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評伝 尹致昊
「親日」キリスト者による朝鮮近代60年の日記
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2017年9月
- 書店発売日
- 2017年9月28日
- 登録日
- 2017年9月22日
- 最終更新日
- 2017年9月22日
紹介
尹致昊(ユン・チホ)は、近代朝鮮随一の民族独立啓蒙家でありながら日本統治に協力したため「親日派」の汚名を負わされた。しかし60年間書き綴られた『尹致昊日記』からは、民族独立のために呻吟しつつ冷酷な歴史の現実に向き合った彼の苦渋の姿が浮かび上がる。
目次
序章 尹致昊とはいかなる人物か?
第1章 誕生から甲申政変まで 1865~1884年
1.生い立ちと日本に来るまで
2.日本留学時代
3.清韓宗属問題
4.空白を埋めるもの:帰国から日記の再開まで
5.日記再開から甲申政変まで
第2章 海外亡命・留学時代 1885~1893年
1.上海亡命
2.新島襄と別れて米国ヴァンダービルト大学をめざす
3.19世紀末米国の時代背景
4.ヴァンダービルト大学:神学を専攻する
5.エモリー大学
6.人種差別とキリスト教
7.「力は正義なり」VS「正義は力なり」
8.新島襄の死と朝鮮にミッションスクールを設立する構想
9.シカゴ万国宗教会議
10. 5年ぶりの日本
第3章 日清戦争から三国干渉へ 1894~1896年
1.再び上海に
2.東学農民軍の蜂起から日清戦争へ
3.10年ぶりの祖国と井上内政改革
4.朴泳孝不軌事件以後
5.春生門事件:親日内閣にとって起死回生の事件
6.俄館播遷以後
第4章 独立協会と地方官吏の時代 1897~1902年
1.三国干渉以後、朝鮮をとりまく日清露の勢力関係
2.独立協会時代(前期):1897年1月~1898年5月
3.独立協会時代(後期):1898年6月~1902年12月
4.地方官吏時代:1899年1月~1904年3月
第5章 日露戦争から日韓保護条約へ 1903~1906年
1.地方官吏から中央政界への復帰
2.日露戦争
3.第2次日韓協約締結を悲観して官界を辞す
4.馬秀珍夫人の死、白梅麗との再婚
5.パトロンからの離反:父尹雄烈と皇帝高宗
6.松都韓英書院の初代院長となる
第6章 空白の9年半 1907~1915年
1.大成学校の設立
2.青年学友会の設立
3.尹致昊の長期米英旅行
4.青年学友会の終末
5.安岳事件から105人事件へ
第7章 武断統治から3・1独立運動へ 1916~1919年
1.一家の家長として大家族を養う
2.YMCA総務となる:総督寺内との会見
3.3・1独立運動
第8章 文化政治の時代 1920~1930年
1.時代背景
2.文化政治:斎藤実による新体制
3.共産主義思想の流行
4.「基督教彰文社」の設立
5.学生ストに揺れる松都高普
6.朝鮮YMCA
7.朝鮮YMCAの分裂
第9章 満州事変以後 1931~1935年
1.時代背景
2.万宝山事件から満州事変へ
3.急速な軍国主義化
4.満州問題
5.尹致昊の親日化
6.畿湖派と西北派:南北地域対立(2)
7.興業倶楽部と積極信仰団
8.積極信仰団の具体的活動
第10章 親日協力の時代 1936~1943年
1.空白の2年間
2.相次ぐ逮捕劇:国民精神総動員運動への序曲
3.興業倶楽部事件
4.南次郎と尹致昊
5.創氏改名
6.宗教ならびに教育界からの外国人排斥
7.尹致昊、延禧専門学校校長となる
8.日米開戦
9.尹致昊最後の著作
10.尹致昊の最期
終章 なぜ尹致昊は日記にこだわったのか?
1.兪吉濬の『西洋見聞』批判:日記の重要性
2.生活を律するものとしての日記
3.英語で日記を書く:自由を獲得する手段としての英語
4.何のために日記を書くか?
あとがき
尹致昊著作目録・参考文献
年譜
人名索引
前書きなど
序章 尹致昊とはいかなる人物か?
本書で紹介する尹致昊(1865~1945)は、朝鮮が19世紀後半に外国勢力から開国を迫られ、やがて日本の植民地となり36年後に解放されるまで、まさに代朝鮮が国家存亡の危機に瀕した激動の時代を生き抜いた政治家・教育家・宗教家である。その意味では朝鮮近代史を代表する人物のひとりと言うことができる。
しかし現在の韓国で尹致昊と言えば、まずは1919年の3・1独立運動に反対し、安昌浩、李承晩らが上海に樹立した大韓民国臨時政府に協力することを拒否したことで知られる。次いで1937年の中日戦争勃発以後は総督府が進める内鮮一体、皇国臣民化運動に協力して朝鮮人を戦争協力へと扇動した“親日派”の代表的な人物として知られる。要するに尹致昊に対する韓国世論の一般的な評価は低い。
その一方で彼に対する別の評価もある。1890年代末期、尹致昊は徐載弼と組んで朝鮮初の朝鮮人自身によるハングル専用新聞『独立新聞』を発行し、それまで両班階級が独占していた政治に庶民も参加できるようにした。同時に朝鮮初の近代的市民運動との評価がある独立協会運動に加わり、その指導者として旧制度の改革に努力した。さらに日韓保護条約(1905年)により韓国の主権が日本に剥奪されたのちには、主権回復のために起こった民族実力養成運動の指導者として活躍したとされる。
(…後略…)
上記内容は本書刊行時のものです。