京大学における全共闘運動に象徴されるように、当初は医学部の処分問題から始まったものの、大学の建物封鎖が全学に拡大する中で、封鎖への参加が「エリートとしての自己否定」であるとの心情が広がり、「自己否定」や「大学解体」の目標に加えて、一九七〇年安保条約破棄という目標も追加されていった。その結果、個別的改革で妥協する余地がなくなり、最終的には安田講堂に立てこもって警察と全面衝突し、玉砕する道が選択されていった。
このような「自己否定」の論理が運動の論理に結合された背景にはマルクス主義というより、実存主義的な思想の影響が多くみられるのだろう。そして、このような運動の挫折の結果として、フランスや日本では「近代的進歩」を批判し、「大きな物語」に不信感を抱く「ポストモダニズム」が台頭することになる。しかし、経験主義の伝統の強い米国の場合は、学生運動が急進化した一九六〇年代末になっても、サンフランシスコ州立大学の運動に見られるように、「エスニック・スタディーズ」学科の創設などの個別要求の実現を重視した面があるので、国による運動文化の違いにも注意する必要がある。
一九六八年の画期性
さらに、時期区分の問題に関連して、一九六八年の画期性という問題がある。ウォーラーステインは「一九六八年は世界システムの内容と本質にかかわる革命であった」と評価し、一九六八年を一八四八年と並ぶ「世界革命」として高く評価した。確かに、一九六八年には一月末から二月初めにかけての南ヴェトナムにおけるテト攻勢、三月に「プラハの春」、四月にアメリカのコロンビア大学占拠、五月にフランスの「五月闘争」、六月に東大の安田講堂占拠など連鎖的に運動の高揚がみられた。それは、テレビなどによる瞬時の情報共有という条件だけでなく、ヴェトナム反戦運動などを通じた指導者間の連携や思想的・組織的交流の影響もあった。しかし、一九六八年に高揚した多くの運動は警察などによる弾圧で挫折した例が多いのであり、社会制度の質的変化という意味での「革命」と呼ぶのは難しい面もある。むしろ、その後のフェミニズムや環境保護など「新しい社会運動」の起点という意味に加え、芸術、思想、風俗などの「文化革命」の始まりという意味で「画期性」を評価することができるだろう。ただし、米国の環境保護運動の場合は、一九七三年の石油危機以降に後退したという評価と運動の継続性を主張する見解の対立がみられる。
つまり、この一九六八年の評価は「長い一九六〇年代論」にも関わってくる。何故なら、一九六八年の意義はその年の出来事自体より、その後への影響に大きな意味があるからである。一九六〇年代だけに限定した「短い一九六〇年代論」では運動の高揚から挫折へという文脈で分析が閉じてしまうのに対して、「長い一九六〇年代論」ではフェミニズムや環境保護、多文化主義といった一九七〇年代以降につながる変化に分析が開かれてゆくことになるからである。その結果、「長い一九六〇年代論」の場合には何時に終点を求めるかをめぐって多様な評価が発生することになる。
マーヴィックの場合は、終点をヴェトナム戦争の終結や石油危機が発生した一九七三年から、フランスで妊娠中絶法が、イタリアで離婚法が成立した一九七四年に求めている。日本の場合では、一九七二年の連合赤軍事件から一九七九年の東京都における革新都政の終了まで、それぞれの立場によって多様な終点が設定される可能性がある。
このように「長い一九六〇年代」の終点の設定が論争的であるように、起点の設定も論争的である。共産党系の運動から分離した新左翼の場合は、当然、一九五六年のフルシチョフによるスターリン批判の衝撃を受けて、独自の政党や思想グループが結成された一九五〇年代末が起点になる。他方、米国のように共産主義政党の影響力が微弱である場合は、むしろ一九五五年に始まる公民権運動が起点となる。
この起点を一九五〇年代後半に求めることで浮上する論点は新左翼と旧左翼の連関性の問題である。日本の場合は、共産党とそれから分かれた新左翼諸党派とは「犬猿の仲」であったため、断絶性が強調されるが、共産党の勢力が弱かった米国では、初期の新左翼系学生たちで、左翼思想に共鳴する最初の契機が共産党員であった親の影響であったケースがかなり見られる。彼らのことを「赤いおむつをした子供たち(red diaper baby)」と呼ぶが、そうした背景には、一九三〇年代の大恐慌期に左翼となった親が一九五〇年代の「赤狩り」下でもその思想を堅持し、子供に伝えていたという米国に固有の傾向が読み取れるのである。そうした要因や左翼が全体として微弱であることもあり、米国ではヴェトナム反戦運動などの全国的集会で新旧左翼が同居している光景が多々見られた。フランスやイタリアで学生運動が労働運動に結びついてゆく過程では新旧左翼が、相互に批判しつつも、協力していった側面が無視できないと思われる。また、欧米の新左翼諸党派間でも激しい論争は展開されたが、日本のような党派間の相互殺戮に至るような「内ゲバ」はほとんど見られなかったという。
「内ゲバ」の特異性
つまり、日本の場合、安保条約反対やヴェトナム戦争反対などの目的を共有しながら、戦術や思想の違いから同席を拒否するばかりか、「内ゲバ」という反対党派メンバーの襲撃から殺害までにいたった固有の原因の分析が必要になる。それは日本の左翼独特のセクト主義の問題とともに、人権尊重や思想的寛容の未定着の問題としても深刻な検証が必要となろう。
その点でユニークなのは、「ヴェトナムに平和を、市民連合(通称、ベ平連)」の運動である。これは、小田実や鶴見俊輔など米国留学の経験がある知識人が中心となってヴェトナム反戦という単一目的のために結集したゆるやかな連合体であり、ティーチインや平和的デモで反戦世論の盛り上げをめざした運動であった。その闘争形態が米国の運動と類似していただけでなく、ヴェトナム反戦の大義のために新旧左翼の連携にも努力するなど、日本の左翼の体質とも思える「セクト主義」の克服をめざした点でもユニークな存在であった。
勿論、欧米でも、相互の殺害には至らないまでも、新旧左翼諸党派間に激しい対立があったことは事実である。その背景には、旧左翼が選挙を通じて議会での多数派をめざす「議会主義左翼」であったのに対して、新左翼は学生や市民の直接行動で社会変革を目指そうとしていた「議会外左翼」であったという違いがあった。その上、ヴェトナム戦争や大学闘争が激化し、警察による規制が強化される中で、新左翼系学生の間では警察や国家への不信感が高まり、議会制民主主義への不信が強化されていった。それに、キューバやヴェトナムなど武装闘争を展開していた「第三世界」の革命運動への連帯感が重なって、次第に先進国でも「都市ゲリラ」戦術などをとって、武装革命をめざす方向に傾斜していったので、新旧左翼の溝は一層拡大していった。特に、米国の場合は、国内の非白人グループの一部が自らを「国内の第三世界勢力(The Third World Within)」と位置づけ、武装闘争を肯定したので、なおさらであった。しかし、このような「武装闘争」に突入したグループは新左翼の中でもごく一部であり、多くの場合は、その後も平和的な抗議運動を展開し、一九七〇年代以降には「新しい社会運動」の担い手となり、議員に当選した例も見られた。西独における「緑の党」の議員にはそのような経歴の持ち主が多くみられる。
四 新左翼の衰退原因
日本の新左翼運動の場合、既にふれたように、一九七二年に発生した連合赤軍事件が衰退の大きな原因となった。この事件は、武装闘争の敗北という結果だけでなく、国際主義を標榜するブントの流れをくむ赤軍派と毛沢東主義を標榜するグループという異質な党派が武装闘争の遂行のために連合したという条件下でメンバーに対するテロや粛正が発生し、多くの死者がでたという衝撃的な事件であった。一九九四年に出版された全共闘参加者、約五〇〇名強のアンケート結果にも示されているように、運動から離れた理由として「内ゲバ」の二四%に次いで、一七%の人がこの事件を挙げているように、新左翼運動が衰退へ向かう大きな原因となったことは明らかであろう。
それだけにかつて新左翼運動に関わった指導者の一部で、この事件の原因や「内ゲバ」一般の原因分析が行われてきた。それによると、自らの党派を「唯一の前衛」とみなす意識が他党派の存在を否定し、物理的に一掃しようとする不寛容な傾向まで生みだしたとの指摘が多い。但し、新左翼運動が始まったばかりの一九六〇年代初頭までは異なる党派の人間とも平和的に交流していたとの証言があるので、内ゲバという現象も一九六〇年代後半から激化したといえるだろう。それは、一九六〇年代末までは学生自治会を基盤とした運動が基本であり、各党派は自治会選挙で論争をし、指導権を争っていた。しかし、一九六〇年代末となり自治会よりも「戦う意志」をもった有志連合による全共闘運動の時代になると、「闘う個人の自発性」の高揚は見られたが、「運動内民主主義」が衰えていったと指摘できるだろう。
さらに、本来、新左翼はスターリン主義を批判して登場したにも拘わらず、反対者の粛正を繰り返した点をとらえて、「反スターリン主義の血肉化」に失敗したとの指摘もある。つまり、新左翼の諸党派ではその「唯一の前衛」意識と中央集権的な組織論の影響で個々のメンバーが党派を離脱する権利が否定され、人権無視の粛正が繰り返されたといえるだろう。その点で、市民革命後に確立する人権尊重の思想が新左翼の中では「ブルジョア民主主義」を蔑視する意識の中で軽視されてきた問題としても位置づけられるだろう。米国や西欧でも党派対立から死傷者がでる場合があったと言われるが、日本のように凶器をもって意識的に反対党派を襲撃するような「内ゲバ」はあまり見られないという指摘もあり、先にふれた通り、日本における左翼運動の重い負の側面として検討する必要があるだろう。
結びにかえて
新左翼の遺産
最後に、一九六〇年代の全体史の中で学生運動の功罪を位置付け直す努力が必要であろう。その第一に、ヴェトナム戦争に反対する運動が国際的に高揚し、ヴェトナム戦争の終結に一定の貢献をした点があげられる。その際、「べ平連」などのように、ヴェトナム民衆に連帯する中で「被害者意識」からでなく、アジアに対する「加害者意識」の反省から反戦運動を組織化していったという新しい連帯意識の成長も見られた。そうした意識の覚醒は、後に「従軍慰安婦」などの補償運動支援に結びついていった。
第二には、米国の学生運動の場合、革命的な目標とともに、エスニック・スタディーズ学科創設などのカリキュラム改革という個別の要求も追及した結果、米国の大学は一九七〇年代以降、多文化主義の推進など大きく変貌を遂げたといえるだろう。その点で日本の場合は、一九六〇年代末の学生運動の急進化によってかえって個別の改良が無視され、「大学解体」などのスローガン設定によって大学改革に大きな結果が残らなかった点と大きな違いである。それは米国の場合は元来、プラグマティックな精神風土があり、個別の改良の積み重ねを重視する傾向があるし、ブラック・パンサー党が黒人居住区における学校給食の無料化を提唱したように、急進的な運動であっても、自分達の生活するコミュニティの改良を重視する伝統がある点にも注目すべきであろう。
第三には、日本の場合、一九六〇年代に様々な社会運動が高揚したにも拘わらず、議会政治のレベルでは自民党政権の長期持続が特徴的であった。しかし、その支持率を詳しくみると、一九五五年には自民党と野党の絶対支持率は四七・五対二四・一であったのが、一九六九年には三二・三対三一・八とかなり拮抗していたことが分かる。その背後には議会における公明党や共産党の議席増による多党化傾向があるが、同時に、支持政党なし層の増大もみられるのであり、一九六〇年代の社会運動の高揚が議会政治の変容に十分リンクしていなかった問題点が浮かび上がってくる。その点で、日本の新左翼が反議会主義的であり、逆に旧左翼が議会中心主義的であったため、広汎な革新の連合が形成されなかった点も原因として浮かび上がってくる。それは、日本の左翼が新旧ともに極めて党派的であり、大同団結が至難であった欠陥に関係するだろう。
第四に、米国の社会運動ではヴェトナム反戦運動の展開過程で、「対抗文化」的な文化運動が発生し、ライフ・スタイルや家族のあり方を大きく変えるインパクトを残した。また、欧米や日本でもフェミニズムや環境保護運動など「新しい社会運動」を生み出し、「政治革命」としては挫折しても、「文化革命」としては大きな足跡を残したといえるだろう。しかし、日本の場合、部分的にべ平連による「フォークゲリラ」などの活動は見られたが、一九六〇年代の政治運動が大衆文化を大きく変容させるような文化革命に接続したとは言い難い面もある。そのような差はなぜ発生したのであろうか。また、フランスの場合は、「五月闘争」が「近代的な進歩」を根底的に批判する「ポストモダニズム」の起点と評価する議論がある。「文化革命」としての一九六〇年代の意義も今後の重要な研究課題となるだろう。
第五に、一九六〇年代の社会運動の世界史的意義を考えると、「グローバル・デモクラシー」の始まりとの位置づけが可能だろう。それは、議会まかせにせず、市民の直接行動などによる「直接民主主義」や「地域自治」を重視する思想や運動の強まりという点だけでなく、少数民族の人権尊重など国境を越えて民主主義を拡大する動向の始まりを意味するからである。米国における「多文化主義」の実験や日本における社会保障関連法における「国籍条項」の撤廃などはそうした世界的動向の一環に位置づけられるだろう。
以上のように一九六〇年代の社会運動は、政治運動としては挫折した面があるが、ライフ・スタイルや価値観の変革面では現在に至るまで大きな影響を残している面があり、今後の研究の発展が望まれる。
最後に、本書の構成について説明しておく必要がある。
「米国ニューレフトとヴェトナム反戦運動」と題した第一部では、米国の学生運動、ヴェトナム反戦運動、環境保護運動を扱い、「越境するマイノリティ運動」と題した第二部では、米国におけるアフリカ系運動と先住民運動を扱い、「越境する女性運動」と題した第三部では、米国の女性運動や福祉権運動と日本の「ウーマンリブ」運動を扱い、「一九六〇年代ヨーロッパの越境」と題した第四部では、西ドイツ、フランス、イタリアの学生・知識人運動が扱われている。このように本書は、日本ではほぼ初めての一九六〇年代社会運動に関する実証的な 国際比較の研究となっており、今後、このような国際比較研究の進展を促進する効果をもつよう期待している。
上記内容は本書刊行時のものです。