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哈爾濱学院と内村剛介

 2013年10月26日、『内村剛介著作集』の「完結記念祝賀会」が恵雅堂出版の肝入りで開催された。会場は高田馬場駅前のロシア料理店「チャイカ」。当日、その全七巻と内村氏の肖像や生原稿などが飾られた会場には、未知の愛読者も含めて内村氏と近しかった人たちが集い、ひとしきり氏の軌跡とその業績を偲んだ。一同はロシア料理に舌鼓みを打ちつつ、関係者による興味深いスピーチに耳を傾けたが、そこにさらにピアノやヴァイオリン演奏も参加して愉しき会となった。
 さて、その日挨拶に立った人の中に内村氏の、今は数少なくなった学友久野公氏がおられた。二人はともに、戦前、哈爾濱学院21期生として満洲ハルビンの地で学生生活を送った仲である。久野氏は杖をつきながらもマイクを握りしめ、エピソードを交えながら往時のことどもを語った。現代史の激動の中に消え去った哈爾濱学院は今存在しないが、しかし、その学院魂はかつてそこに学んだ卒業生の胸中に確然と生き、また一冊に纏められた『哈爾濱学院史』の中にある、と。


 その哈爾濱学院は、大正9年、「ロシア語」「ロシア学」の修得を通じて「国家枢要の人材」を養成すべく設立された。初代院長井田孝平の下、当初、日露協会学校として出発した同校には、ハルビンという異国情緒の魅力も加わって全国各地から俊秀たちが集まった。わが国ロシア語教育の歴史において、東に八杉貞利あれば、西に井田孝平ありと言われたその井田は、東京外国語学校において薫陶を受けた長谷川辰之助(二葉亭四迷)の系譜を引き継いだ「ロシア語」を目指したとされている。
 哈爾濱学院の「ロシア語」とは、「東京大学あるいは東京外国語大学の特徴が科学的、文法重視、学問的、観念的と仮にしますと、哈爾濱学院の井田ロシヤ語の特徴は、実用的、具体的、客観的、現実的、生きたロシア語……ロシアの土地とロシア人の肌の匂いのする生のロシア語」(胡麻本蔦一)であったと言われている。
 さて、昭和14年、満洲の主要都市を歴訪した東京外国語学校の八杉貞利は、同地におけるロシア語研究と学習の隆盛に愕然とし、特に哈爾濱学院の財政面、設備面での充実ぶりに驚かされる。そして、帰国後、一語部だけの官立学校ではロシア語だけを専門にする哈爾濱学院には到底かなわないとの危機感から、外国語学校露語部の同窓会「露西亜会」の強化に乗り出す。
 すなわち、彼は同会の会則を改定し、露語部学生に欠けている政治、経済、法律、文化面の知識を補うべく、よりいっそう卒業生のもたらす新知識に期待をかけたのである。「隣邦事情に対する知識の欠如はかねてから指摘されていたところであり、この欠陥を是正することが強大な競争者に伍して落伍者にならないために必要である」という理由からであるが、このとき「強大な競争者」として哈爾濱学院が念頭にあったことは言うまでもない。
 しかし、そうした八杉の努力にもかかわらず、東京外国語学校露語部は、大勢として軍国主義の流れに逆らえず、教授除村吉太郎の強制退職やロシア人教師の一斉追放といった事態を迎えるに至る。また、すでにそれより以前にロシア文学の雄、早稲田大学に至っては露文科自体が廃止の憂き目にあっている。
 「ロシアの土地とロシア人の肌の匂いのする生のロシア語」を目指した哈爾濱学院は、さすがに最後までロシア人ネイティブを追放することはなかったが、しかし、歴史の非情に翻弄されたその運命は、内地の学校の比ではなかった。昭和20年、敗戦とともに同学院は廃絶、澁谷院長自刃といった結末の中に没してゆかざるをえなかったからである。
 さて、「日本―ロシア」間の交易に活躍する実業人や文化交流に挺身する人士の育成を目指した学院の遺志は、今、上智大学哈爾濱学院顕彰基金として生き続けている。そして、今年もまた4月、桜の咲乱れる中、同学院の記念碑祭がやってくる。
 
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