宿題を果たした写真集
われわれは、なにも知らずにいたり、また考えもしないでいることが、「偏見」の土壌を育んでいることがよくある。ハンセン病やアイヌ民族、部落の問題しかり。「にんげん」問題なのに、対象を畏怖したり、恐怖する存在のようにみてしまうのは、たんに事実を知らないからともいえるのではないだろうか。無知と偏見は表裏である。そのままでいれば、そのさきには「差別」意識が待ち受けている。
私の「ハンセン病」との出会いは、20数年前、神戸の定時制高校の教師から「知っているか、日本列島の《らい》病は朝鮮人が背負っていることを」と詰問されたことに始まった。それまで頭のさきっぽでしか考えてこなかった知識なので、それはショックであった。それこそ「偏見」のかたまりだった。
後年、草風館を立ち上げ、当初、季刊『人間雑誌』という無広告雑誌(広告はとれそうもないのでやむなく)を刊行、林竹二・上野英信・吉田司などの硬派の書き手によるマイナーな雑誌を9号まで出して息が切れた。その最後の7〜9号の3回の口絵を元炭坑夫だった趙根在という在日朝鮮人による「日本国らい収容所」というタイトルのモノクロ写真で飾った。趙さんとの話のなかで次第に明らかになってきた、というより私のなかで蒙が啓かれたというほうが正しい、それはハンセン病に対する偏見が徐々に取り除かれていった道程である。「近代日本の絶滅政策」のただなかに押し込まれたハンセン病の患者たち、それは「収容所」という名にふさわしい社会と孤立させられた監獄だった。故郷を追われ、本名を捨てさせられた患者たち。医療行政の残酷さ、社会の無理解と偏見など……。
趙根在は、療養所の同胞(朝鮮人)に導かれながら、患者の生活のなかに飛び込み、寝食を共にしながら、彼等の素顔を撮影した。現実を透徹する写真だった。それはナミの努力でできるはずもなく、いわば天から授かった人柄と趙根在の感性があればこそといえよう。
あれから20年が過ぎた。趙さんは5年前に亡くなった。
やっと写真集を出すことができた。
ようやく宿題を果たすことができた。
この写真集の出版ができたのは、96年「らい予防法」の廃止があり、ハンセン病元患者たちが人権侵害を訴えた国賠訴訟に、昨年、勝利したことも背景にあったことは否めない。
こんな写真はもう撮れない。昔のこととはいえ、撮れないほうがいいのだ。そんな状況はないほうがいいのだから。