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復刻版 北の山の栄光と悲劇 滝本 幸夫(著) - 柏艪舎
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復刻版 北の山の栄光と悲劇 (フッコクバン キタノヤマノエイコウトヒゲキ)

社会一般
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発行:柏艪舎
発売:星雲社
四六判
重さ 500g
354ページ
並製
価格 1,800円+税
ISBN
978-4-434-22073-9   COPY
ISBN 13
9784434220739   COPY
ISBN 10h
4-434-22073-X   COPY
ISBN 10
443422073X   COPY
出版者記号
434   COPY
Cコード
C0095  
0:一般 0:単行本 95:日本文学、評論、随筆、その他
出版社在庫情報
在庫あり
初版年月日
2016年6月
書店発売日
登録日
2016年5月24日
最終更新日
2016年6月6日
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紹介

全ての山好きに捧げられた、
待望の書、ついに復刊!

あらゆる山の頂上を追い求めるアルピニストは、常に死と隣り合わせの世界に身を置いている。
その現実から目を背けず、北の山々で起こってしまった悲劇を、膨大な資料と長年の取材を元に綴ったノンフィクション。

目次

 滝本さんに感謝をこめて  田中澄江

第一章 日高の開拓・ああ、ペテガリの道遠く
  ペテガリに印された慶応義塾の足跡 
  北大隊厳冬の幌尻岳に立つ 
  北大第一次ペテガリ遠征隊の断念 
  八人をのみこんだ未曽有の雪崩 
  悲劇から三年、厳冬を制す 
  戦後、幾多の遠征隊によってペテガリは開拓された 

第二章 怨念の川・日高、札内川鎮魂歌
  東北大遭難の不吉な予兆 
  四〇万トンに及ぶ〝白き魔人〟の襲来 
  札内川の増水で捜索打ち切り 
  遺体発見、そして悲痛なる遺書 
  静かなる怨念の川の流れに…… 
  北大山岳部長・奧村敬次郎の遭難死 
  室蘭工大二年連続遭難の悲劇 

第三章 羆との闘い悲し、八ノ沢に紫煙と消えて
  身も凍る羆の根強い怨念 
  気違い羆の執念に魅入られた福岡大パーティ 
  遅かった下山の決意 
  羆よ塒へ帰っておくれ 

第四章 岳人の心の山、利尻開拓の火は燃えて
  未知なる利尻に挑んだ登歩渓流会 
  風雪に阻まれ南稜初挑戦に失敗 
  川上晃良、苦闘の東稜単独初登 
  内地岳人による利尻開拓の先鞭 
  札幌山岳会のアタック 
  北の岳人の心をゆさぶった山・利尻 

第五章 中央高地・そこには人間のドラマが……
  安政年間の石狩川流域大探検 
  北大・伊藤パーティの石狩岳征服 
  帯広畜大の快挙と東大雪での遭難 
  雪洞八日間、奇跡の生還 
  酪大合宿隊に見舞った不幸 

第六章 吹雪の大雪山に結ぶ心のザイル
  画期的な表大雪へのアタック計画 
  魔の天候、雪洞の崩壊 
  未曽有の大遭難、死の行進 
  リーダーただ一人だけの生還 

第七章 陸の孤島「知床」に魅せられた男たち
  近世登山の開祖・松浦武四郎の蝦夷地探検 
  知床開拓期の軌跡 
  京大パーティ「陸の孤島」への大遠征 
  大雪、利尻よりもなお重く…… 
  北海道の先住民・アイヌへの哀惜 

第八章 芦別岳讃歌・ふるさとの山いま燃ゆる
  富良野の里に凝立する良き山 
  芦別岳登山が開花した昭和初期 
  遭難多発で魔の山の本性が…… 
  えぞ山岳会女性パーティの受難 
  太古不変の芦別に捧ぐ 

第九章 北の山々・白き魔王の刃に逝った者たち
  北西風の通路・風雪の横津岳 
  学大尖鋭リーダーの唯一の失敗が…… 
  高校生パーティを襲った寒冷前線 
  大衆登山のメッカ・暑寒別岳 
  島崎パーティを拒絶した山の天候 

第十章 原野の人・自由と創造を未開の地に求めて
  桁違いの体力と桁違いの情熱 
  決定的な山との出会い 
  酪農と創作・山行の日々 
  日高原野の開拓へ 
  未曽有の寒波と相次ぐ子供の病気 
  山岳画家として生きる 

終章 日高全山縦走と集中登山と……
  北の山に君臨し続けた北大山岳部 
  縦走、そして集中登山の時代へ 
  鋭峻なるウエンシリに立つ 
  山を、自然を愛した先達のように 

 資料・登山史年表 
 あとがき 
 復刻版の出版に際して
カバー写真・梅沢 俊 本文カット・岡田勝英 地図制作・小松惣一郎

前書きなど

  あとがき

何時の頃からであろうか、北の山の記録や歴史に興味を持つようになったのは。
もちろんそれは、本格的に山歩きを始めた時からに違いないが、例えば、初秋の一日の満ちたりた単独行の帰りに、ふと何て素晴らしい山道なのであろうか、と落葉に埋れた踏跡に、妙に懐しさを覚えて佇むことがあった。この踏跡を幾百人の先達が歩いたのだ。自らの手に鉈を持ち、切り開いていった歴史があったのだ。
確かにこの山へ最初に分け入った人がいる。初めてこの輝く銀嶺にシュプールを刻み付けた先達がいる。そしてまた、その山肌に拭いさられることなく鮮明に刻印されている遭難の悲しい歴史……。
仲間たちと山へ入る度に、それらは痛いほど僕の胸を締めつけていた。
僕はどの山へ登っても、そんな気持の方が常に先行していたように思う。
しかし、その発芽はもっと遡らなくてはならない。それはエベレストと戦ったイギリス隊の壮絶な歴史を訊き知った時からであろうと自分では思う。小学校時代だから、児童向けのダイジェストで読んだのかも知れない。
マロリーとアーヴィンが、今でなら考えられないいかにも重そうな酸素ボンベを背負って、エベレストの頂上直下を虫が這うように登って行くのを、第五キャンプで彼らを支援していたオデルが、ほんの一瞬の霧の晴れ間から垣間見たのが二人の最後の姿だった、という情景が頭にこびりついて離れなかった。もちろん今でもだが。
確か家には『エベレスト登山記』という本があったように思う。あったとすれば、それは昭和五年に第一書房から出版されたヤングハズバンドのものであるはずだ。ちょうどマロリー等がエベレストの直下で消息を断った第三次までの遠征記を纏めたものである。それと昭和十一年に岩波文庫から出されたウィンパーの『アルプス登攀記』があった。これは今でもあるが、その山岳界の古典的名著といわれている『エベレスト登山記』は何処へ行ってしまったのか今はない。その登山記をもとに長兄からエベレストの話を訊いた記憶もある。

僕は二十代に入ってから山歩きを始めたが、それは決して突然変異ではないと思っているし、またこうやって歴史や記録に自然と興味を注がれるようになったのも、ウィンパーやマロリー、そしてイギリス隊(人)とエベレスト(山)との凄まじい闘いにみる人と自然との因縁めいた結び付きが、何か信じがたい驚異の塊となって常に心の片隅にあったからだと思う。
そのようなことから、読物は当然のごとく、ノンフィクション一辺倒ということになっていった。
中でも、昭和二十四年に初版された春日俊吉氏の『山の初登攀物語』(朋文堂)との出会いは嬉しいものだった。春日氏は既に昭和八年に『日本山岳遭難史』(三省堂)を上梓している。年代からしてこの種のものの草分け的な存在であったものと思う。氏のものは、ジャーナリスト出身者の文章らしく読みやすく、常に僕の座右に有った。
僕はどんどんその世界へ入っていった。
嗚呼、R・アムンゼンの『アムンゼン探検誌』(朋文堂)!???! W・ノイスの『エベレスト―その人間的記録』(文芸春秋社)!???! M・エグゾールの『処女峰アンナプルナ』(白水社)!???! そして、H・ハラーの『白い蜘蛛』(白水社)、ナンガ・パルバートの登攀史、ナンダ・デヴィで忽然と消息を絶ったロジェ・デュプラの詩……。
歴史が山登りに必要かどうかは別にして、山登りとは山があるから登る、美しい草花に逢えるから登る、清涼な大気と開豁な展望があるから登る、それだけで十分なものなのかも知れない。しかし僕はそれだけでは物足らない。その山々に先達の歴史があるなら、それを知りたい。その歴史を探りたい。その歴史に浸りたい。良くいえばロマンチスト、良くいわなくとも少々女々しいのかも知れない。

この『北の山の栄光と悲劇』は、僕にとって二冊目の著書になる。
昭和五十三年一月から〝山と渓谷〟に、短期集中的な型式で、一回の枚数を増やして連載を始め、六回で一応完結させていたものに加筆をし、またそれと同程度の追加をして完成させたものである。
この連載に当って、相当以前から、第一章の素材となった原稿を「ペテガリ物語」と題して、四十枚ほど山と渓谷の編集長だった為国保さんに送ってあった。為国さんは決断に慎重だった。
ある日為国さんから手紙が届いた。手を入れた返却原稿と一緒に。その中の一部に次のような忠告の言葉があった。
この種のものは冷静に客観的に見詰めて書かなければいけない。枝葉末節をバッサリやって、十の知識(資料)があれば四割方押え込んで書き込むことだ。要は行間から滲み出るものがなくてはいけない。
要約すればこの様なことだった。グサリと胸を突かれる思いだった。もう十年にもなろうかという前のことである。
僕は敗けまいと思い、その言葉を胸にしまい込んで、数年後「北の山の栄光と悲劇」として六回分を山と渓谷社へ送った。〝岩と雪〟の編集長から、また〝山と渓谷〟に戻っていた為国さんは、今度は何もいわなかった。
担当の森田さんは、文章はともかくとしてもいい写真がなくて、と零しながらそれでも何葉かの記録写真を捜し出してくれた。ペテガリの章も、利尻の章も、それで大いに厚みを増した。

しかしその苦労は編者の森田さんに限らず、当然といえば当然のことだが、僕も同じだった。
「行間から滲み出る」ほどの資料を山積みして書き進めた訳ではなかった。
一番記述に困ったのは、第六章の学大函館分校旭岳遭難のくだりである。資料も写真も無かったからだ。
この遭難事故は、我が国の山岳遭難の中にあっても未曽有のものであって、北の山の悲劇を書く上で避けて通っては行けない。
唯一の生存者である野呂幸司氏に逢うしか道はなかった。
野呂氏の印象は、遭難当時の新聞の切り抜きで大凡の感じは掴んでいた。知的で快活な好青年という風に。そのアクシデントから十五年の歳月を経て僕の前に現われた野呂氏は、僕の印象が間違いでなかったことを証明してくれた。実に爽やかで少しの翳りもなく、何度も僕の職場へ立ち寄ってくれ、この件について先輩諸氏の同意を取り付けてくれたばかりでなく、資料もアルバムもどんと僕の元へ送り届けてくれた。この時ほど嬉しかった事はなかった。よくぞ頑張って生還してくれたなあと、あらためて野呂氏のにこやかな笑顔を見る僕だった。
新妻徹さんからは、最終稿を送って一段落着いていたときに、沢山の写真が届いた。僕は喜びのあまり飛び上がらんばかりに(実際には飛び上がったのだが……)、その写真に見入り、その写真たちに喝采を送った。何れも北の記録を語る上で欠かすことの出来ない貴重なもので、これで終章の項も、知床の項も明るいものになった。早くにお願いしていたものを忘れないでいてくれたのだった。
本来北見山地との戦いの歴史は一章をもって成るべきものである。安易に扱ったと後悔している。何れ機会があれば完璧なものとして再現すべきであろう。
何だか写真入手の苦労話になったついでに、もう少し話を続ける勝手をお赦しいただきたい。
虻田の高橋和子さんからは、早大尾根からペテガリを越えた時のスライドを沢山送って貰った。また、僕が留萌にいた時に知り合っていた阿部事夫氏にも、暑寒別岳の項でお世話に成った。札幌在住であった事も幸いした。
札幌山岳会の安田成男氏には、きちんと整理されたアルバムから、慌しく数葉の写真を拝借した。芦別岳のくだりはそれで重量感が増した。二~三日その写真を見ながら語り明かしたいものだと思った。それほど綺麗に歴史の詰ったアルバムが山の様に有った。
同じく札幌山岳会の計良幸作氏とは、原文の時からのお付き合いで、今回も知床、利尻の歴史的な写真の入手にも、快く応じていただいた。
表紙を、いかにも北の山の酷寒の厳しさと無類の淋しさ、そしてあくなき闘魂を滾らせるに充分な芦別岳のシャープな写真で飾ってくれたのは梅沢俊さんである。
彼は若手の気鋭の写真家で、この時が初対面ではあったが、山の雑誌の中に彼の名前を捜し出すことは容易であったから、旧知の間柄の様な気がして仕方がなかった。これから益々いい仕事をしていくだろうなあという気概が、この仕事のために用意をしてくれた幾葉ものネガを通して、ひしひしと僕の方へ伝わってきた。
表紙は出版社に無理を云ってでも、梅沢さんの写真にして貰おうとその場で決心をした。
カットは岡田勝英さん。僕にとって多年憧れの人物であった。何とも云えない茫洋とした春霞のような優しいタッチで、何号かの北大の部報を飾っていたのを知っていた。
本の進行が終盤に近づいた頃、出版社の方から突然カットの話が出てきて戸惑ったが、瞬間的に岡田さんのことを想い出した。
こんな形で、僕の本に色を添えてくれることになろうとは夢想だにしなかった。
僕はある秋晴れの朝早く、カットを受け取るために北星学園女子高の門をうきうきとして潜った。受付へ行くと、そこにはその日早朝、修学旅行の随行として旅立っていった岡田先生の、前夜までの苦闘の作品が沢山紙袋の中に納まって僕を待っていた。はしたなくも、僕は路上でそれ等の一枚一枚を見ながら歩いた。温もりが全身に伝わってきて無性に嬉しかった。

最後の最後になって、ペテガリ岳北大遭難時の写真のことでアクシデントが起った。気にはなっていたが他のことに追われて放置していたのである。この判定は、何はさておいても、当時の生存者である橋本先生(北大理学部教授)にお願いするより他はなかった。
橋本誠二氏は、日高開拓期の第一人者でもあり、また北の登山史上に名だたる大先達でもある。中でもペテガリへ賭けた情熱は並のものではなかった。昭和十二年、十四年、十六年と果敢に闘いを挑んだ。その大先達に写真の誤りを指摘され、そして快く、お好きな写真をお使いなさい、とアルバムを差し出された時の僕の気持は、正直「山男良きかな」で感激はひとしおであった。
これが文字通り、この仕事の最後になった。

こう書いてくると、自分の力など十分の一も本書に入っていないとがっかりするぐらいだ。
本書の「歴史」の中にも、この様に嬉しいことばかりではなかった。

第十章の「原野の人……」の構想を練っている時、坂本直行さんの突然の訃報が飛び込んできた。お加減が悪いということは耳に入っていたが、こんな急なものとは思ってもいなかった。
坂本先生とのお付き合いは、深田久弥さんを東大雪の山へご招待した時にお逢いしたのが最初だから、晩年の一時期に過ぎない。札幌の宮の沢へ居を構える直前だった。
昭和四十年の暑い夏だった。直行さん(先生には失礼だが、山仲間の誰もが、ちょっこうさんと呼んでいた)は、ザックにカンバスを抱え、豊似から深田さんに逢いに帯広へ出てきた。お昼を食べてから日高山脈の良く見える音更の高台にある鈴蘭公園へ行った。
深田さんは直行さんのことを「老いしライオン」といい、東京の山仲間はそれに比べると「青白い哺乳類」だといった。名言であるかどうかは別にして、直行さんの前へ行くと誰でもが「青白い哺乳類」に見えてしまうのだ。
その「老いしライオン」は、その後益々充実し切った生活を送っていった。光輝に満ちた第二の人生であったに違いない。
台湾の玉山へ行くときには、何も申し上げないのに山の様な資料を差し出して「いくら台湾山岳協会から人が付くといっても、十分調べて行くものだ」といって僕に日本山岳会の会報「山岳」の古い資料を持たせた。
今となっては、あれもこれもと後顧の憂いが残るけれど、二つだけ無理をいってそうして貰ったことが良かったと思うことがある。
一つは、国の福祉施設で保養センターを建設する仕事が僕の担当になった事があった。僕はまだ設計が始まったばかりの段階から、秘かに部屋の名称は直行さんに選んで貰おう、もちろん北の山野を彩る高山植物の名で、と考えていた。しかもその部屋には、その花の絵を描いていただいて飾ろうと。
この計画は見事に成功した。上司が僕の計画に賛意を示してくれたことが何よりだった。十九の部屋に十九の花の名が付き、十九の花の絵が飾られた。こんな仕事は初めてなはずですと後で奥さんが語ってくれた。僕は無理をしてこの計画を推し進めたことが良かったと確信している。
二つ目は、浜小清水の濤沸湖畔にあるユースホステルに、そこから見事に眺望される斜里岳の絵を、直行さんの筆に依ってロビーに掲げることである。ペアレントのKさんとは二十年来の友である。二人は直行さんの家へ伺ってその話をした。それから直行さんはちょくちょく浜小清水の方へ出掛けるようになった。十五号の斜里岳の大作がユースの一番いいスペースへ、正に燦然と輝いて座したのはごく最近のことである。
坂本先生が亡くなられてから、その業績のようなものを結果的に書く羽目になったのはいかにも辛かった。しかし、この出版の構想の中に、楽古岳を含めた日高山脈の開拓と、北の大地に根ざした苛酷な開墾生活を書く事になっていたので勇を振って筆を取った。ごく簡潔に纏めた。
主のいなくなった宮の沢のお宅へ写真を借りに伺って僕は涙が溢れ出るのを押えることが出来なかった。三十代の情熱を滾らせ、眩しいほどに輝いている坂本直行がそこにいたから。
僕は何とも表現のしようもない気持で、奥さんの差出してくれる沢山のアルバムに目を通した。奥さんは厭な顔一つされず、これは松川五郎さん、こちらは有馬洋さん、これは越年小屋と説明を加えてくれた。まだ先生が亡くなられて三ヵ月と経ていないのに、そんな悲しい追憶の世界へ奥さんを引きずり込んでしまった僕は、何故か口が渇いて何度もお茶を啜った。後悔の念で一杯だった。
この章は、坂本直行そのものを書くことになり、この本の主旨からは少し異質のものとなったが、またあるテーマを与えてくれもした。

それは「北の山の人物誌」といった種類のものである。人を書くことによって山が現われてくる。道が浮んでくる。
今、頭に浮んでくる人物を、ただ単に思い出すまま羅列してみよう。物故者もいれば、現役もいる。これは今まで、人より少しは多くの北の山の資料に親しみ、その中の範疇から浮び上がってきた登山史上の特異な人々であることを特に断っておかなければならない。云ってみれば、僕の知識の範囲内でのことで、さしたる根拠がない事はもちろんである。
伊藤秀五郎、坂本直行、中野征紀、加納一郎、徳永直、須藤宣之助、奥村敬四郎、有馬洋、橋本誠二、片山純吉、松川五郎、佐々保雄、相川修、金光正次、伊藤紀克、大石実、金子春雄、可知邦成、木村利雄、金井五郎、一原有徳、小須田喜夫、清水一行、漆畑穣、沢田義一、佐々木孝雄、新妻徹、野呂幸司、楡金幸三、石橋恭一郎、西信博(三兄弟)、舘脇操、木下弥三吉、水本新吉、それに板倉勝宣、大島亮吉、今西錦司、深田久弥、田中澄江と書いていくと限りがない。それぞれに北の山を愛し、あるいは一時代を築き、あるいはこの山岳に何かを残した人々であることには違いない。書けば書けそうな気がしないではない。いや、それは訂正しよう。ただテーマにはなりそうな気がする。永遠のと付け加えることも忘れまい。
こんな夢のような話が本気で浮んでくるほどに、北の山の歴史は楽しい。

本書は、貴重な文献の切り貼りで出来上がったものである。ただ、単なる登山史ではないので、まったくオリジナリティがないとは云えない。しかし、「その時」の現実を一歩も外れまいとして書いた。書けたつもりでいる。
オリジナリティがあるとすれば、「その時」の心情だけである。その心情を問われれば僕には自信がある。そう云う意味ではオリジナリティなど無いと云っていいのかも知れない。僕はその時々に、藪を漕ぎ、風雪に吹かれ、歓喜に涙し、ただただ共に歩み続けていた。

本書が上梓されるまでに多くの人々のお世話になった。前述にも、その辺の経緯を書いたが、それ等は心を込めたお礼の意味以外の何ものでもない。
このテーマを書くきっかけを作ってくれた山と渓谷社の為国保さんにまずお礼を申し上げたい。氏の助言がなければ本書は間違いなく生れてこなかった。
また多くの貴重な諸文献の著者には深甚なる謝意を表わさなくてはならない。
そして、またどれだけご多忙か存じ上げているのに、不遜にも序文をお願いした田中澄江先生には、何をどう書けば良いのかお困りになったに違いないのに快く引き受けて下さり、身にあまる序文をお寄せいただいた。感謝の申し上げようもない。自分でない自分が原稿用紙の升目に埋っていて困ったが、お願いした以上はと目を瞑って出版社へ送った。
最後になったが、小島六郎さん、川上晃良さん、北穂会の山本和雄さんにも、山積する写真資料の中から大変なお手間をとらせて、貴重な写真を快くお貸しいただいた。また、岳(ヌプリ)書房の間座和子さん、いろいろ我儘な注文が一杯で飛び廻され、どんなにか大変な仕事であったろうかとお礼の言葉もない。
ただ皆様へ何度もお礼を申し上げるのみである。
「あとがき」の最後の我儘は僕の好きなデュプラの詩を入れて貰うことだ。すべてこれ以外の何ものでもない僕の山への心情だから。
  ――君よ 山に聴け
    山は 君に もの思わせ
    山は 君に 涙させることだろう
    山こそは
    またとなき熱情
    またとなき貞淑
    こよなき純潔の
    倦ますことなき
    君が恋人。――R・デュプラ

 昭和五十七年十月 一夏を本書に費してやがて晩秋を迎える日に

滝本幸夫




  復刻版の出版に際して

今、目の前に数通の手紙がある。千葉在住のご婦人からのものだ。十年程前のものである。
それには、ある日図書館に行って、読みたい本を捜しているうちに、ふと「北の山の栄光と悲劇」が目に留まり、借り受けて一気に読み進めたとある。
「……山を見る心と、痛ましさの中にも、尊い生への息吹を感じずにはいられませんでした。登山をされる純粋さと、屈強な方々の精神が、遅ればせながら分かった思いでおります。母の目、家族の目で見いりました。そして唯々、衝撃的で、何度も読み返しました。良いご本、早くに出合いたい本でした……」
要約すると、そのようなことが書かれていた。
山登りしたこともない高齢のご婦人から、非常に興味を持ったというお手紙をいただき、正直驚いた。このころ、この種のお手紙はいろいろな人からよくいただいた。

本書は三十四年前に出版されたものである。
この本は多くの方に良く読まれたと思う。三刷まで行ったが、その後、版元の岳(ヌプリ)書房は、出版社を閉じ、本書も絶版となった。
その後、貴方なら一、二冊は融通が付くであろうから譲っていただけないかという問い合わせが随分とあった。
しかし僕にも在庫がなかった。
もう少し宣伝をお赦しいただけるのなら、次のような文章が、あるメーリングリストに紹介されたこともあった。
「……購入して以来、何回読み返したかわからない僕のバイブルです。道内の各山域の登山記録、登攀を取り上げ、先人たちの想い、情熱の息吹が感じられるすばらしい本です……」
はなはだ面はゆいが引用させていただいた。
また、ある年の山と渓谷社が企画した「この秋じっくり読んでみたい山の本二〇冊」に選ばれたこともあった。

そんなプロセスがあって、発刊以来三十四年の歳月が経った。
何とかもう一度再販が叶わないものかと、ずっと考えていた。読者層の代替わりということもあるのではないか。だったらその人達にも読んで貰いたい。
そのことを柏艪舎の山本哲平さんに相談をした。
柏艪舎さんには、昨年、日本百名山再燃のさなかであることから、「日本百名山」の著者、深田久弥と接点を持っていた僕は、その交遊を纏めて「私の中の深田久弥」と題して柏艪舎から出版した。
そんな縁があって山本さんに相談をしたのである。
山本さんは僕の意とするところを理解してくれたのか、出版に踏み切って下さったのである。
再販に際し、久し振りに読み返してみて、文章の拙さが目に付き、書き直せるものなら書き直したいと、幾度考えたか知れない。しかし復刻版はそれを許さない。三十四年前の情熱の結晶だと思い目をつぶり、誤字、脱字、あきらかな山名等の誤りなどを訂正したにとどめた。
ただ、写真については新たに何葉かを挿入した。少しは厚みを増したかもしれない。
坂本直行さんのくだりは、もう少しじっくり書くべきであった。後に「日高の風」と題して直行さん生誕百年の記念誌として一冊に纏めているので資料はあったのだ。
横津岳で逝った佐々木典夫のことも、もっと突っ込んで書かなければならなかった。
旭岳でただ一人の生還者となった野呂幸司と、その後始末をした同僚の佐々木典夫。二人の後輩で、沢田義一と共に、札内川十の沢の雪崩で若き青春を散らした中川昭三の、つまりトリオと言ってもいい三人三様の生き様のことも、きちんと書くべきであったと思う。
これは今も僕の宿題となっている。
復刻版とはこういうものか、との感慨を持ちながら、山本さんと仕事を進めた。

ただ表紙の写真だけは、何か復刻版にふさわしい新たなものにしたいと考えていた。これは梅沢さんにお願いするしかない。
当初のカバーを雪煙の舞う芦別岳の優美な名峰で飾ってくださったのが、高山植物のオーソリテイであり写真家でもある梅沢俊さんである。
お願いをすると「復刻版おめでとう!」と快活に言っていただき「お好きなのをお使い下さい」と何葉かのポジをお渡しいただいた。
日高の名峰、カムイエクウチカウシ山の厳冬の雄姿で、復刻版の表紙を飾ることができた。梅沢さんにはお礼の言葉もない。山男良きかなと頭を下げた。
また今回の復刻版の出版にあたり、今村昌耕さんと京極紘一さんから新たに三葉の写真を提供していただいた。謹んでお礼申し上げる。

これが覆刻版の最後の仕事となった。
表紙のレイアウトを見ていて、僕には、まったく新しい本の誕生に思えてならないのである。
ご苦労をなさった山本哲平さん。ありがとうございました。


 平成二十八年四月二十五日 札幌に桜の開花宣言のあった日に
滝 本 幸 夫

著者プロフィール

滝本 幸夫  (タキモト ユキオ)  (

1936 年、北海道岩見沢市生まれ。1960 年、帯広エーデルワイス山岳会設立。2009 年、日本山岳会北海
道支部長に就任。現在、日本山岳会会員。深田久弥の山と文化を愛する会会員。
著書に「北の山―北海道55 座の記録と案内」(1972 年、山と渓谷社)、「北の山の栄光と悲劇(1982 年、岳書房)、「私の中の深田久弥」(2015年、柏艪舎)等。

上記内容は本書刊行時のものです。