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新版 絵はがきにされた少年 藤原 章生(著/文) - 柏艪舎
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新版 絵はがきにされた少年 (シンパン エハガキニサレタショウネン)

文芸
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発行:柏艪舎
四六判
縦188mm 横128mm
重さ 350g
276ページ
並製
定価 1,700円+税
ISBN
978-4-434-28068-9   COPY
ISBN 13
9784434280689   COPY
ISBN 10h
4-434-28068-6   COPY
ISBN 10
4434280686   COPY
出版者記号
434   COPY
Cコード
C0095  
0:一般 0:単行本 95:日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2020年10月30日
書店発売日
登録日
2020年9月25日
最終更新日
2020年11月19日
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受賞情報

第三回開高健ノンフィクション賞受賞作品

書評掲載情報

2021-05-01 ダ・ヴィンチ
評者: 「ダ・ヴィンチのひとめ惚れ」関口靖彦編集長
2020-12-21 共同配信    51
評者: 水谷竹秀
2020-12-18 その他  
評者: 中央大学「HAKUMON Chuo」著者インタビュー掲載
2020-11-19 朝日新聞    全国版
評者: 白戸圭一「アフリカの地図を片手に」
2020-11-08 読売新聞    朝刊  全国版
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重版情報

2刷 出来予定日: 2020-11-10
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お陰様で大好評! 刊行直後に重版出来!

紹介

内戦中のスーダンで撮影した「ハゲワシと少女」でピュリッツァー賞を受賞、
その直後に自殺したカメラマン。ルワンダ大虐殺を生き延びた老人の孤独。
アパルトヘイトの終わりを告げる暴動。紛争の資金源となるダイヤモンド取引の闇商人……。
新聞社の特派員として取材をつづける中で、著者は先入観をくずされ、
アフリカに生きる人々、賢者たちに魅せられていく。
アフリカ―遠い地平の人々が語る11の物語。
第三回開高健ノンフィクション賞受賞作品

目次

第一部 奇妙な国へようこそ
1 あるカメラマンの死
2 どうして僕たち歩いてるの
3 噓と謝罪と、たったひとりの物語
4 何かを所有するリスク

第二部 語られない言葉
1 絵はがきにされた少年
2 老鉱夫の勲章
3 混血とダイヤモンド
4 語らない人、語られない歴史

第三部 砂のよう、風のように
1 ゲバラが植えつけた種
2 「お前は自分のことしか考えていない」
3 ガブリエル老の孤独

文庫版(二〇一〇年)あとがき
あとがきにかえて
引用文献

前書きなど

  あとがきにかえて



二〇〇五年十一月に第三回開高健ノンフィクション賞を受賞し集英社から出版された「絵はがきにされた少年」は五年後の一〇年八月、集英社文庫として発行された。そして、その十年後に当たる二〇年、「新版」として札幌市の出版社、柏艪舎から出版されることになった。この本の初稿を書き上げたのが〇二年一月なので、かれこれ十九年近くの歳月が流れたことになる。
それはあとづけ、つまり後々に浮かんだ考えを当初からあったように都合よく記憶に貼りつけただけなのかもしれない。だが、私はこの原稿を書いているとき「二十年たっても古びないものを」と漠然と思っていた。
なぜ二十年だったのか。いまではその理由もあいまいだが、二十年は十分すぎるほど長い時間だと思っていたのだろう。原稿を書いた当時、私は四十歳だった。だから、それまでの人生の半分くらいの長さ、つまり二十歳からの二十年という年月の重みを意識していたのかもしれない。
この本を書こうと思ったきっかけは、〇一年九月十一日に起きた米同時多発テロ、いわゆる9・11だった。
私が財閥系の企業のマイニングエンジニア(鉱山技師)をやめて新聞記者になったのは二十七歳の終わりで、あの事件が起きたときは、記者を始めて十二年が過ぎていた。私はそのころ、ネタを追い、新聞にやや長めの原稿を書くことに夢中だった。このため、本を書くことは、さほど差し迫った欲望ではなかった。
多くの新聞記者がそうであるように、パラパラとめくられさっと読み捨てられる原稿を書くことに美徳を感じ、私は本当に少しずつだが、年を経るごとに取材と原稿書きが上手くなっていくことに満たされていた。新聞記者といっても主に海外のことについての読み物記事を書くことを究めたいばかりに、じっくりと腰を落ち着けて本を書くなどということに目が向かなかった。
南アフリカのヨハネスブルクから春に帰国し、翌春、メキシコに転勤となるまでの一年間を東京で過ごし、まさにそのど真ん中で9・11は起きた。
日本にいたときの私の仕事は新聞社の外信部での内勤作業だった。世界各地に散らばる特派員の補佐役で、彼らの記事を補強する情報を集めたり、あるいは突発的な大ニュースが入り、彼らに書く余裕がないときには、東京発で原稿を書く。各地との時差もあるため、深夜勤務が日常で、週に一、二度は泊まりもあり、常に時差ぼけが続いている状態だった。
そんな泊まり勤務の晩、「きょうは何もないな」とのんびり構えていたら、9・11の第一報が飛び込んできた。大きな編集局の一番端っこにある外信部には、人の頭ほどの高さの位置にテレビが二台が置いてあり、左側の一台には常にNHKの第一放送が、右側のもう一台にはアメリカのケーブルネットワーク、CNNの映像がつけっぱなしになっていた。
部内にはその日、四十代のデスクと三十代の記者と私の三人が当番でニュースをのんびりと処理していた。そんな中、ニューヨークのツインタワービルの映像に私が最初に気づいた。ビルの映像を流しながらキャスターが「火事でしょうか」「かなりの煙が上がっています」とまだ慌てた様子もなく伝えていた。「ビルの火事ですかね」。私はデスクにそう声をかけ、よく聞こうとテレビのすぐ脇に立ったそのとき、「パーン!」という大きな鉄板がぶつかり合うような音が耳に飛び込んできた。
「ロケット弾でしょうか。何かぶつかったようです。爆破のようです」。直後、キャスターがそう叫んだ。
しばらくたってわかることだが、ツインタワーに二機目の旅客機が突っ込んだ瞬間だった。
「紙、紙、すぐ、それ」。同僚に束になっている新聞社専用の原稿用紙を渡してもらい、私はテレビの脇に立ったまま、CNNが流す情報を逐一、日本語に訳していった。
同僚は私の訳文を受け取ると、「米CNNによると」と情報源を書き込んではパソコンに打ち込み、すかさず社内のシステムへと流し、それを目の前のデスクが端末でチェックし、読みやすい原稿に仕上げていく。ほどなくゲラと呼ばれる、印刷前の記事の写しがひっきりなしに届き、それを私たちが交互にチェックしさらに情報を書き込む。あたりでは「ガランガランガラン」あるいは「ピーコーピーコー」という共同通信のニュース速報が専用スピーカーから鳴り響き、大きな編集局の一番奥、社会部の辺りではかけつけた記者たちが「うわー」「はあー」などとツインタワーの映像に嘆声を上げている。
そうこうするうちに外信部にも記者たちが次々と集まり、十脚ほど机を並べた島のあたりは人であふれたが、私はその晩ずっと立ちっぱなしで、朝刊の最終版、都心部に届く分の最後の締め切りが過ぎる午前一時半までCNNテレビの脇で耳をすまし、ひたすら新たな情報を書き続けた。
耳、脳、手は機械のように事務的な作業を続けながら、何か事件が起きたときにあれこれ考える癖からか、私はいろいろなことを妄想した。
とんでもないテロが起きた。おそらくアルカイダだろう。というのも、私はその二年前、ナイロビの米大使館爆破テロ事件の現場におり、アルカイダが米国関連の施設に向け新たな攻撃をするだろうと予測していた。
しかし、まさか、ニューヨークを直撃するとは、しかも、ハイジャックした飛行機で突っ込むとは。
アメリカはすかさず報復に出るだろう。アフガニスタンが戦場となる。イラクもやられるか。リビア、スーダンはどうだろう。
それよりも何よりもアメリカは国境を閉じるだろう。
メキシコから移民は入れなくなり、どれだけの人間がコヨーテの餌食になるのか。いや、中東の人間にもアフリカ人にもアジア人にも、門戸を閉ざすかもしれない。でも、ニューヨークは移民の街じゃないか。あのツインタワーではアメリカ人だけではなく、どれだけの移民、外国人が死んだのか。彼らもいずれこの国から締め出される。
メキシコと南アフリカ、それまでの人生の大半を外国で暮らしてきた私の子供たちはどうだろう。彼らが暮らしやすい国がどこにあるのか。少なくともその一つの国として、移民国家のアメリカがあったのは確かだ。でも、それが消えたらどうなる。いま十歳になったばかりの長男をはじめ、彼らが将来、アメリカに移住できないばかりか、どこの国境も越えられないなんてことになったら、彼らはどうすればいいのか。
私の妄想はツインタワーの下の階でメキシコ人たちに混じって清掃作業をする成人した長男の姿が目に浮かんだ。その息子が、旅客機が切り裂いたことで一気に崩れゆくタワーの下敷きになる。
すると、まるで竜巻が起きたかのように、あらゆるものが風に舞い上がり、大きな泥色の竜巻とともにすべてが消えていく。
時代は明らかに変わる。いま、まさに変わろうとしている。
そう思うと、私はそれまで自分が出会ったアフリカの人々、自分自身の過酷な体験も何もかも、すべてのことがあの竜巻に巻き込まれ消えてしまうような気がした。
待ってくれ、行かないでくれ、といくら手を伸ばしてももう届かない。あのおじいさん、ガクワンジ氏もガブリエル老もニャウォ氏も、アマリアも何もかも、すべてが藻くずのように消えてしまう。
9・11のニュースを伝える源流部で淡々と作業をこなしながら、私はそんな思いにとらわれていた。
その晩は仮眠をとり、翌早朝から様々な情報源と電話やメールでコンタクトをとりながら犯人像、アルカイダの組織像の解明を急いだ。
するとほどなく、朝日新聞にこんな論調の記事が載った。テロの原因は貧困にある。武力による報復ではテロを根絶できない。テロをなくすにはまず貧困をなくさなければならない。
それを見たとき、私の中から自分でも驚くほどの怒りが湧いてきた。
机上の論だけ繰り返しいい気になっているエリート記者がわかったふうなことをぬかしやがって。貧困がテロの原因だと言うのなら、もしそれが本当なら、なぜアフリカ人は爆破テロを起こさないんだ。なぜなんだ。
自分の論を展開するため、「貧困」を手駒のように転がしているだけだろう。貧困の撲滅などという前に、貧困がなんなのかを考えたことが、感じたことがあるのか。世界銀行が発表するデータを見ているだけじゃないのか。
自覚はしていなかったが、そんな恨みにも似た思いが、私を原稿に向かわせた。実はその半年前に帰国してから、編集者や同僚が「アフリカのことを本にしたらどうか」と声をかけてくれた。また、私はカルチャーセンターで週に一度アフリカについて講演もしていた。だが、そのときまで、9・11が起きるまで、本を書こうという思いは湧いてこなった。
9・11の直後、新聞記者としてはものすごく忙しい中で、私は早朝や週末を利用して、アフリカ滞在時の新聞の連載記事を下敷きに原稿を書き進め、ほぼ三カ月で書き上げた。

それを印刷し、本を出すよう勧めてくれていた先輩記者に紹介され、岩波新書の編集者に持っていった。当時五十代半ばのその編集者は私の仕事内容や、父親の職業など私の素性についてはあれこれ聞き出すが、手渡した原稿はめくりもしなかった。二週間ほどして再び訪ねたら「アフリカものは売るのが難しくてねえ」と言い、また共通の知人の話など雑談に持ち込むので、原稿の中身について聞いてみると、読んでいないことがすぐにわかった。
「まだ読んでいない」と言えばいいのに、「アフリカものは」と言ってごまかし、何かのコネに使えないかと相手を常に値踏みしているような俗物めいた男に、一行たりとも読んでもらいたいとは思わなかった。「返してください」と私は彼の手元から原稿を奪うように持ち帰った。
出版のあてもなく困っているうちにメキシコへの転勤の日が迫り、私は原稿を北海道大学山岳部の十三年先輩のライター、浜名純さんに見てもらうことにした。
するとすぐに電話があり、「すごくいいよ。これは本にしなきゃダメだ」とひどく気に入ってくれた。私は舞い上がるような気分になり、「俺が知り合いの出版社、回ってやるよ」という温情に甘え、原稿を浜名さんに託し、〇二年春、メキシコに移住した。その後、浜名さんからは半年に一度ほどのペースで連絡が来た。主だった出版社の返答は「いい原稿ですが、アフリカものは営業的に弱い」というものだった。
私は中南米をフィールドにした目の前の仕事に加え、イラク戦争やアメリカ大統領選のカバーで何度となくワシントンやイラクに長期出張させられたため、主にルポルタージュを書くことに没頭していた。また、自分の趣味を生かそうと、コロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスの作品舞台を回って連載記事を書いたりもしていた。
そんな折、浜名さんから「集英社新書に持っていったんだけど、やっぱりダメで、でも担当の方が『いい原稿なので開高健賞に応募したら、佳作ぐらいには入るかもしれません』と言ってくれたので、書き直してみてはどうか」と応募要領を送ってきた。
その時点で私は出版をほぼ諦めており、同じ題材で小説にしようと思っていた。アフリカの老人ら、原稿の登場人物たちをライターの私が書くのではなく、彼ら自身が自らを語るというスタイルで書き直そうと思っていた。
その旨を浜名さんにメールで伝えると「いや、でももったいないよ。小説は小説でいずれ書けばいい。でも、この原稿はこれだけで生きている、いい原稿なんだ。これを出さない手はないよ」と言ってくれたので、私は〇四年の暮れ、三年ぶりに原稿を読み直し、少し手を入れると、メキシコの自宅から賞の事務局に直送した。
翌春、忘れていたころに集英社の吉村遥さんから国際電話があり、「おめとうございます、最終候補に選ばれました」と伝えられ、彼女が担当となり、もう一度書き直し、夏の最終選考会で受賞が決まった。
三百万円もの賞金の一部は本の中に出てくるアフリカの友人たち、そして浜名さんにも渡したが、彼は遠慮してその半分しか受け取らなかった。残った賞金は、すでに逼迫していた私の子供のインターナショナルスクールの授業料に消えた。
メキシコから一時帰国し授賞式で初めて本を手にした私はその重量感に驚いた。9・11後に書き始めてまる四年が過ぎていた。
その後、注文もいろいろいただいて、何冊か本を書いてきたが、考えてみたら、「絵はがきにされた少年」ほど無心に、そして無垢に近い気持ちで本を書いたことはない。
のちの書き直し、刈り込み作業の中で、最初は四〇〇ページほどあった原稿をかなり削り込んできた。そうするちに、本来、この本を書く原動力になった私の中の「怒り」はさほど露ではなく、行間に沈んでいった。
それでも読む人にはわかるようで、学生時代からの友人で国立極地研究所の職員、樋口和生君がこの本を読むなり、こう伝えてきた。「藤原の怒りが出てるな。怒りがこれを書かせたんだな」
単純な言葉、理解で物事を飲みくだし、それで良しとする社会。それに対する怒りだろうか。でもそれだけではない。きっと、これを書いた四十歳の私は、二〇〇一年の私はあらゆることに怒りを抱いていた。
今回、読み直した際、そのあたりの怒りの粒があちこちに散見されていることに気づいたが、それをあえて掘り返そうとはしなかった。いまなら、もっと違う書き方ができたのに、もっと結論めいたことを書けたのにと思うこともあったが、表現を若干わかりやすくした程度で、大きく変えなかった。若書きながらも、そこにある熱を冷まさないようにした。
担当いただいた柏艪舎の可知佳恵さんとは二年前の秋、作家、丸山健二氏のお宅でたまたまお目にかかった。以来、私の原稿をよく読んでくれていて、今年の六月、別の原稿の感想をいただいた際、「絵はがきにされた少年」の話を私がもちかけたら、山本光伸代表とともにすぐに快諾いただいた。
私と縁のある札幌市の柏艪舎のおかげで、この本が新しい形で出版されることを心から喜んでいる。浜名さん、吉村さんをはじめ、多くの方々に感謝しています。

  二〇二〇年九月、東京                     藤原 章生

著者プロフィール

藤原 章生  (フジワラ アキオ)  (著/文

藤原章生(ふじわら・あきお)1961年、福島県いわき市生まれ、東京育ち。北海道大工学部卒後、エンジニアを経て89年より毎日新聞記者として長野、南アフリカ、メキシコ、イタリア、福島、東京に駐在。地誌、戦場、人物ルポルタージュ、世相、時代論を得意とする。本書で2005年、開高健ノンフィクション賞受賞。主著に「ガルシア=マルケスに葬られた女」「ギリシャ危機の真実」「資本主義の『終わりの始まり』」「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」。

上記内容は本書刊行時のものです。