発行:明石書店
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四六判 248ページ 上製
定価:2,400円+税 総額を計算する
ISBN978-4-7503-2169-1(4-7503-2169-9) C0036
品切・重版未定
奥付の初版発行年月:2005年08月
書店発売日:2005年08月24日
あらかじめご了承下さい。
紹介
9.11後のアフガン空爆,ターリバン政権の崩壊そして復興支援で改めて国際社会の注目を浴びたアフガニスタン。政治プロセス,治安改革,復興支援…「破綻国家」の再建に日本はどのような役割を果たしたのか? 最前線で国づくりを支援した特命全権大使の駐在記録。
目次
はじめに
第一章 国造りの柱1——政治プロセス
1 暫定政権——二〇〇一年一二月〜二〇〇二年六月
暫定政権発足式/カルザイ大統領とアフガン復興支援東京会議/緊急ロヤ・ジルガ
2 移行政権——二〇〇二年六月〜新大統領選出まで
憲法制定/大統領選挙と議会選挙/選挙と軍閥解体/大統領選挙成功の秘密
第二章 国造りの柱2——治 安
1 治安情勢
治安攪乱要因
2 対テロ作戦
アフガン国内の対策/パキスタンでの対策/米国の取り組みの変化
3 ISAF(多国籍治安維持支援軍)の活動
繰り返される主導国探し/NATOスケッフェル事務総長
4 治安改革
五つの問題/二〇〇三年は模索段階
第三章 国造りの柱3——復 興
1 復興への道のり
すさまじい破壊の跡/復興支援のシナリオ
2 アフガンの主導的役割
ガーニ財務相のがんばり/カブールの援助国会議/新通貨の導入/今後の開発目標
第四章 国際社会の取り組み
1 国連の役割
ブラヒミ代表の大きな存在/国連の役割を限定/国連アフガン支援団(UNAMA)
2 米国の役割
米国のアフガンへのかかわり/9・11以降の米国の対応/アフガン支援戦略の転換
第五章 地方復興チーム(PRT)
1 米軍主導のPRT
治安と復興のディレンマ/PRTとは何か/PRT基地の訪問
2 NATO主導のPRT
ISAF全国展開の要請を受けて/緒方代表、軍閥に談判
3 今後の課題
国際機関・NGOとの連携/日本の貢献
第六章 軍閥解体(DDR)
1 DDRの実施準備
日本の存在感を示す/武装解除の難しさ/DDR東京会議
2 国防省改革
ワルダック国防次官/バリアライ前国防次官のその後
3 軍閥指導者たちとの出会い
イスマイール・カーン知事/ハズラト・アリ司令官を日本に招待/軍閥指導者はみな口達者/カーゼミ商業相とモジャダディ元大統領
4 パイロット・フェーズの開始
クンドスの式典/本格段階に向けての課題
5 本格段階への移行
ベルリン会議での目標設定/ファヒーム国防相主催の国防評議会/DDRの手順/達成不可能となった中間目標/七・二三事件/DDRを急速進展させた出来事
6 DDRと外交
日本にとっての可能性/米中央軍本部とNATO本部を訪問
第七章 日本のアフガン支援
1 緒方総理特別代表のアフガン訪問
緒方代表の仕事/カブール・テレビ局で感動
2 緊急人道支援
教育支援/保健・医療支援/文化協力
3 治安分野での支援
対人地雷除去支援/DDR
4 緒方イニシアティブ——地域総合開発
アフガン難民の帰還/緒方イニシアティブの着眼/「人間の安全保障」の実施
5 日本の援助戦略
「平和の定着」構想/国別援助計画の策定——総花化を排す/草の根無償資金協力にも実施の指針
第八章 私のアフガニスタン
1 カブールの生活
カブールに金(きん)はなくとも/変貌してゆく町/家賃の騰貴/合宿生活/世界一小さな公邸/腸チフスを患う
2 大使の役割
宮原公使の着任/大使にしかできないこと
3 全国を旅する
地方へは簡単には行けない/交通手段と治安/宿泊所事情/日本第二の援助拠点カンダハール/小さな町々
4 よき思い出
カルザイ大統領のこと/ザーヒル・シャー元国王のこと/カブール・カンダハール道路完工式典/新学期始業式典でのハプニング/子供たちからの手紙/大切な思い出の品
第九章 平和構築支援実施のために
1 治安の維持・確立のための援助
私を悩ませた二人の発言/DDRのリードに賭ける
2 安全の確保と援助実施
邦人が大使館に一時避難/テロとの戦いに屈しないために
3 援助実施のスピードと人材
日本型援助システムの欠点/道路工事を最速で実施/人材こそ要
終わりに
大統領就任式典/旧知の人たちとの再会/カンダハール再訪/難民キャンプの変貌/アフガンの和平と復興の道筋/DDRの成果/地域・コミュニティ支援が鍵
あとがき
前書きなど
はじめに
二〇〇一年九月一一日、米国における同時多発テロ事件の発生後、同年一〇月、米国を中心とする連合軍によるアフガニスタン(以下差し支えない限りアフガンと略記する)のアルカイダ・タレバン攻撃、一一月タレバン政権の崩壊とその後のアフガンの和平・復興支援と続く流れの中で、アフガンは、改めて国際社会からの脚光を浴びた。二一世紀の初頭、しかも、軍事・経済いずれをとっても世界ナンバー・ワンの米国の力の象徴である世界貿易センターのツイン・タワーとペンタゴン(国防総省)の建物が、ハイジャックされた民間航空機によって攻撃(前者については倒壊)されたことで、当然のことながら米国はもとより世界の受けた衝撃はきわめて大きかった。
未曾有の国際テロ事件を引き起こしたアルカイダとそれを擁護し国内に訓練基地を提供していたタレバン政権に対する軍事作戦の勝利はあっという間に成し遂げられたが、その後のアフガンの平和と復興作業はそうはいかない。タレバン政権時代も含めて二三年間にわたって内戦状態の続いたアフガンに残されたものは、文字どおり破壊と悲惨の二語である。私も現地に行って唖然とした。道路はがたがたに壊れ、水・電気・電話などの近代生活に不可欠な設備も機能しないし、また学校や病院も破壊されていた。国が無くなるとはこういうことなのかと実感させられた。アフガンを二度とテロの温床としないためには、「破綻国家」を何とか再建しなければならない。幸い、国際社会はそのために一致して協力した。
二〇〇一年一二月、ボンでのアフガンの政治システム再興のための会議に引き続いて、日本は二〇〇二年一月に、東京でアフガン復興支援会議を開催して、開発面から復興支援をリードする意気込みを示した。シルク・ロードを通じる歴史・文化を介して、日本国民のアフガンに対する関心は少なくないし、同じアジアの先進国としてアフガン国民の日本への関心・期待も高い。日本政府がアフガンの内戦中から対立する各派の和解に向けて仲介努力を進めてきたことも、会議開催の背景にあった。
アフガン復興支援東京会議は大成功であったが、さて、現地での復興支援の作業は誰が指揮するのか。現地大使館は、内戦中に大使館員が引き揚げて閉鎖されている。タレバン政権は崩壊したといっても、安全が確保されているわけではない。
外務省内で、これまでの経歴や専門からいって、私ほどアフガン大使館勤務の条件を備えているものは少ないかもしれない。しかし、私とてアフガン行きを打診されて、ただちに受けたわけではない。
一九七〇年に外務省に入省して以来、私は、イランのシラーズで二年間ペルシャ語研修を受けたのを含め現地で計一〇年、東京の外務本省での勤務三年を加えれば合計一三年間をイランとかかわりながら過ごした。しかしながらアフガンとのかかわりとなると、イランでの二年間のペルシャ語研修の最後のころに、一度訪れたのみである。そのときは、往きは飛行機でテヘランからカブールまで行き、カブールでは新装成ったインターコンチネンタル・ホテルに宿泊したこと、ジープで悪路を振り落とされそうになりながらバーミアンを訪れ大仏を見たこと、帰りは陸路バスでカンダハール・ヘラートを経由しイランのマシャドまで戻ったことなどを、アフガン行きを打診された際にかろうじて思い出す程度であった。最近の十数年間はイランとも離れ、どちらかというと援助すなわちODAの関係の仕事に従事することが多かった。
そんなわけで、米国での9・11同時多発テロ事件以降、現地語に通じ経済協力の専門家でもある私にいずれお鉢が回ってくることはぼんやりとは覚悟していた。
しかし、ペルシャ語とアフガンのダリー語は同じ言語であってもダリー語はこれまでほとんど聞いたことがないし、アフガンの土地勘があるでもなくアフガンのことを勉強してきたわけでもない。さらにいえば新聞やテレビで報じられる現地の情勢はきわめて心もとないし、正直アフガン行きは気乗りしなかった。また、二〇〇一年一二月初旬東京で開催されるアフリカ開発支援のための大会議(TICAD閣僚レベル会合)の準備に私が忙殺されていたこともあり、年末まで、上司からアフガン行きを打診されることもなかった。暮れも押し迫った仕事納めの日の午後であった。どうやら年内にはアフガン行きの話もなさそうで、年末年始はのんびりできそうだと思っていた矢先である。上司の重家俊範中近東アフリカ局長が私の部屋にやって来て、野上義二次官とも相談のうえの話として、アフガン赴任発令の意向を伝えてきた。
とりあえず、返事は留保し家族と相談することにしたが、断れないなと思いつつ何か口実があれば行かないに越したことはないと思った。家族の反応は、結構冷静なものであった。とくに、長女光子から、「パパ、今アフガンに行かないとあとできっと後悔するよ」と言われ決心がついた。今、二年半にわたった現地での職務を果たして日本に戻って来て、改めて娘の言ったとおりだと思う。
これから、現地での私の個人的な体験を中心にアフガン復興の歩みを詳しく紹介させていただくが、一人の外交官が任国の大統領はじめ閣僚や地方指導者(軍閥)、また国連や各国の大使・司令官などと密接に付き合いながら、アフガン復興という共通の目標に向かって仕事ができ、しかもそうした努力の結果が、遅々としたものではあるが現実の変化として実感でき、任国の国民に喜ばれるというのは、そうめったにあるものではない。私の外交官生活で、もっとも苦しく、しかし充実した二年半であったと思う。一生の思い出となり財産となった。日本にいては、絶対に得られない体験であった。
(中略)
本書では、私が現地で実際に体験したことを中心として、アフガン復興の歩みを述べていく。
国が破綻し国民の生活状況も世界で最悪の部類に属するアフガンの平和と復興の実現のためには、三つの大きな事業を同時に進める必要があった。民主的な政治体制を築くための政治プロセス、新たな国軍造りや武装解除など治安回復のための諸改革、および、経済再建と福祉向上のための開発努力である。これらのいずれもがうまくいかないと、全体の努力が水泡に帰す。そこで冒頭の三章では、これら三つの分野の流れを整理した。
アフガンの平和と復興への取り組みが、これまで多くの困難に直面しながらも大きな挫折を経験しないでやってこられたのは、イラクの場合とは異なって、国際社会がうまく協力し役割分担をしながら支援を進めてきたことが大きい。第四章ではそのことに触れつつ、次に、アフガンのような破綻国家での平和構築事業では治安確保とそのために国民の支持をいかに取り付けていくかがきわめて大きな課題となるが、その面での国際社会のアフガンでのユニークな取り組みを紹介する(第五章)。さらに、日本がアフガンの平和構築支援に携わる中で、はじめて本格的に取り組んだ治安分野の支援としてDDR(武装解除、除隊、元兵士の市民社会復帰支援)がある。私は、DDRの運営委員会の委員長としてこの作業を調整・主導する立場であったが、私にとってはもとより、日本全体にとっても経験の少ない分野であり、大変に苦労した。しかし、関係者の協力、また私がアフガンを離任したあとは後任の奥田紀宏大使のご苦労もあり、当初の実施計画が実現できる見込みとなっている。DDRを進める過程で、カルザイ大統領はじめ関係閣僚、軍閥指導者、国連の代表や各国大使、アフガンや各国の軍司令官たちと密接に付き合うこととなり、こうした人たちとの協議や駆け引きを通して大変貴重な経験をさせてもらった。第六章では、DDRの技術的な側面のみならず、DDRを進めようとする努力の中で垣間見たアフガンと国際社会の奥行きといったものを中心に論じた。
私がアフガンに赴任する直前に、東京でアフガン復興支援会議が開催され、緒方アフガン支援総理特別代表が、共同議長として会議の成功に大きな役割を果たされた。緒方代表は〇四年一二月まで代表を続けられ、その間、毎年のように現地を訪問された。私も日本への一時帰国のたびに代表にお会いして、報告するとともに示唆を仰いだ。緒方代表には、その後もJICA理事長としてアフガン支援にはことのほか気を配っていただいている。第七章では、緒方代表の知恵が大きく反映している日本のアフガン支援計画形成の背景を論じた。
第八章は、現地の事情を紹介しつつ私の大使としての喜びと悲しみを綴った。現地の雰囲気を理解していただくためにはこの章からお読みいただくのもよいであろう。
私のアフガン勤務中に日本政府は、平和構築や人間の安全保障といった課題を、日本の外交・援助政策の中心に据えたが、そうした政策課題実現の格好の現場であるアフガンでの経験からいえば、日本として従来の発想ややり方を相当に見直さなければ、破綻国家での平和構築や人間の安全保障の実現といった支援事業はかなりの危険を伴うことになる。政策の方向は正しいのだから、その実現のためにもっともっと改善努力をしていくべきであると思う。そのために、現地での経験・教訓をもとにいくつか提言を述べた(第九章)。
着任当初アフガンの現地では、大使館の常勤の職員は私一人であったが、外務本省の支援もあって、二年半後の離任の際には、邦人職員だけでも優に二〇人を超えた。大使館の同僚のみならず、JICAの職員や専門家、NGOや国際機関に勤務する邦人など、沢山の日本人に助けられての大使の仕事であった。本書では、その多くの方々に言及していない。彼らも、おのおのの責任分野で沢山の貴重な体験をしているはずであり、その結果をいずれは世の中に公表するときがくるであろうし、一部の方はすでにそうした作業をしておられる。そこで本書では、大使として私だけしか経験しえなかったような事柄を中心に記述している。
もとより日本の支援が現地で高く評価してもらえるようになったのも、厳しい環境の中で、邦人の一人一人が、また全員が一致してがんばった結果である。そのことを改めて指摘し、名前は列挙しないがお一人お一人への感謝の気持ちの表明としたい。
著者プロフィール
駒野 欽一(コマノ キンイチ)
1947年2月、東京生まれ。東京外国語大学アラビア語科中退。1970年、外務省入省。イラン・シラーズ市のパーラビ大学でペルシャ語研修。在外では、イラン(2回)・インドの日本大使館およびジュネーブの日本政府代表部に勤務。国内では、外務省経済協力局調査計画課長、大臣官房参事官(アフリカ担当)などを歴任。
2002年4月より駐アフガン特命全権大使として、現地語(ダリー語・ペルシャ語)と経済協力の経験を生かして日本のアフガン復興支援を現場でリード。2005年9月より特命全権大使として東京で、NGO・アフガン支援調整・人間の安全保障を担当。
著書・論文に、『イラン 1940 ─1980 現地資料が語る40年』(共著、中東調査会)、「The Role of Elections in the Peace-Building and Reconstruction of Afghanisan」(Asia-Pacific REVIEW, Vol.12 No.1 May 2005, Routledge)、「Compilation of Speeches on Human Security and /in Afghanistan」(July 2005, MOFA)。
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