「俳句」でもなく「川柳」でもなく
小社は主に短詩形文学、つまり短歌、俳句、川柳といった文芸の関連書籍を出版しておりますが、このジャンルの一般的なイメージはどちらかと言うと、「古典」の部類に入っているかと思われます。短歌にしても俳句にしても文語文法で歴史的仮名遣い(この言葉だけでも充分古典)を使うのが主流なのでなおさらそうなるでしょう。
実際、文語文法はれっきとした文章用の正しい日本語で、歴史的仮名遣いも論理的には現代仮名遣いよりは筋が通っているのですが、戦後のGHQの策略、日本語単純化(日本人バカ化)政策がすっかり浸透した今となっては原点回帰を望むのはとうてい無理な話でしょう。
そういった意味では短歌、俳句がいまだそれなりの支持を得ているのは関わる身としては救いでもあります。
さて、このジャンルのなかで「川柳」はかろうじて、口語で時代に即してユーモアも表現するので、現在進行形な文芸と受け止めていただけそうです。出版的にも「◯◯川柳」といったベストセラーも出ているので親近感もあると思います。ただ残念なのが「川柳」と言うとどうしてもダジャレ、言葉遊びと思われがちで、それはそれで意義は有るのですが、文芸として、詩としての川柳という意味においては俳句の影に隠れたりでなかなかオモテに出てこられません。
落丁にて候 文学史の川柳 田口麦彦
一時期、時実新子さんという作家が女性の情念を表現した『有夫恋』という句集が話題になりました。
妻をころしてゆらりゆらりと訪ね来よ
斬っても斬っても女のくらがり
ふたたびの男女となりぬ春の泥
こんな句で大いに脚光を浴び川柳界の与謝野晶子と言われたこともありました。与謝野晶子も古典と言ってしまえばそれまでですが、この流れに続く人がいればイメージは変わるかもしれません。
ネットの普及によって誰もが表現者足りうる現代、新聞の投句も川柳は爆発的にのびているそうです。そこで、そんな川柳がもっとイケてる、クールな日本の文化となるためには、まずこの「川柳」という名称そのものを変えないといけないのでは、と常日頃考えおります。
同様の発想で角川春樹氏は挑戦的に俳句を「魂の一行詩」と言い換えており、これなら川柳も入りますが、「魂の」となると・・・。その他、単に「五・七・五」と言ったりもありますが、まさに「詩」がない。
小社から近々出版する「五・七・五の一字はがき百撰〈色紙篇〉」という本の中で、著者は「五・七・五」を「諧詩」と名づけられ、これはこれでしっかり売って普及させたいところですがどうなることでしょう。
もし、これを読まれた方で「川柳」に変わるいい名称を思いつかれたら是非ご提案下さい。