《真っ当なもの》にちょっと違和感(否定形にて御免)
お題1:ロック親父の戯言と聞き流していただければ……。
さて、母親あるいは両親への感謝の歌、ヒットしているようです。親の無償の愛に対しての「感謝」、結婚しこどもを持ち次代へと続く「家族の存在」。真っ当な,疑う余地のない《愛》への讃歌。しかしというべきか? だからというべきか? 近年の、すべてが自己責任であるかのような風潮とあわせて考えるとき、何か不安を感じてしまいます。つまり,「政府や役所は責任持てません。庶民は自己責任で生きていってください」「親の面倒をみるのはこどもの義務でしょ。それが日本の美徳です」といった行政の無策に,全く抵抗しない世代の準備に一役買っているようで…。
どうやらこれは、20年ほど前に発生した《自分応援ソング》の流れの上にありそうです。社会の仕組みや経済のあり方への抗議や疑問はさておいて、“おい自分!がんばれ!自分ががんばればきっと未来は開けるさ!”という《ひっくり返った自己肯定》(=これからがんばろうと思っている今の自分を肯定する)的な考え方をベースにした楽曲群(と分析しているのですが…)。この考え方について、今思いつく《危うさ》は3つ。
- 自己変革が必要→それに気づいた俺ってステージ上がったかも!→既に生まれ変わった自分がいると錯覚→今の自分を肯定→現状肯定、という危うさ。
- がんばろうという決意からのスタート→がんばりの成功→問題は社会のありようなど外のものではなく、自分の心の持ちようという内なるものなのだ という精神主義につながる危うさ。
- 行動してはみたが成功しなかった自分や、がんばることができない他者を否定してしまう、(つまり「自己否定・自己責任」ですね)という危うさ。
バブルの時代を挟んでも、いまだ主流であり続けるこの流れ。一般的には好景気(バブル)の時代は全ての人が恩恵を被ったハッピーな時代と思いがちですが、若年層は常に「自分でがんばれ」と抑圧され続けてきたのですね、疑問も持てずに。
この延長線上に、今の《真っ当な歌たち》があるように思えます。もちろん、歌には、作り手(アーティスト)/送り手(メディア)/受け手(リスナー)がいて、それぞれの想い・思惑・感じ方があります。作品は受け手の側に最終決定権があるのですから、感じ方は自由、意地悪くいえば「自分に都合いいように解釈してOK」なのです。が、しかし、社会保障や福祉が削られていく今、「母さんありがとう」と歌いっぱなし、感動しっぱなしでいいのでしょうか?《アートが権力に奉仕させられた時代》を、そしてニヤリと笑いながら上記3者を眺めている人たちがいる事を、忘れてはいけないと思っています。
お題2:「品格」が ないというほど 品がなし
「品格」にかんしては既に論評し尽くされているでしょう。また、拙稿は評論にはほど遠いのを承知で一言。
「品格」を語るという事は、発言者は現代に「品格」を持たない人たちが多いと感じているのでしょう。客観的に語っているようで、他者に対して「あなたに品格はありません」と言っている訳です。他人を俎上にのせると言うのは、「まあ、俺たちも人の事は言えないけど…」と言いながら下世話な話を仲間内でするときにする行為です。品格ある人が他者に向かってそういう物言いをするものでしょうか? その人や地域の文化・背景を深く理解した上で、それでもいわざるを得ない《愛情から出た言葉》でしょうか? それともあれらは《トンでも○○》なのでしょうか?
「品」とか「格」、あるいは「徳」といったものは、あるとすばらしいものかもしれません。しかし、そういったものを持つ人を尊敬こそすれ、持たない人が普通。「品格」を目的にした努力など本末転倒。現に今いる(ある)人(国)をはかる基準としては全く向いていません。(と断言)
いきなりまとめです。
2つのお題の共通項は、言葉の持つ(何となく批判しがたい)イメージ。そんなイメージに引きずられず、リアルな当事者としての自分を意識する。つい現状肯定に流されてしまう自分がいますが、こころしていきたい課題です。
ちなみに、お題2の作者の柳号は〈在庫切〉。(=品(しな)がない)という落ちの一席でした。