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落合文士村の時代

 全甲社の高橋と申します。今年は諸事情により出版については活動休止状態でした。版元日誌のお誘いをいただきありがとうございます。
 現在、高橋五山の紙芝居史をまとめる作業をしています。解説を執筆している間に新たな資料が出てきて、さらにそれを加えて、そんなことを繰り返しているうちに一年が経ってしまいました。とにかく目の前の仕事をしっかりやり遂げて、来年は新刊を出したいと思っています。

 さて今回は、全甲社のルーツを紹介したいと思います。全甲社の社主だった高橋五山は大正期より編集プロダクションを主宰していました。調査の結果、このプロダクションの名前が全甲社だったと考えられます。1931年から全甲社は出版社としてスタートしました。個人経営の小さな規模でしたが、編集力のある人たちが揃っていました。編集担当の大村主計氏は、1927年4月の日記に、「高橋五山氏の編集スタジオに入る。雑誌小学1年より6年まで編集。太田聴雨、島田啓三、新井五郎、片岡京二らと知りあう」と記しています。日本画家の太田聴雨も長い間、全甲社の出版物の執筆をしており、島田、新井、片岡も執筆陣でした。松山文雄もその一人で、自伝『赤白黒』(1969)の中で、五山の「かわった絵も一点位はまじっている方がよい」という意見で作品が採用されたことを書いています。また、宮尾しげを、阪本牙城、中野正治、芳賀まさを等、漫画家との接点もあり、様々な人が関わって児童雑誌を作っていました。
 偶然、今年の3月、五山の日記や資料が発見されたことにより、いろいろと空白部分を埋めることができました。

 ところで最近、『落合文士村』(目白学園女子短期大学国語国文科研究室編・1984)という本を入手しました。関東大震災後から第二次世界大戦前にかけて、新宿区の落合地域には、林芙美子、宮本百合子、武者小路実篤、吉川英治、壷井栄などの文人が多く住んでいました。当時、全甲社もこの落合地域にあり、大正期から戦後までここで出版活動を行っていました。そんなことで「落合文士村」について大変興味を持ちました。
高橋五山が日暮里から下落合に転居したのは1921年のことでした。その後、1935年に上落合に転居し、上落合に引っ越すと同時に児童書に加え、紙芝居の出版も手がけるようになりました。
 当時、上落合の全甲社の隣に住んでいた人から、「全甲社では年若い男性韓国人が書生のような形で勤めていて、紙芝居の事も含め色々な手伝いをしていた。その男性が、戦時中のある時不発弾を拾ってきて、これをカナヅチで叩いたのを見て周りの皆が吃驚した。砲弾型と六角形で筒型の焼夷弾とがあった」ことなどを語ってくれました。1945年5月の山手大空襲を受けて、全甲社および五山の自宅は焼失しました。その土地は借地でしたが、なんとその時の罹災証明が残っていました。 
 戦後、高橋五山を囲んで全甲社時代の仲間たちが時々集っていました。1953年6月21日、全甲社同人会の参加者の似顔絵が発見されました。

全甲社 同人会

 ここからは「落合文士村」について紹介したいと思います。関東大震災が起こった1923年、村山知義が上落合に「三角の家」と呼ばれたアトリエを構え、翌年7月に『マヴォ』を創刊しました。この雑誌は本格的なアヴァン・ギャルド誌の出現と言われ、大きく注目されました。村山はドイツ帰りの前衛芸術家、プロレタリア芸術家として活躍し、村山を中心に前衛芸術家が上落合に集うようになりました。
 この地域にはプロレタリア文学運動をめぐり3つの団体があり、上落合に本部を置く「前衛芸術家同盟(前芸)」、淀橋の「日本プロレタリア芸術連盟(プロ芸)」、そして高円寺の「労農芸術家連盟(労芸)」が互いに対抗していました。そんな中で1928年3月15日、共産主義者への政府による大量検挙が秘密裏に行われ、労働組合員、共産党員、多くの学生が全国的に検挙される事件が起きました。このような弾圧に対し、それまで分裂していた前芸(蔵原惟人ら)とプロ芸(中野重治ら)とが合体することになり、全日本無産者芸術連盟(ナップ)を結成、事務所を上落合に設けました。こうしてほとんどの左翼系文学団体はナップに加入し、上落合はプロレタリア文学・芸術の中枢地となっていったのです。
 前掲書『落合文士村』には、「昭和4、5年の文壇は落合を中心舞台にしたナップ系の独断場、といっても大袈裟でなかった」と書かれています。しかし、1930年5月にナップの指導的役割をはたしていた林房雄・立野信之・小林多喜二・中野重治・壺井繁治・橋本英吉・村山知義・片岡鉄兵ら落合文士の面々が一斉に検挙されるという事態がおきました。彼らはいずれも、「非合法の共産党に資金を供した」という容疑で起訴され、半年から10ヶ月にわたって未決に収監されました。1933年になるとますます思想弾圧が激しくなり、同年2月20日、小林多喜二が特高警察の拷問によって、まだ29歳の若さで虐殺されました。加えて、日本共産党の最高指導者であった佐野学、鍋山貞親が獄中で政治思想上の転向声明を出したことで、転向者が相次ぎ、プロレタリア文学は退潮していったのです。
 それと入れ替わるように1933年、尾崎一雄ら芸術派の作家が上落合に引っ越してきました。尾崎は檀一雄と同居し、ここに太宰治らも頻繁に訪れました。このころはプロレタリア文学と芸術派文学が入りまじった時代でしたが、やがて芸術派文学に日が当たるようになり、1935年に「芥川賞・直木賞」が創設されました。その後、多くの文士達は1941年の太平洋戦争が没発した頃には林芙美子らを除き、落合を去っていきました。

 落合地域では困難な時代に、表現する勇気と情熱を持った人たちが集まり、さまざまな先鋭的な表現活動を繰り広げてきました。その中には権力によって弾圧され命を落とす人もいました。9月28日の東京新聞に「戦争とは思想の強要」と題した、新田たつお氏による文章が掲載され、「自由に発言できる多様性のある社会を守っていかなくてはいけない」という言葉が書かれていました。
 「これ、どこかおかしいんじゃないの」という目を持って、自由に声をあげていくことが大切だと感じています。どんな世の中になっても戦争を起こさないこと、このことを意志し続けなければならないと思います。
 
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