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札幌トライアングル
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2021年11月30日
- 書店発売日
- 2021年12月1日
- 登録日
- 2021年10月15日
- 最終更新日
- 2022年1月14日
紹介
山岡正吾が経営するアパレルメーカーが倒産して一ヶ月。石狩の海岸に経理部長の死体が上がった。会社の金を使い込んだことを苦にした自殺と思われたものの、その背後には黒幕が潜んでいた。
正吾の娘優希は兄龍司とともに、真相解明に乗り出す―。
前書きなど
【あとがき】
私の本を読んだことのある人は、本作を妙にリアルに感じるところがあるのではないかと思う。
今回の(株)ジョアン倒産のシーンは、私の体験が基になっている。私は平成間もなく、広告代理店を立ち上げた。平成不況に入る中、倍々で売上げを伸ばし、七年で道内広告代理店売上げで第三位グループを視野にとらえるまでになっていた。北海道拓殖銀行の破綻は、そんな時だった。
噂はあれど国が北海道のナンバーワン都市銀行をつぶすわけがない、と高を括っていた。そもそも広告代理店はクライアントと言われる広告主と、媒体と言われる新聞社やテレビ局のあいだを取り持つ役目。それゆえクライアントから入金になる前に、媒体に入金しなければならないことが多く、銀行の存在が不可欠なもの。
そんな中、私もそうだが、ライバル会社のほとんどが、苦しい台所事情となっていた。当時、北海道の広告代理店の実情は売上げ第一位、第二位がダントツの年商百億円越え。しかし、第三位グループは年商五十億円ぐらいで混沌としていた。
そんな不況風が吹き荒れる中、私は絶対に誰もが成し得なかったスピードで業界売上げナンバーワンになると胸に誓い、突っ走っていたのだ。しかし噂はあったものの、北海道拓殖銀行の破綻はまったく予測できなかった。
これによって、広告業界はどんなことになったのか。その破綻を受けて、前後七年間で、売上げ第一位から第五位までのうち、四社が倒産に追い込まれ、北海道経済から消えて行くことになった。
ちなみに、その内の一社が私の会社である。私の夢は呆気ない最後を迎えることとなってしまった。
生き残った一社は、外国の金融機関に救済されたと聞いている。
それにしても、国はなぜ救済しなかったのだろう。今でも、憤りが込み上げてくる。
天国から地獄へと落ちた私を救ってくれたのは、クラスメイトの面々だ。特に、本作の登場人物『戸波先生』は私の親友T・M、いや、湊知興君をモデルにしたものだ。
彼はいまや東大進学率道内ナンバーワンになった中高一貫教育のH高校の創設メンバーの一人である。当時、姉妹校であり、私の母校であるS高校の進学部長として教鞭を取っていた。引きこもり気味になっていた私を何かと引っ張り出してくれた。誘われて学校に行き、颯爽とした彼の姿を見ているだけで「このままでは終われない」という気持ちにさせられたものだった。そんな私がスカイゴルフ(商標登録の関係で実際はスカイウォークゴルフとした)を立ち上げたのも、それから間もない頃だった。
当時、私は北海道初のゴルフ雑誌を発刊していた。しかし、ゴルフ場は衰退の一途をたどり、競技者の減少が著しかった。一方、北海道幕別町で産声をあげたパークゴルフは、競技人口七十万人、コースも全道だけで七百コースとなっていた。同じゴルフと名前が付くならと、ゴルフ雑誌の中に二十ページくらいのコーナーを設けた。こうして平均年齢七十歳と言われるパークゴルファーと交流を持つようになった。高齢にもかかわらず、元気溌剌とプレーする姿を見て、驚いたものだった。そこでふと、この人たちをなんとかパークゴルフ場の十倍以上の広大なゴルフ場でプレーさせてあげたいという気持ちが芽生えたのだった。そうなれば、ゴルフ場にとっても大変喜ばしいこと。一石二鳥の気持ちで事業はスタートした。
ゴルフメーカーの有名なHゴルフに声をかけ、一打目を打つクラブと二打目を打つクラブを早急に開発し、札幌市内のショートゴルフコースで試打会を催した。それを地元の新聞社が大きく取り上げてくれたこともあり、新聞掲載後は三日間電話が鳴りっぱなし。あっという間に有料年会員が数百名集まり、予想以上のスタートとなった。すべてのショットをティーアップオーケー、使う道具はパターを入れて三本としたこともあり、パークゴルフを上手にできる人は、すぐにでもコースに出られるようになった。
普段仕事で交流のあるゴルフコースに話をすると、午後の時間ならと、全道約四十コースがプレーすることを了解してくれた。その年、第一回のスカイウォークゴルフ大会を貸切で開催した。百数十名が参加し、これでこのスポーツの大発展を確信したものだった。現に道内のテレビ局はもちろんのこと、NHKの衛星放送で全国に紹介もされた。しかし、事業は簡単に行かなかった。当時、私の名前をパソコンで入力すると、いの一番に、負の遺産、倒産劇などがどーんと出て来たのだ。新聞や雑誌に何回も掲載された記事は、一つも出てこない。要するに、個人情報保護法がまったく守られていない頃でもあった。
そんなわけで、頼みの綱の銀行はどこもこの事業を通して私を応援してくれなかった。事業拡大は断念せざるを得なかった。それでも、スカイゴルフと親友の湊君、そして会社の倒産劇を交えた小説を、しかも自分なりのミステリー小説を描いてみたかった。
読書のみなさんに臨場感を味わっていただくことができたなら幸いだ。
ちなみに、スカイウォークゴルフだが、プレイヤーは何十名も残っており、私が倒れた後も同好会として存続している。
また、ゴルフ雑誌に挿入したパークゴルフコーナーは、その後月刊パークゴルフ新聞として、今でも全国のパークゴルフ場に無料配布されている。
カリスマ名物教師として活躍していた親友の湊君はH高校を退任し、現在は札幌市内の高校で臨時講師として教鞭を取っている。私のところに頻繁に顔を出しては、同級生の近況を伝えてくれている。彼には事業の立ち上げの時、本当にあらゆる面でお世話になった。どうか元気で生涯一教師として天職をまっとうしてもらいたい。私も彼を始め多くの友人たちの激励に応えるべくリハビリを始め、奇跡に向かってのあらゆる努力を惜しまないつもりだ。一冊でも多くの作品をこれからも世に送り出せるよう努力する覚悟である。
編集作業が最終段階に差しかかった昨年(二〇二〇年)二月、新型コロナウィルスが発生した。私が入院中の病院はすぐに面会が禁止され、原稿の打ち合わせはまったくできなくなってしまった。そんな中でも、どうにかこの時期に本作が発刊できたのは、ここ定山渓病院の支援によるものが大きい。特にリハビリテーション部の責任者、小川輝史氏には多大なる尽力をいただいた。
「これも木村さんにとってはリハビリの一つですね」そう言って、最終原稿の確認作業すべてに携わってくれたのだ。彼の存在がなければ、本作は日の目を見られなかったかもしれない。この場を借りて、深謝申し上げたい。
二〇二一年初秋 木村 花道
上記内容は本書刊行時のものです。