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女たちの「謀叛」
仏典に仕込まれたインドの差別
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年12月
- 書店発売日
- 2017年12月11日
- 登録日
- 2017年11月20日
- 最終更新日
- 2017年12月19日
書評掲載情報
2018-02-01 |
南御堂
2018年2月号 評者: 今月お勧めの書籍紹介 |
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重版情報
2刷 | 出来予定日: 2017-12-25 |
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紹介
真宗大谷派の坊守として女性の視点から仏教経典の差別を批判。差別の根がヒンドゥー教にあることを示し、浄土三部経と『マヌの法典』を参照しながら、「変成男子」「是栴陀羅」などを論じ、仏陀や親鸞へ返れと呼びかける。
目次
はじめに 仏教の原罪
日本で仏教が出合った試練/日本人の考え方の根底にある「仏教」的な価値観
プロローグ スジャータを訪ねて
スジャータはどんな娘だったのか/ブッダガヤの川向こう、セーナ村
一 釈迦の悟りとヒンドゥー社会
「ヒンドゥー」との出会い/「釈迦の悟り」はヒンドゥー社会への挑戦/仏陀釈尊の初めての説法/「そうだ、みんな死ぬのだ」
二 『マヌの法典』
アーリア人の宗教・ヒンドゥー教の聖典/女性に冷酷なヒンドゥーの掟/障がいをその人の罪業の結果と考える/ヒンドゥー教に傷つけられた仏教経典/釈迦はヒンドゥー教を超える原理を提示した
三 浄土三部経を読む
私の「如是我聞」/経典の仕組み
四 王舎城の悲劇
『観無量寿経』の世界/通常語られている「王舎城の悲劇」とは/『観経』「序分」には出てこない物語/親鸞はこの物語を捨てた/善導の『観経疏』「序分義」が出所/「愚かな女の物語」に仕立てられて/ビンバシャラはなぜ仙人を殺したのか/王舎城でほんとうは何が起こっていたのか/王妃イダイケの選択/王妃イダイケの回心/『法華経』はどうなったか/六師外道の時代
五 「是栴陀羅」が問いかけるもの
『観無量寿経』に登場する「是栴陀羅」/「是栴陀羅」は「あなたはセンダラになる」と解釈すべき/「毘陀論経説」はどこまで及ぶか/母を殺すと「センダラになる」/大臣は剣の柄に手をかけて迫っている/ガッコウはバラモンだったのではないか/なぜ父殺しは止められなかったのか/女は母としてしか尊重されない/被差別部落の人々を傷つけてきた「是栴陀羅」
六 大乗仏教の女性観
「変成男子」と女人性/『涅槃経』の女性観/女は女のままで救われていった
七 第三十五願を考える
法蔵菩薩の四十八の願い/阿弥陀如来とは真理のこと/悼む心/『仏説無量寿経』の内容/変成男子の願/梶原敬一による第三十五願の解釈/生きつづけている女への差別/第三十五願は女性解放の願/「女人性」は問題をあいまいにする/親鸞の女性観/『阿弥陀経』の世界/祇園精舎を寄進したスダッタ長者/「給孤独園」の現実/釈迦の方便としての浄土
八 反原発の砦のなかで
「ただ黙って法を聞け」?/国家の仕事は止められない日本/信心を問いかけることに失敗した/「自己とは何ぞや」/すべてを「気の持ちよう」で解決/自分が変わるだけでは解けない問題/東本願寺紛争はまだ終わらない/念仏者として社会の現実とかかわる/後を継ぐ私たちの課題
九 新しい教学への息吹
「謀叛―大逆事件一〇〇年」/国に追随した仏教教団/明治の知性に後れをとる精神主義/清沢満之の信仰/「精神主義教学」の限界/この世は信心ひとつで乗り切れるのか/清沢満之を越えていくこと
エピローグ
補論
「王舎城の悲劇」は、なぜ起きたのか?●伊勢谷 功
真俗二諦について●比後 孝
あとがき
前書きなど
はじめに 仏教の原罪
私は、自分は「七〇年代のウーマンリブ」だと思ってきた。女性解放の運動にふれて初めて、自分は何者になろうとしているのかを知ったという想いがある。
以来、仏教徒としての自分と、女性解放運動(フェミニズム)の担い手としての自分とのあいだで、書き手としての立場を紡いできたと思っている。
現在、「フェミニズムの運動は大衆の課題とならずに、頭の上を通り過ぎただけ」という現実がある。「その責任の一端が仏教にあると思えてならない」といえば、あまりに突飛に聞こえるだろうか。
寺に生まれた私は、生まれたときから家には「仏教」が存在していた。しかし、私はいつのころからか、その内実に不審をいだくようになった。いまの私たちは、約八〇〇年前の仏教各派の祖師方の書かれたものを実際に読むことができる。しかし、そこで出会う方々のもつ雰囲気と実際の寺はあまりにもかけ離れている。仏法に深く親しめば親しむほど、その距離感に悩まされる。
いま、「自分は仏教徒」と自ら名乗りをあげる人はあまりいないかもしれない。しかし、私たちの生活をかたどるすべての価値観のなかに、本人の自覚はなくとも、仏教の考え方が紛れ込んでいるかもしれない、といわれたら、即座に否定できる人はあまりいないと思う。寺に育った私を「疎外しつづけてきたもの」と、「自分は仏教とは無関係」と感じている人の「どことない居心地の悪さ」が同質のものであることを確認することは大切なことだと思う。
私の場合、その居心地の悪さをしつこく追求しつづけてきた結果、見えてきた世界があった。それは逆に、釈尊や親鸞の実像に近づくことだったといえば驚くだろうか。
「仏教的なものの考え方」と理解させられてきたものが、逆に釈尊や親鸞の実像を遠ざけるものだったということに、ほぼ独学でたどり着いたとき、私の前に立ち現れた釈尊や親鸞の姿がとても清々しく、生き生きと見えてきたのだ。そのことを読んでくださる方々に伝えられたらと思っている。
上記内容は本書刊行時のものです。