シリーズ・叢書「片山杜秀の本」の本一覧
発行:アルテスパブリッシング 発売:アルテスパブリッシング この版元の本一覧
四六判 296ページ 並製
定価:1,800円+税 総額を計算する
ISBN 978-4-903951-29-4 C1073
在庫あり
奥付の初版発行年月:2010年03月 書店発売日:2010年03月20日
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2008年、『音盤考現学』『音盤博物誌』で第30回サントリー学芸賞&第18回吉田秀和賞をダブル受賞し、いちやく時の人となった著者による第4弾。『レコード芸術』誌に10年間にわたり連載された「片山杜秀のこの本を読め!」のうち、2004年から2007年までの4年間に書かれた計48本の書評に加えて、読売新聞、中央公論、週刊文春などで2010年3月までに発表された書評や、吉田秀和の著書に寄せた解説などを集成。
目次
序にかえて──伝記で音楽がわかるのか!?
(ミュンシュ+アンセルメ)÷2=ブーレーズ(ブーレーズ[著]ジリー[聞き手]『ブーレーズは語る』)
銭形平次はなぜ銭を投げるのか?(太田愛人『野村胡堂・あらえびすとその時代』)
『リボンの騎士』の作曲家はなぜ《惑星》の編曲家になったのか?(冨田勲『音の雲』)
いいかげんなイタリアから出直せ!(石井宏『反音楽史』)
アドルノの快刀乱麻とダールハウスの退屈(ダールハウス『音楽史の基礎概念』)
上野に西郷さんの銅像と東京芸大がいっしょにあるわけ(横田庄一郎『西郷隆盛惜別譜』)
さっぱりだけが人生だ(傅雷[著]傅敏[編]『君よ弦外の音を聴け』)
統合失調症患者としてのヴェーベルン(阪上正巳『精神の病いと音楽』)
謎めいていてこそ音楽!(近藤譲『〈音楽〉という謎』)
匿名音楽のススメ(高橋悠治『高橋悠治コレクション1970年代』)
故郷がいくつあってもええじゃないか!(バレンボイム+サイード[著]グゼリミアン[編]『バレンボイム/サイード 音楽と社会』)
丹波哲郎こそが日本である(丹波明『「序破急」という美学』)
太鼓叩けば亀ひるむ?(杉浦康平『宇宙を叩く』)
眼鏡とオルガンと無神論(レヴェンソン『錬金術とストラディヴァリ』)
乙女はなぜ尺八を吹かないのか?(ホフマン『楽器と身体』)
寒い国でひとりぽつねんとCDを聴いたよ(宮澤淳一『グレン・グールド論』)
強い指も弱い指もなかよくいっしょに生きるのだ(シャンドール『シャンドール ピアノ教本』)
〝バラ色の未来〟よりも満ちたりた現在を!(椎名亮輔『音楽的時間の変容』)
「高尚」と「卑俗」という二分法の成立史(レヴィーン『ハイブラウ/ロウブラウ』)
悪童はいかにして分別を身につけたか(ブーレーズ+シェフネール『ブーレーズ─シェフネール書簡集1954-1970』)
これぞ掟破りの書物です(青柳いづみこ『ピアニストが見たピアニスト』)
プロテスタンティズムの倫理と日本近代化の精神(新保祐司『信時潔』)
さよなら、野村光一(久保田慶一『孤高のピアニスト梶原完』/山本尚志『レオ・シロタ』)
パパゲーノやレポレッロとは何者か?(パラディ『モーツァルト魔法のオペラ』)
武満徹は近代的か? 石田一志(『モダニズム変奏曲』)
『モオツァルト』と「近代の超克」(井上太郎『モーツァルトと日本人』)
モーツァルトは猫のように鳴きながらとんぼ返りした(フラハティ『シャーマニズムと想像力』)
「美しい!」は是認の身振り(矢向正人『音楽と美の言語ゲーム』)
絶対平和音楽論序説(北沢方邦『北沢方邦音楽入門』)
我音楽する、ゆえに我なし?(ベンゾン『音楽する脳』)
東洋の神秘は分析不可能だと英国人は言った(バート『武満徹の音楽』)
田舎の秀才と都会の不良(ブーレーズ[著]サミュエル[聞き手]『エクラ/ブーレーズ響き合う言葉と音楽』/コー『リュック・フェラーリとほとんど何もない』)
諸星あたるとモーツァルト(キルケゴール『ドン・ジョヴァンニ/音楽的エロスについて』)
呼吸法が日本を救う!(中村明一『「密息」で身体が変わる』)
作曲家と聴衆がサシで勝負する方法(近藤譲『音を投げる』)
虐殺された音楽人類(ミズン『歌うネアンデルタール人』)
作曲家・金井喜久子の三重苦(金井喜久子『ニライの歌』)
一九世紀フランス音楽はロマン派ではない(ジャンケレヴィッチ『フォーレ言葉では言い表し得ないもの…』)
儒教二千五百年の見はてぬ夢(横田庄一郎[編著]印藤和寛[訳・解題]『富永仲基の「楽律考」』)
エカーグラ──チェリビダッケの理想(チェリビダッケ『チェリビダッケ 音楽の現象学』)
導音の響きは乱婚へのいざない(フーリエ『愛の新世界』)
日本軍政下ジャワのリリー・クラウス(多胡吉郎『リリー、モーツァルトを弾いて下さい』)
音楽は大嘘つき(ストイキツァ『ピュグマリオン効果』)
シェーンベルク、またはR・シュトラウスの非常識な子供(グールド[著]ゲルタン[編]『グールドのシェーンベルク』)
呼吸感と俊敏様式(山崎浩太郎『クラシックヒストリカル108』)
「楽聖」はアダルト・チルドレン(福島章『ベートーヴェンの精神分析』)
時代の寵児、時代を呪う(ベルリオーズ『音楽のグロテスク』)
ドイツ的演奏徹底糾弾宣言!(シェルヒェン『指揮者の奥義』)
日本語は声帯殺し?(米山文明『美しい声で日本語を話す』)
縛られたオデュッセウス(ペイザント『グレン・グールド、音楽、精神』)
ニュー・ディーラーはクラシック音楽がお嫌い?(コーエン[編]『アラン・ローマックス選集』)
寄り道すれば世界が見える(小沼純一『魅せられた身体』)
老いたればこそ老いしらず(吉田秀和『永遠の故郷──夜』)
無思想の帝国(戸ノ下達也『音楽を動員せよ』)
カラヤン主義者の表層批評(中川右介『巨匠たちのラストコンサート』)
なにしろ東京人やから(岩野裕一『朝比奈隆すべては「交響楽」のために』)
市民の矜持としての音楽批評(吉田秀和『名曲三〇〇選』)
漂白の民だけが世界音楽を作れるのだ(伊東信宏『中東欧音楽の回路』)
ほんとうは几帳面でない齋藤秀雄(紙谷一衞『人を魅了する演奏』)
音楽の魔法への期待と幻滅(イシグロ『夜想曲集』)
「非在のユートピア」としての森繁節(久世光彦『マイ・ラスト・ソング』)
音楽をまねる言葉(吉田秀和『オペラ・ノート』)
奪われた青春への哀惜(畑中良輔『繰り返せない旅だから 一−四』)
ドイツもユダヤもほんとうはないんだよ(吉田寛『ヴァーグナーの「ドイツ」』)
地震に音楽を聴いた少年(末延芳晴『寺田寅彦バイオリンを弾く物理学者』)
クロキョーと光源氏(黒田恭一『オペラ版雨夜の品定め』)
あとがき
人名索引
前書きなど
序にかえて
伝記で音楽がわかるのか!?
小説の読者は小説家の、絵の鑑賞者は画家の、映画館の観客は映画監督や俳優の、それぞれの人生をどれだけ知りたがるだろうか。
その作品や演技に興味をもてば、とうぜんいろいろ気にはなってくるだろう。だが、その気になり方は、音楽愛好者が作曲家や演奏家の伝記や思想やもろもろの背景を知りたがるよりも、熱烈ではないように、私には思われる。モーツァルトやシューベルトの青春時代にくらべると、ゲーテやドストエフスキーの若き日は一般的にずっと知られていないのではないか。
その理由となれば、やはり「言葉置換率」とでもいうべき話がからんでくるだろう。人間は文学・芸術に意味をもとめる。作品鑑賞とは作品の意味を発見することである。そして意味は言葉である。「あっ、僕、この作品、わかるなあ」「どう、わかるんだよ」「いや、なんとなくわかるさ」。これでは馬鹿にされる。「なんとなく」が、もっと言葉にならなくてはいけない。そして、小説や詩や台詞劇はというと、どれも最初に言葉ありきである。言葉であたえられるものを言葉で考えるのは比較的簡単である。映画も台詞がともなえば言葉で考えられる。言葉のない映画や無言劇でも、なんらかの筋がみつけられれば、それはすなわち筋を説明する言葉がみつかったということだ。絵画・彫刻も形態や色彩はすぐ言葉になる。ようするに、以上のような文学・芸術分野では、作品じたいが言葉になりやすい。言葉置換率が高い。言葉になり意味がみつけられれば、鑑賞はいったん終了する。鑑賞者は作品への興味だけでけっこう自足できる。熱心な人はその先ももとめたくなるだろう。が、それはあくまで熱心な人のはなしだ。
あとはもういうまでもない。対して音楽は言葉置換率が低いのだ。たしかに、八分音符とか四六の和音とかダイアトニックとかアレグロとか、音楽をめぐる言葉はやまほどある。が、八分音符や四六の和音では話が細かすぎる。ダイアトニックやアレグロではこんどは漠然としすぎる。ごく簡単な小器楽曲でさえ、作曲家がなんの能書きもつけていてくれなければ、「この絵はある曇った日の街角の印象を、灰色を基調に水彩で描いたものでしょう」といった、べつに画家のつもりを知らずとも、だれにもわかるていどの意味を導きだすことすら、きわめて困難である。しょせん、言葉もかたちもなき音の話なのだ。
しかし、言葉にして有意味化しないと、鑑賞行為は成立しない。批評も書けない。昔の食品会社のCMをもじっていえば、「インチキでもいい、言葉になってほしい」というくらいのものだ。ところが、作品そのものがなかなか一般的に通じる言葉にはならない。そもそも作品が言葉にならなければ、それを音にする演奏行為はますます言葉にならないだろう。そこでたとえば作曲家や演奏家の伝記・評伝の類の需要が生まれるのだ。作品や演奏は言葉にしづらくても、人生や時代は容易に、いくらでも言葉になる。そして人は、伝記・評伝から作品・演奏を意味づける言葉を、筋書きを、物語をみつけだし、ようやく鑑賞行為が成立しだす。いずれも同じように悲しげな音楽が、作曲家の若くて元気なころなら失恋の痛手の反映とか、晩年のころなら死の予感とかなんとか、生涯や人間関係や時代背景と対照されることで、どんどんわかりやすい言葉になる。伝記・評伝万々歳である。
(以下略)
版元から一言
片山杜秀氏の音楽書籍書評集がついに完結! はたして本を読めば音楽はわかるのか!?──誰もがいだく究極の問いへの「最終回答」がここに! 音楽への愛、書籍を読む悦びにあふれた無類のブックガイドです。
関連書
片山杜秀の本1 音盤考現学
片山杜秀の本2 音盤博物誌
片山杜秀の本3 クラシック迷宮図書館
関連リンク
片山杜秀の本1 音盤考現学
片山杜秀の本2 音盤博物誌
片山杜秀の本3 クラシック迷宮図書館
著者プロフィール
片山杜秀(カタヤマ モリヒデ)
音楽評論家、思想史研究者。1963年仙台生まれ。東京で育つ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。専攻は政治学。著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』『クラシック迷宮図書館』(以上、アルテスパブリッシング)、『近代日本の右翼思想』(講談社選書メチエ)、共著書に『伊福部昭の宇宙』(音楽之友社)、『日本主義的教養の時代』(柏書房)など。朝日新聞、産経新聞、『レコード芸術』『CDジャーナル』等で音楽評を執筆。『週刊 SPA!』に1994年から2003年までコラム「ヤブを睨む」を連載。200枚以上のCDのライナー・ノートを手がけ、またCDレーベル、ナクソスの「日本作曲家選輯」の企画構成を担当。2006年日本近代音楽研究の業績により京都大学人文科学研究所から人文科学研究協会賞を、2008年『音盤考現学』および『音盤博物誌』が第18回吉田秀和賞、第30回サントリー学芸賞を受賞。慶應義塾大学法学部准教授。国際日本文化研究センター客員准教授。
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