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嘉納治五郎と安部磯雄
近代スポーツと教育の先駆者
- 出版社在庫情報
- 在庫あり
- 初版年月日
- 2014年9月
- 書店発売日
- 2014年9月30日
- 登録日
- 2014年9月19日
- 最終更新日
- 2014年9月19日
紹介
講道館柔道の創始者・嘉納治五郎と早稲田大学野球部初代部長・安部磯雄は、ともに教育者としても名高い。本書は、近代日本のスポーツと教育を世界に通用するものとして確立していった二人の先駆者の生き様を、今日の日本の読者に伝えるものである。
目次
序章(プロローグ)
第1章 国民教育と国民の政治意識、あるいは国民思想
第1節 国家発展の原動力――「教育」
第2節 海軍大将・米内光政の予言
第3節 安部磯雄による「革命」――日露戦争最中の破天荒な企て
第4節 目線は常に世界に
第2章 剛毅闊達な精神
第1節 「学校におけるイジメ」が発端、嘉納治五郎の柔術修行
第2節 下富坂道場落成と武道家嘉納治五郎の完成
第3節 嘉納家と勝海舟
第4節 ホワイトハウスにできた柔道場
第5節 活発な大統領セオドア・ルーズベルト
第3章 日本発(初)グローバルスタンダードの構築――嘉納治五郎によるイノベーションの意義
第1節 投げ技、固め技、当て技のうち、当て技(当身技)の取り扱い
第2節 講道館柔道という「イノベーション(技術革新)」の眼目――嘉納治五郎の創意工夫(創造的破壊)
第3節 戦闘技術の競技化(スポーツ化)――「無用の用」の極致
第4章 三育(徳育、体育、知育)絶妙のバランス、「嘉納塾」
第5章 日露戦争と早大野球部米国遠征
第1節 有史以来初、破天荒な「国際活動」
第2節 「早大野球部アメリカ遠征(第一回)」の経緯
第3節 早大野球部のおみやげ
第4節 渡米試合の実態と帰国後の活躍
第6章 日本スポーツ界の夜明け
第1節 早大野球部々長 安部磯雄の日常と基本方針
第2節 明治40年代、日本スポーツ界の黎明(その1)
第3節 明治40年代、日本スポーツ界の黎明(その2)
第4節 明治40年代、日本スポーツ界の黎明(その3)
第5節 横浜外人居留地(租界)の遺産
第7章 嘉納治五郎の英断――「体協」結成とオリンピック初参加
第1節 クーベルタンと嘉納治五郎
第2節 雑誌『国士』発刊の背景と雄勁闊達な内容
第3節 「国際的視野」の根底
第4節 総務理事 大森兵蔵
第5節 総務理事 永井道明
第6節 「黎明の鐘」――嘉納治五郎の決意
第8章 「体協」総務理事 安部磯雄の見識
第1節 低い民度と排他的風潮
第2節 スポーツから得られるもの――心身の健康
第3節 最も健全なる娯楽としてのスポーツ
第4節 日本英語協会々長嘉納治五郎と偏狭な日本社会
第5節 スポーツから得られるもの――修養
第6節 「内向きでひ弱な精神構造」の克服――偉大なる国民性の養成
終章(エピローグ)
主要引用参考文献
あとがき
前書きなど
あとがき
昭和26(1951)年9月8日調印されたサンフランシスコ平和条約は、翌昭和27(1952)年4月28日発効し、日本国と多くの連合国との間の「戦争状態」は終結した。
こういう背景において、講道館機関誌『柔道』昭和27年3月号に「道としての柔道について(一)」と題する論文を発表、その後毎月(8月号を除く)同誌に掲載され、10月号で「道としての柔道について(七)」として締めくくったのが、恩師富木謙治先生であった。
覚束なくも「民主主義国家」として再出発をした「新生日本国」に対する期待と、その復興の一翼を担おうとする柔道家としての気力みなぎる論文が、「道としての柔道について」である。
富木謙治先生は大正11年早大予科に入学、早大柔道部黄金時代と言われた大正13年頃、華麗な技で名声高く、東京学生柔道連盟幹事として嘉納治五郎の謦咳に接している。
早大政治経済学部に学び、親友には財政学の時子山常三郎(第九代早大総長)がいて、自身も「柔道部の学者」と呼ばれていた富木は、早大大学院在学中から植芝盛平について合気武術を習得し、 昭和13年には満州建国大学助教授に就任して合気武道を正課として教え、昭和16年には教授に昇進する。
ところが運命は急転して昭和20年、ソ連軍に身柄を拘束された富木は、バルハシ湖(カスピ海の近く)に近い銅山においてドイツ軍捕虜と共に3年余、強制労働に従事する破目に陥った。
過酷な労働や「共産主義の強制学習」等々の試練に耐え抜いた富木は昭和23年晩秋(48歳)、祖国に生還し、翌年から早大体育部(局)非常勤講師となり、講道館常任幹事を務める。
(…中略…)
前記論文「道としての柔道について(一)」において、自らの恩師嘉納治五郎が昭和7年の第10回オリンピック大会(ロサンゼルス・オリンピック)開催の際、南カリフォルニア大学で行った講演「教育における柔道の貢献(The Contribution of Judo to Education)」を冒頭に紹介した富木は、また次のように述べた。
「日本の近代は明治以降遅れて立上がった。従って、これに追いつくために、欧米文化をとり入れるのに忙しくて、教育と言えば、やゝもすれば、知識技術の偏重に傾いた。新しい民主主義教育は、人間性を尊び、知情意の円満均整のとれた人格者を養成することであって、新しい教育において、教養科目と並んで体育の重んぜられる理由はこゝにある」
昭和4年の御大礼記念天覧武道大会府県選士第一次総当り第四部にも優勝し、完成された柔道家の一人であった恩師の、柔軟で、しかも人一倍骨太の手首を思い起こす昨今、その論文「道としての柔道について」を改めて読み返し、昭和27年に恩師が希望を託して描いた「新生日本・民主国家日本の姿」を我々は忘れてはなるまいと痛感するのである。
二〇一四年九月三日 丸屋武士
上記内容は本書刊行時のものです。