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12月14日のこと、故・江口淳さんのこと

 昨年12月14日に、版元ドットコム主催で「《本屋的人間》について」と題して話をさせていただきました。当日のことを、スピーカーの立場から振り返ります。かなりの日にちが過ぎていることを、はじめにお詫びします。

 「《本屋的人間》について」は、その2カ月前の10月17日に版元ドットコムが開いてくれた「プレトーク」に続くものでした。
 「プレトーク」は、『「本屋」は死なない』が刊行される10日あまり前に開かれました。この段階で何を話すか。企画者との相談の結果、自分が新文化通信社でどんな仕事をし、なぜ辞めるに至ったか、それは本を書いたこととどう関係しているか、を話すことにしました。
 『「本屋」は死なない』の取材対象は主に書店であり、その点では「新文化」にいた頃と同じです。だが、視点のあて方や取材の方法、書き方がこれまでとは違う。最後は読んだ人に判断していただくしかないが、まず僕からは、違う、と伝える必要があった。企画者にも、そうした場を僕に提供する意図があったと思います。
 今回の「アフタートーク」にも、同様の意図がありました。複数回やる、という考えが企画者には最初からあったようです。テーマがなかなか決まらず、最後は企画者が提案してくれて「《本屋的人間》について」と決まりました。この演題は、ふだん出版業界内で議論されている、書店の粗利の低さ、取引条件、流通の弊害、あるいは本そのものが売れなくなってきている状況をどう改善するか、といった「ビジネス」の話ではない、という意味でもありました。年の瀬に、普段とはすこし違う角度から書店のことを考えてもらう機会があってもいいし、底のところでは「ビジネス」とも無関係ではない・・かもしれない。

はじめに50分ほどをかけて、次のような話をしました。

(1)《本屋的人間》という言葉は、僕や企画者の造語ではない。『「本屋」は死なない』のなかで、定有堂書店の奈良敏行さんが3枚のプリントをくれる場面があり、そのプリントのタイトルから拝借した。はじめにそれを説明し、プリントに書かれた内容を紹介した。

(2)では《本屋的人間》とは何か? 『「本屋」は死なない』の中から、関連するいくつかの場面、登場人物の言葉を紹介した。
・「本屋」のつくる棚は常に流れている。
・汎用性のあるビジネスノウハウを生み出す存在ではない。
・ある著者の本を2作とも買おうとした「僕」に、奈良さんは1作しか売らなかった。あるいは「僕」に、店の商品をプレゼントした。
・「本屋」は「複雑な双方向性」のなかで生かされていることに自覚的である。
・「自己の存在がどんどん小さくなっていった」。「本屋」にとっての主役は、本を受け取る相手=客である。
・自らを売上と利益(=数字)で説明しない。明瞭な数字は一見すると現実的だが、「本屋」の実像はそれだけで説明できない。

(3)「本屋」とは、「店」というより広義の「ひと」をさしている。書店主、書店員だけが「本屋」ではない。では、どんな人が「本屋」なのか? 例として、今回の本を通じて知り合った東京の大学図書館に務める女性、敬愛する作家の髙部雨市氏、NPO法人「ファザーリングジャパン」代表・安藤哲也氏の3氏の話をした。

 このあと、質疑応答に移りました。延べ8人から質問がありました。そして僕は、そのほとんどに対して、まともな答えを返せませんでした。
 振り返ると、その理由は2つあります。
 ひとつは、僕が様ざまな質問に応じる態勢へと頭を切り替えられなかったためです。それまで話していた《本屋的人間》というキーワードが、ずっと頭を占めていたのでした。
 とくに、たびたび長く沈黙し、質問者にやや強い言葉を返してしまうこともあったのは、その質問内容が原因でした。「あなたは個人に集中して書店のことを書き、今日も語っているが、実際は多くの書店が1人の職人では成立しない規模や状況で働いている」「そういう職人を必要としない状況が進んでいる問題をどうすべきか」「個人ではなく、チームとしての書店はどうやっていけばよいか」といったものです。
 僕はあくまでも「ひとりひとり」に語りかけたいことがあって本を書いたし、今日もそういう演題を設定している、既存の書店業の改善案を話すことはもうできないから業界紙を離れたのだ、10月の「プレトーク」でもそう言ったではないか・・マイクの前で沈黙しながら、そう思っている時間もありました。
 だが、これは我ながら完全に矛盾しています。まず、トークのはじめに僕は「今日はこういう(上のような)話をするので、質疑応答ではテーマと違うことでも何でも尋ねてください」と宣言しているからです。質問者の側に問題は一切ありません。
 それらの質問をする人にとって、僕はあくまでも「元『新文化』」の人間である。これも場所によっては当然のことです。実際のところ本を出す前後から、相手が僕のことを「元『新文化』の石橋」としてのみ捉えているために誤解が生じたり驚かせたりしてしまう、ということが何度もありました。自分はこれまでとは違う、だがこれまでの延長線上にもいる。両方が混在して今の自分があるようです。自分自身が、今もその狭間で戸惑っている。
 もうひとつの理由は、この日の参加者のなかに、今年1月7日に急逝された江口淳さん(元芳林堂書店、元ブックガーデン)がいたから。
 「組織としての『本屋』」をどう考えるか。この日の僕はそれについて、結論には程遠いものの、まったく話せないわけでもありませんでした。そういう質問があることを予想もしていたのです。1月に刊行された「新潮45」のなかで《芳林堂がめざした「理想の書店」》という題で記事を書いています。その原稿が、ほぼまとまった頃でした。
だがこの日、僕は芳林堂には触れないことにしていました。それは会が始まる直前、会場に江口さんが来ているのを知ったからです。

 江口さんときちんと言葉を交わしたのは、たぶん通算10数回。よく知っている、といえるお付合いではありませんでした。
 初めて会ったときは、すでに芳林堂ではなく、埼玉のブックガーデンという書店チェーンの店長をされていました。僕は出版社で書店回りの営業をしていましたが、当時の印象はほとんど残っていません。
 新文化の記者になってからは、たしか2度、取材で店に行きました。
 通路のあちこちに段ボール箱が投げだすように置かれていて、なかには長編のコミックスが10巻ずつくらい、ビニールパックされて入っている。
 車で来る客が多いんだ、こうやってまとめて置いとけばあいつら買っていく、実際に箱ごと抱えて出ていくからね、と言っていた。多くの店と同じように、棚に並ぶコミックスは一冊一冊、ビニールでくるまれていましたが、棚を眺めている客を見つけたら立ち読み歓迎だといって破いて渡してる、とも言っていた。後に、コミックシュリンク機のトップメーカーであるダイワハイテックスの人から「あれは買っていただくときに綺麗な状態で渡すことが目的で、立ち読みをさせないためではなかった」という話を聞いたとき、江口さんのことを思い出しました。
 業界では有名な話だが、客注は受けない、という方針を直接聞いたこともありました。入荷に時間がかかり過ぎること、欲しい本を流通事情のせいで待つ必要は無いことを説明し、他店で買うのを勧める。近隣の店や、すこし離れた大型店の状況を把握しておき、時にはその場で店に電話をかけ、今からウチの客がそっちへ行くからあの本をとっといて、と伝える。車で行けばすぐなんだから、客も待ってないでちょっとぐらい動けばいいんだよ・・。
 いずれも、ブックオフがまだ今より少なく、アマゾンも日本に上陸していない頃の話です。
 新人時代は、なんだかスゴイ人だなあと思っても、話があまりにまっとうだとかえって、ヘエ、といって終わってしまう。だが年数がたつと、書店に限らず、まっとうなことほど困難な現場がいかに多いかがわかってくる。そこではじめて、埼玉のあの店はすごかったんだ、と思いだす。車で来る客とコミック好きの客が多いという自店の特性と流通の現状を照らし合わせ、できることを率直に実践している、まっとうな店長があそこにはいたのだな、と。
 そして、やるべきことを率直に、まっとうに実践する人というのはたいてい、ちょっと変わっているのかもしれません。

 その後、江口さんはフリーの営業代行のような仕事を始めました。話す機会があると、請け負っている吉本隆明の関連書などについて聞かせてくれたり、○○書店の○○という女性店員が熱心で有望だ、と教えてくれたりした(次に話すと「彼女は駄目だ」と言ったりした)。神保町でたまたま出くわし、すると江口さんはリュックサックから少し前の「新文化」を取り出し、特集記事には傍線が大量に引かれていて、ここはよかった、ここはわかってない、とあれこれ意見をいただくこともあった。
 エキセントリックな人だ、と言われていました。「言ってわからない奴は殴る」のが方針で、実際に被害者が少なからずいたと聞きます。奴は包丁ふりまわしながら歩いてるようなものだ、という人もいた。僕が直に接した限りでは、言葉を選んで話す、気遣いをする人という印象もあった。
 ただ一点だけ・・・電話の長いのには閉口することもありました。
 数年前のある日、夜中の1時頃。会社にひとり残って原稿を書いていたら電話がなった。こんな時間に誰だろうと受話器をあげ、新文化通信社ですと名乗ると、ああ江口ですけど、と早口で言った電話の主は、あれ? と呟き、すこし沈黙しました。たぶん、かける先を間違えたのだろう。ところが江口さんは、ああ、そういえばこのまえの記事は・・とすぐに話を始めました。そこから先は、詳しく覚えていません。出版業界全体についての話もあったし、勉強になる話もあったように思うし、一出版社や一個人についての悪口もあった。話は切れ目なくつづき、やっと電話を切ると窓の外はうっすらと白み始めており、原稿どうしよう、と絶望的な気分になった。
 江口さんは何かに憑かれたように大量の言葉を吐き出し続けていた。そもそも、誰に電話をかけるつもりだったのか? 
 似たような思い出のある人が、たぶん大勢いらっしゃるのではないか。

 江口さんは、『「本屋」は死なない』について、ツイッターで熱心に反応なさっていました。ときには過剰なほど。批判されているようでも、面白がられているようでもありました。江口さんが中心人物のひとりであった「1970年代の芳林堂書店」について僕が書くことを御本人は知っていたから、なおさら興味を持ったのかもしれない。様ざまなことに研究熱心な方であったようなので、江口さんにとってはひとつの生活習慣に過ぎなかったのだろうとも思います。

 トークの当日、その江口さんが来ていることを会場で知った僕は、質疑応答のときなどに芳林堂のことを自ら話題にすべきか、すこし迷いました。
 そのとき江口さんがどう反応するか・・1対1の会話であれば、聞きたいことはたくさんある。だが、人の集まっている場所だ。こちらの話を受けて、誰が何を話しだすかも予想できない・・。そこで、芳林堂の話はしない、と決めたのでした。
 エキセントリックな人、という意識が僕を支配していた。いま、どう思っているかはお察しのとおりです。これほど深く後悔したことはない。守りに入った結果、僕はとんでもない過ちを犯したのです。
 トークの後、江口さんは僕のところまで来てくださいました。そして、はい年賀状、と葉書を渡してきて、あなたもいろいろ大変だね、と言った。芳林堂について書いていることを報告し、いずれは江口さんにも・・と話しました。それに江口さんがどんな反応をしたか・・これがどうしても思い出せない。
 まだ12月半ばなのに渡された「年賀状」に目を落とすと、ツイッターをやっていることを説明するメモ書きのような一文が書きなぐってありました。僕がネット上で発信をしないので、知らないと思ったのかもしれない。
 葉書の礼も感想も述べる間もなく、じゃあね、と江口さんは会場から去っていきました。

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