クチン、「猫」という名の街で
●マカン アンギン――風を食べる
ボルネオには、26ともいわれる多くの先住民少数民族と、マレー系、中国系、インド系の人々が生活している。
このおおきな島の北側、おおざっぱに4分の1はマレーシア領(半島のマレーシアに対し東マレーシアという)であり、南4分の3はインドネシア領で、カリマンタンとよばれる。
人口50万を抱えるここクチンは、ボルネオ島サラワク州の州都である。
だいたい、ボルネオやカリマンタンは、マレー語でどういう意味なのだろう。意味があるのかしら。クチンは、猫という意味だそうである。
ついでにマレー語で、犬はアンジン、ニワトリはアヤム、風はアンギン。
ラブアン島に住む友人礼子によると、旅をするというのを、「マカン アンギン」――風を食べる、というそうだ。旅情を誘われる。しかし、1字違いで「マカン アンジン」になると、「犬を食べる」になり、とたんに散文的になる。「まちがえないでね」と彼女。
礼子は、「アジアの女たちの会」時代の友人である。JATANというNGOにかかわり、熱帯林伐採反対運動でヘンリーと出会った。反対運動のリーダー的存在だった先住民のリーダーのヘンリーに、彼女がいうのに「二目惚れ」し、結婚した。
わたしたち3人ー友人のふじえさん、息子の直人とわたしは、サラワク川の南側遊歩道の歴史プレートを、拾い読みしながら歩く。
サラワク川は、この街を南と北にわける。おまけに「市庁も2人いる」とタクシーの運転手。南市は、旧市街、観光の中心である。中国系の人たちが多い。インド人、中国人街、オープンマーケット、アンティークマーケットがあり、断然南がおもしろい。クチン市庁舎、警察署も南にある。
北市は、行政の中心である。州庁舎、州議会、州立図書館(ここを最後の日に訪ねた)アスタナ宮殿、マルゲリータ砦、猫博物館、がある。マレー系が住む。
川のほとりのアスタナ宮殿の、優美なたたずまいが南の岸からもみえる。第2代白人王チャールズ・ブルックが妻への、結婚のプレゼントとして建てたという。
「豪勢な結婚祝いよね」わたしがおもわずもらすと、
「あら、でもここまで来てくれてありがとうって、新婚の妻にごきげんとらなきゃいけなかったっていうことじゃない」とふじえさん。なるほどね。現在はサラワク州元首公邸である。観光資源として夜はライトアップされている。
●ジャングルのトレッキング
クチン周辺に広がる大自然は国立公園として整備され、世界の観光客を集めている。日本人観光客は、今年は去年より少ないという。
歴史プレートの1枚に、ここが1941年から1945年9月まで日本に占領されていた、とある。その前はイギリス領だった。観光客はイギリス人が多い。
わたしたちは、熱帯雨林のトレッキングに、バコ国立公園を選んだ。退職後を楽しんでいるとみられる2組の初老のイギリス人カップルに、ウツボカズラが見られるというコースの途中で出会った。
50代の博物館員のような女性ガイドが、立ち止まって説明をしていた。
ウツボカズラを探しあぐねていたわたしたちはガイドさんに、「ウツボカズラこの辺にありますか」と、たずねる。
「ちょっと待って…。ここよ、これこれ」
中学の理科の教科書に出ていたウツボカズラにはじめて会えた瞬間だった。ピッチャープラントという英語名のウツボカズラの特徴を説明してくれた。
「このピッチャーの上から、たとえば、蟻がはいっていくの、ピチャーの内側からいいにおいが出ていてそれに引き寄せられるのね。いちど中に入ってしまうと、ピッチャーの壁はつるつるしていて、這い出ようと思っても這い上がれないの、そしてこの蓋が閉まる。ピッチャーの底には酵素が入った液体があって、蟻を溶かしてしまう。大きいものだとネズミも溶かしてしまうのよ。後には骨が残るだけ」
ここで、一同感動!——わたしはあとで通訳してもらって感動! 残った骨は、どうなるのか。聞き損じた。
ピッチャーをのぞいてみると、底のほうに透明の液体が溜まっている。小動物を栄養源として成長する。植物なのに、動物を栄養源とするのね。
さらに、説明は続く。
「これは蔓科の植物で、蔓はとっても丈夫で、木を縛ったりするのにも使います」ということ。地元の人たちは、カゴを編んだり、背負いカゴをつくったりするのに欠かせないということかもしれない。
お礼を言って、別れた。
すてきなガイドさんからうけた、野外授業だった。
●ジャパニーズ・オキュペーション
サラワク河のほとり、南市に、ホリデー・イン、ヒルトン、ハーバービューのホテルが並んでいる。私たちは、「十分な設備のうえに料金が安い」とガイドブック(つまり『地球の歩き方』ですが)に紹介されていたハーバービュウホテルをインタネットで予約した。
3人部屋で、1泊220リンギット(日本円だと5500円ぐらい。3人で割るから、割安)。ビュッフェスタイルの朝飯は、16リンギット。部屋は、ほどほどの広さで、サラワク川が眼下にみえ、ロケーションは抜群、町歩きには最適。
この町を日本が占領したのは、1941年12月24日、オーストラリア軍によって1945年9月(天皇の玉音放送とはずれがある)解放されるまでの約3年半の占領である。
日本は、石油が出るミリにまず上陸し、その後この地を占領した。
最近まで、わたしはこの町の名前すらしらなかった。いくつかの出来事によって、このクチンの街に惹きつけられた。
ひとつは、『三人は帰った』。作家アグネス・キースが抑留されていた民間人収容所が、ここにあった。ボルネオの捕虜収容所を統括した日本軍の責任者スガが、『三人は帰った』に登場する。スガはこの収容所での暮らしを書いてほしいと、アグネスに依頼し、彼女と小さな息子を、時々自室に招いてお茶をともにしている。敗戦後の戦争裁判でラブアン島に送られるが、そこで自殺した。
おなじ抑留所に、連合国軍捕虜イギリス人フランク・ベルが抑留されていた。そのフランク・ベルと5人の若きイギリス人の物語を、シャーウィン裕子さんが書いた。彼女はいまイギリスに暮らす日本人の作家である。
そして、二つ目は、太平洋戦争のさなか日本軍に徴用され、抑留所の監視員とされた台湾人の存在。彼らは戦後、捕虜虐待の罪で、BC級戦犯に問われた。その中の1人に、林水木がいる。
アグネス・キースは『三人は帰った』のなかの最後のほうで、台湾人監視員について1行だけ触れている。それが林かどうかはわからないが。
クチンについた翌日、抑留所があった場所を訪ねた。タクシーの運転手がつれていってくれたのは、南市の南へ15分ほど走ったところ。キースが抑留され、台湾人の青年が監視員にされ、イギリス人の青年フランク・ベルが飢餓状態のなかで生き延びるための秘密の学校を開いていたところである。現在は、バトゥリンタン師範大学が設立されている。ネームプレートを下げた職員らしい女性に、「戦争のメモリアルが他に遺されていませんか」尋ねた、それだけだということ。あとで、他の資料をみると、そこに捕虜収容所が1棟保存されていることがわかったのだが。
わたしたちが見つけたその記念碑にはつぎのように刻まれている。
「この記念碑は、後世のために戦争捕虜抑留所のあった場所を記念するものである。
そして、勇敢な男たちや女たちが自由のために、この地で命を落とした、ということを代々にわたって、語り継ぐためである」
その犠牲が、日本軍の占領によってひきおこされたということは、書かれていない。
(★フランク・ベルを含む6人の若者の物語、『それでもぼくは生きぬいた』(シャーウィン裕子著)は、11月末に梨の木舎から刊行します。)
クチン4日目、最後の日に、わたしたちは州立図書館を訪ね、日本占領時代の資料を探す。ジャパン・オキュペーション時代のものは、特別室にあり、検索の結果、6冊。そのうちの1冊は、図書館に併設された書店に在庫されていた。2005年の刊行で、25パーセントのディスカウント、64リンギット(定価80リンギット)で購入(書名は”Pussy’s in the well”)。
在庫のない2冊の必要箇所をコピーさせてもらう。コピーするためには、名前をコンピュータに登録し、カードをもらう。そのカードを係の人にみせて、コピー券を5リンギットで購入し自分でコピーする。
(★マレーシアのガイドブック『旅行ガイドにないアジアを歩くーーマレーシア』(高嶋伸欣・関口龍一・鈴木晶著)は来年の2月刊行の予定。ラブアン島に住む礼子もコラムを書く)
サラワク川を、サンパン(渡し船)が行ったり来たりするのを、岸から眺めるのも楽しい。サラワク川はここから20キロ西にゆったりと流れ、南シナ海にそそぐ。