遊牧の民との対話大いなるモンゴル
山元 泰生
発行:明石書店
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四六判 224ページ 並製
定価:1,700円+税 総額を計算する
ISBN978-4-7503-2585-9

奥付の初版発行年月:2007年07月
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紹介

「サインバイノ−」(こんにちは)。草原の国モンゴルを十数年にわたり訪ね歩いた著者は,ときには馬乳酒と手作りチーズを振舞われ,草原やゲルで彼らとの語らいを重ねてきた。美しくも厳しい自然の中でたくましくしたたかに暮らす遊牧民の姿がいきいきと語られる。

前書きなど

まえがき
 このところ、大草原と遊牧の国・モンゴルは、空前のチンギス・ハーン・ブームに湧き立っている。
 チンギス・ハーンといえば、一三世紀に広く中央アジアを席捲し、アジアとヨーロッパ、アラブを繋ぐ巨大なモンゴル帝国の基礎を築いた人物だ。その時から八〇〇年、モンゴルではこのところ、建国を記念する盛大な祝祭と各種イベントが繰り広げられている。
 二〇〇六年四月、モンゴルの空の玄関「ボヤント・オハー国際空港」は、その名が「チンギス・ハーン国際空港」と改められた。また、空港から首都ウランバートルを南北に抜ける幹線道路「スフバートル大通り」も、「チンギス大通り」と改称。さらに同年九月には、首都の中心部をなす「スフバートル広場」には、正面に、第二代オゴデイ・ハーンや第五代フビライ・ハーンを従える巨大なチンギス・ハーン像が建設された。
 それだけではない。いまウランバートルで、最も格が高いとされる近代的ホテルの名は「チンギス・ハーン・ホテル」、市郊外に新設された広大な観光キャンプ場も「チンギス・ハーン村」。この国で最も人気のあるオペラは「チンギス・ハーン」、最も多くの若者を集めている音楽グループは「ロックバンド・チンギス・ハーン」、最もよく飲まれている酒=アルヒ(モンゴル・ウォッカ)のブランドも「チンギス・ハーン」。最もよく売れている記念切手も、一連の「チンギス・ハーン・シリーズ」である。
 チンギス・ハーンは、ソビエトの影響下にあった社会主義の時代には、「ロシアへの侵略者」として、その名を出すのも憚られてきた。それがいまや、新しい国づくりの象徴として甦ったのだ。
 モンゴルの人びとが、八〇〇年も昔のチンギス・ハーンをいまこうして歴史のなかから担ぎ出してきたのは、「遊牧に生きるわれらモンゴル人は偉大な民族である」という伝統の鼓舞と国威の発揚のためであろう。
 
 首都ウランバートルは、海抜およそ一四〇〇メートル、モンゴル高原のほぼ中央部に位置している。古くは「イフ・フレー」「クーロン」(庫倫)などと呼ばれたが、ソビエト赤軍の支援により政権を把握した人民革命党(共産党)が、社会主義的な新憲法を制定した一九二四年一一月に「ウランバートル」(赤い英雄)と改称。ソビエトの援助などにより、近代的な都市として整備されたところだ。モンゴルの人びとはこの街を、「中央アジアで最も美しく住みよい街」と信じてきた。
 この国が、人民革命党による社会主義と一党独裁を放棄したのは一九九〇年三月である。その後の十数年にわたる民主化の風、自由化の波が、急激な首都への人口集中を促してきた。
 それまで草深い地方に住んで、遊牧というかたちの牧畜などに携わってきた若者たちが、新しい時代を告げるさまざまな情報や利得に刺激され、それなりの夢と野心を抱いて続々と首都へやって来た。その結果ウランバートルは、またたく間に「一〇〇万都市」になってしまったのである。
 だから今この街では、各地でマンションやアパートの建設が相次ぎ、日本などから買い込んだと見られる中古車をはじめ、各種機械、電気製品、資材、食料品などが溢れている。たとえば、少し大きな新興のスーパーに行くと、全世界の安価な缶詰やビールが並んでいる。
 また、国営企業の民営化により、貿易・観光から資源探査にいたるまで、おびただしい数の民間株式会社が誕生。若き起業家たちは、中国やロシアへの買い出しによる利益で得た資金で旅行会社やレストラン、洋品店やアートショップなどをたちあげている。その点、首都ウランバートルは、新時代の活気に溢れていると言えよう。
 それだけにこの街では、人口集中と人びとの暮らしに行政の対応やインフラ整備が追いつかず、商取引上のトラブルや電気・ガス・水道事故などに加え、これまではほとんど考えられなかったような失業、交通事故、強盗・スリ事件、離婚などが激増。新たにゴミ問題や大気汚染なども発生している。
 たとえば、街の電気については、市内に四基の石炭による火力発電所があるのに、二基がすでに老朽化したため、稼動しているのは二基だけ。そのためちょっとした発電・配電トラブルで、時に全市が真っ暗になることもある。また、ゴミの処分では、燃えるゴミも燃えないゴミも、一緒くたにして郊外の窪地に捨てられているのが実情である。
 とても「美しい街」「住みよい街」とは言えなくなってきた。今後、この街をどのように再整備していくかは、国をあげての重要な課題であろう。
 
 だが、不思議と言えばこれほど不思議な国はない。
 ウランバートル中心部から車で一〇分も郊外へ出ると、東西南北どちらに進んでも見渡すかぎり目の醒めるような緑の草原。首都の雑踏など一瞬にして忘れてしまうほどに、さわやかな緑の大地が広がっている。
 行けども行けどもまるで草の海だ。あの丘の向こうには何があるのだろうか? 時間をかけてなだらかな峠を越えると、はたまた果てしない草の海だ。その道路沿いでは、あちこちでおびただしい数の馬や牛、ヤギやヒツジの群が黙々として草を食んでいる。時に、首都へものを運ぶトラックやマイカーと行き交うことはあるが、人=遊牧の民と真近かに出会うことはほとんどない。
 それでも、はるかかなたの丘の麓に二、三棟の白いゲルが建っていることがある。いったいどんな暮らしをしているのか? 車を反転させ道のない草場を進むこと二〇分、ようやくゲルの近くまで辿りつくと、ゲルの中から出てくる! 出てくる! 民族服デールをまとった爺さんと婆さん、真っ黒に日焼けしたおっさんとおばさん。家畜の世話をしていた兄ちゃんと姉ちゃん、それにまだ幼いはだしの子供たち……。三世代か四世代一〇人ほどの家族がほとんどみんな顔を揃える。
 「サインバイノー」(こんにちは)
 「おお、サインバイノー、ヤポン(日本人)だ、ヤポンが来たぞ」
 素朴な挨拶が交わされたあとは、さっそく馬乳酒と手作りチーズを囲んでの「白昼の宴会」になるのである。こんな気分は、私の知るかぎり世界中のどこで味わうこともできない。それはまるでお伽話かマンガの世界そのもののように感じられる。
 モンゴル政府による最新の「国土・経済統計」によれば、この国の国土は日本の四倍(一五七万平方キロ)もあるのに、人口はいまだわずか約二六〇万人。しかも今ではその四〇パーセント近いおよそ一〇〇万人が、首都ウランバートルに集まり都市生活を営んでいる。
 残る一六〇万人がいわゆる地方で暮らしているのだが、地方にも公務員もいれば医師、教師、工場労働者、商店勤務者らもいる。したがって、このように馬やヒツジなどの家畜の世話をしながら、伝統的な遊牧の暮らしをしている人の数は、その家族と一部の兼業者を含め一〇〇万人くらいだろうと思われる。
 私が本書で描こうとしているのは、この「一〇〇万人による遊牧の世界」と、そこで生きる人びとの生の姿だ。遊牧に生きる爺さんと婆さん、おっさんにおばさん、兄ちゃんと姉ちゃん、そして多くの子供たちとの対話を通じて、私が見たこと、聞いたこと、感じたことを率直に綴ったものである。
 
 私は子供の頃から、悪ガキにしてチンギス・ハーンが大好きだった。しばしばモンゴル帝国建国の騎馬遠征軍に「ボクも参加してみたかった」などと、とんでもない夢を描いた記憶がある。同時に、この大草原を舞台にした人びとの遊牧という生き方に、「なぜこんなところで人が生きていけるのだろう」と不思議に思い、長年ひとかたならぬ興味を抱き続けてきた。
 そのため若い頃から「ぜひ一度訪ねてみたい」と想い続けてきたのだが、実現したのはこの国が民主化・自由化の道を歩み始めた一九九〇年八月である。この時から私はほとんど毎年、友人・知人らを語らい、果てしない大草原と遊牧の民の世界を走り回ってきた。
 とにかく行くたびに驚かされるのは、美しくも厳しい大自然である。
 モンゴルは、夏場(六月〜八月)なら昼間の気温が四〇度にもなり、冬場(一二月〜二月)には夜中のそれがマイナス四〇度にもなる。それだけでも「冷暖房完備」の文化に甘んじている私たちには、とても耐えられないであろう。
 しかも、モンゴルは決して平坦な草原ばかりではない。北部にはロシアとの国境沿いにカラマツやシラカバの大森林と数多くの大湖沼があって、中西部と西南部には、高さ四〇〇〇メートルを越える大山脈が奔っている。そして中国との国境沿いの中南部一帯は、おびただしい砂礫から成るゴビ砂漠だ(その広さだけでも日本の本州ほどである)。
 だが、これらの大自然よりももっと驚かされるのは、そこに生きる人びとのたくましさとしたたかさである。
 遊牧の民は、大森林、大山脈、大砂漠のどこへ行っても、その地に合ったやり方で家畜を選び、それらをほとんど自給自足の遊牧によって育て続けている。彼らにとって、年間を通じてのお祝い事といえば、お正月と家族の結婚や誕生の日くらいのもの。お隣さんといってもたいてい二キロくらい離れており、日本のようなこれといった娯楽もなければ、趣味を育む術もない。多くのところで電気もなければ、TVも電話もラジオもないから、暗くなれば眠り、夜明けとともに働き始める。そしてまた、暑かろうが寒かろうが、昨日と同じように今日も明日も、黙々として家畜の世話を重ねていくのである。これが遊牧の民の暮らしだ。
 よくぞそんな生活に耐えうるものである。とても私たちに真似できることではなかろう。これこそ、私が抱き続けてきた大きな疑問だった。
 だが、実際に遊牧の現場を回り、彼らとの対話を重ねていくうちに、それらの謎もいくらか氷解してきた。遊牧の民は、厳しい自然に逆らわず、猛暑や厳寒に耐えながら生きる多くの知恵を蓄えている。それだけではない、彼らは家族の固い絆や、育てている家畜との家族ぐるみの触れ合いによって孤独を越え、私たちが言う生活の不便や不自由などもろともせずに生きているのである。
 しかも、これら遊牧の民の生きざまには、二〇〇〇年以上の伝統がある。彼らは、たとえば米や野菜の栽培といった農業をほとんど受け入れなかったばかりか、遊牧の伝統を、清朝など他国に支配された時代にも、社会主義の時期にも、断固として守りぬいてきたといえよう。
 私が会って語り合った遊牧の民は、決して日本で言うような「豊かな暮らし」をしているわけではない。見方によっては日本などよりはるかに「貧しい暮らし」をしているようにも見える。だが、遊牧の民はどこか質実にして剛健、時には泰然と、また時には飄然として暮らしている。しかも素朴ながら礼儀正しく、人には親切で、何ごとに対しても実に我慢強いように感じられる。
 
 遊牧とは、自生する格好の草(エサ)を求めて、移動しながら家畜を育てていく牧畜だ。大自然の恵みによるエサ代無料の牧畜と言ってもいい。また別の言い方をすれば、無農薬・無公害の自然牧畜と言うこともできよう。
 この国では、人口二六〇万人(遊牧民の数はおよそ一〇〇万人)に対し、家畜の数は馬、牛、ヤギ、ヒツジ、ラクダなど、合わせて約三四八〇万頭。いまや世界で、こうした遊牧を国の基幹産業として維持しているところは、モンゴルをおいてほかにない。
 一部の研究者、事情通のあいだには、先進諸国の牧畜(放牧や屋内飼育)に比べ、その生産性が低いことなどから、「モンゴルの遊牧はやがて滅びるだろう」との指摘がある。だが、そんなことは断じてない!
 たとえば、日米間の大きな摩擦になったBSE(いわゆる狂牛病)問題を考えれば分かる。先進諸国の牧畜は、飼育経費などによる価格の暴騰に加え、牧地不足や乱開発、飼料による汚染などにより、その将来が厳しく問われはじめている。
 その点、大自然の草を気ままに、しかもタダで食わせて育てるモンゴルの家畜こそ、これからの人間の食糧=動物性蛋白源を補うに、ますます重要な存在になってくるのではなかろうか? 日本の私たちにとっても、そのことを思い知らされる日が遠からず来るはずである。モンゴルでも、国際的な需要が高まれば、生産性を上げ、「旨い肉」「おいしいチーズ」をつくることなどいくらでもできるのである。しかも、その生産コストは、おそらく一〇分の一か二〇分の一であろう。
 さらに言えば、遊牧とそれを営む人びとの暮らしは、私たちの爛れるほどにいびつな生産・消費社会がさらに行き詰って行けば行くほど、大きな意味を持ってくるにちがいない。



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