ひとつの国の終わり
最近、「チャット・ルーレット」という無作為に世界のユーザーとウェブ画像を通じてチャットが楽しめるサイトをロシアの高校生が発明したと、新聞に出ていた。ふっふっふ、似たようなことなら私は子どもの頃からやっているぞ。書棚の前に行き、目をつむって手をのばし、つかんだ本を読んでみる。興味がわく・わかないは関係ない。面白くて一気に読んでしまう、そんな素敵な出会いもあれば、中途で投げ出したくなる、そんな出会いもあった。書店や図書館があればブック・ルーレットで遊べて、本という1人の人間に出会える。
本の集まりである書店は、一つの国だと思う。どこかの町で書店を見つけるとどうしても入ってみたくなるのは、そこに新しいグループ(=その書店が選んだ種類の本の集まり)があるかもしれない、その書店特有の法律や町並み(=売るテーマや特色)があるかもしれないと、新しい刺激やカルチャー・ショックを期待するからだ。人との出会いが一期一会なら、本との出会いも同じに感じる。そのとき買わなければ、もう一度買おうという意思すらなくなることがある。
ひとつの書店が閉じると、ひとつの国がなくなってしまったような気持ちになる。新しい出会いの場が、なくなってしまったように感じる。
神保町の書店「アジア文庫」店主の大野さんが、今年初めに亡くなった。
モンゴルにはまり、留学しようとしていた時。アジア文庫に初めて友人に連れて行かれた、十数年前。薄暗いイメージの店内、マニアックだなあ、いかがわしいなあと感じさせるタイの本やテープが、レジ近くに置かれていたような記憶がある。イメージだったかもしれない。友人はタイが好きで、嬉しげに書棚にかじりついていた。レジにいた、店主らしい男性は愛想無い感じで、モンゴルの本はどこかとお尋ねすると、ぼそぼそと、丁寧でやはり愛想の無いのに変化はないお返事だった。店を出てから友人は、あの店主さんは結構有名だと思う、と言った。すごくない?アジアの本がこんなにあるところ、ないわよ。
10年以上たって久しぶりに行くと、アジア文庫は以前とは違うところにあった。店内も以前とは違う明るいイメージである。相変わらずゴージャスなのは、自然に笑みがこぼれてしまうくらい、ここにある全てがアジアについての本だということ。今ではネットで、興味のある国や地域について書かれた本を探せばいくらでも、読みたい本の候補だの関連性のある本だのは出てくるが、まったく興味の無い国というのにはあまり行き当たらない。自分で検索しないのだから、当たり前だ。
アジア文庫の場合、店内どこを歩いてもアジアの本。私の好きなブータンの、お守りに似たものが本の表紙に写っていたり、本の題名を見てもしや類似性があるのでは?と思えばそれが探してもいなかったタイの本でも自然と目に飛び込んできて、手にとってしまう。書店だから起こる、幸福な出会いだと思う。
自分がアジア好きで、なのにどの書店に行ってもアジアの本はなかなか見つからないせいか、アジア文庫に足を踏み入れると毎回感動した。自分を取り巻く全ての書棚がアジア。アジア文庫にいるとき、「アジアを語る人々」の国に私は旅行していた。
自分がめこんと関わるようになり、大野さんとお知り合いになった。お付き合いの浅い身ながら、本の話を何かお尋ねすると的確に答えるだけでなく、こちらの意図も汲み取ってさらっと答えてくださり、いつも、そこはかとない優しさとマイペースさと、隠れたユーモアをオーラにまとっていらした。出版社のめこんと、そこに出入りする方々とで毎月開く、有志で集まる勉強会。大野さんはたいてい参加してくださって、いつも物静かに一番後ろに、謙虚に座っておられる。
その会に、昨年の10月頃から大野さんの姿が見えず、お忙しいのかな?と思っていた。
国の主を失ったあと、ビルの5階にあったアジア文庫はもともと入っていたビルの3階に、縮小されて入ることになった。
引越しした後のアジア文庫に行くと、国別の棚に貼り付けられた国名が、なぜかひときわ目立って目につく。THAI、VIETNAM、・・・新たな場所に移動した後を見て、改めて、アジアの国ごとの棚が作られているというすごさに驚いた。棚を眺めていると、ぎゅうぎゅうだった書棚の中が、なんとなく緩んできているような気がした。それは王様をなくして呆然とした民たちが、所在をなくしているかのように見えた。
「大野さんだって湿っぽくやって欲しくはないだろう。大野さんはお酒がお好きだったし、ギターがご趣味だったみたいだし。アジア学芸会みたいな会にしよう」という主催者の勝手な(?)話し合いのもとに、5月22日、大野さんのお別れ会が開かれる。
(http://www.mekong-publishing.com/asiabunko522.html)
アジアに多い仏教の考えに従えば、大野さんはそろそろ、次に生まれる場所を探しておられるかもしれない。それとも苦笑しながら、「またヒトをだしにして、お酒飲む口実にして」と眺めておられるかもしれない。
大野さんのご冥福を心よりお祈りしつつ。