吉本隆明と内村剛介
今年前半、わが国の文芸ジャーナリズムで突出して話題となったことの一つに吉本隆明氏の逝去(3月16日)があったように思います。それはまさに「事件」と呼んでもいいほどであり、新聞各紙は「戦後思想の巨人」が世を去ったと報じ、また多くの雑誌はこぞって特集号や別冊を組んでその死を悼みました。そしてその余韻は今も静かに続いていると言えるかも知れません。近年一人の文学者の死がこれほど、言わば社会的注目を浴びたという意味では、記憶する限りあの三島由紀夫自決事件以来ではないでしょうか。ただ、三島がいわば壮年の頂点で劇的に自裁して果てたのに比し、吉本氏は大正から昭和、さらに平成の時代を生き抜き、生ある限り直面する課題を「考え抜く」というあり方を最後まで手放さなかったように思います。
ところで、その吉本氏と言えば、私にとって特に思い出深いのは、恵雅堂出版から『内村剛介ロングインタビュー』を上梓する際、氏が暖かい、過褒と言ってよい序文を寄せてくれたことです。当時、すでに眼が不自由になっておられた氏でしたが、私がおずおずと電話で依頼したとき、氏は即座に「わかりました。書きましょう」と快諾してくれた、あの明るい声が今も耳に残っています。後日送って下さったその原稿はいささか不揃いな文字が並んでいましたが、しかし明らかにそれは紛れもない吉本隆明の文章であって、私もまた即座にお礼の手紙をお送りしたのでした。
その吉本氏には、また恵雅堂出版『内村剛介著作集』の推薦者にも名を連ねていただきました。その短い推薦文において吉本氏はズバリ内村剛介を評して「ロシア文学の味読の仕方からウォッカの呑み方に至るまで」手に取るように語りうる人、そしてその語り口からは「いつも新鮮な角度でロシアの大地が見えた」と述べています。
さて、この肝胆相照らすすともいうべき両者の機縁はそもそもいつどこで生まれたのでしょうか。上記『インタビュー』でも触れられていますが、長い抑留生活から帰国して三年目(一九六〇年)、内村氏がようやく或る商事会社に職をえた頃、たまたま本屋で吉本隆明のエッセイを立ち読みしたのがその切っ掛けであったらしい。たかが「立ち読み」というなかれ。その第一印象を内村剛介は「ここには世間的コミュニケーションに絶望し、世界から全く孤絶した人間がいる」という衝撃であったと述べています。すなわち、内村剛介ははじめて読んだ吉本の行文から、やはり当時シベリア帰りの鬱屈を抱いたまま甚だしいコミュニケーション不全に陥っていた自分と同型の人間を見出したのだと思われます。「ぼくが真実を語ると世界が凍る」という吉本詩の言葉に彼が深い共感を寄せる理由がここにあります。
さて、吉本隆明より4歳年上の内村剛介が、一足早く世を去ったとき、吉本氏は「追悼・内村剛介さん」というインタビューに応じ、あらためて内村剛介の今日的評価を述べています。そこで吉本氏は内村剛介を、二葉亭四迷につながるロシア学の最後の学徒と位置づけ、「自分一個で旧ソ連邦全体と向き合った」真の意味でのロシア通であったと述べています(『東京新聞』2009年2月9日)。ロシアとは何か、そして21世紀の日本と日本人はこの厄介なロシアとどのように付き合っていくべきか。目下刊行中の『内村剛介著作集』には、生涯を通じてそのテーマと向かい合った内村剛介が、私たちに残した多くのヒントと重要な智恵が随所に満ちていると言っていいでしょう。